5,強襲<ASSAULT>

 冷水によって禊を終えたサクラが部屋に戻ると、ネルが十字架の前に片膝を突いてしゃがんでいた。

 まるで天使が祈りでも捧げているようだった。しんと静まり返った部屋の中、血染めの十字架の前で両手を合わせるその姿は彼女らしくて美しい。今にも教会の鐘の音が聞こえてきそうだ。そんな姿にサクラは陶然と見入ってしまう。

 だがよく見ると彼女は祈っているのではなく、腰に差していた鉈を器用に使って表面に固着した血液を削り取っていた。どうやらサクラの血液を採取して何か調べているようだ。


「……あの」


 サクラは話しかけた。作業に集中しているのか、ネルはこちらを向かなかった。


「ひょっとして……お姉さんが私のケガを治してくださったんですか……?」


 ネルは答えない。


「……だとしたら、その……ありがとう、ございます……!」


 サクラは感謝の言葉を口にした。

 自分でもおかしいとは思っていた。徹底的に嬲ったのは目の前の相手なのに、その当人に向ってありがとうございますとはなんだ。常人が聞けば気でも狂ったのかと笑いだすに違いない。

 だがサクラには考えがあった。それは次の通り。


 現状、私が取れる選択肢は三つ。

 一つは全てを諦めて、人形のように心を固く閉ざすこと。でもこれじゃ何の解決にもならない。ただ死を待つだけだ。

 二つはここの人たちに徹底抗戦を仕掛けること。幸い拘束からは解放されたし、あとは不意を突いて銃でも奪えればここから脱出できるかもしれない。

 だけどそんなアクション映画のヒロインみたいな事が私にできるとは思えないし、もし失敗すれば次は今度こそ殺されるかもしれない。リスクが大きすぎる。

 だから私は三つめの選択肢を選ぶことにした。怒りや悲しみを鎮め、情報を集めながらチャンスを伺うのだ。


 サクラにはこの選択肢が一番現実的に思えていた。このネルという人物はかなりの情報を持っていると、そう判断したからだ。


「……」


 そんな考えから意思疎通を図ろうとしたサクラだったが、ネルは一切反応を示さなかった。拒絶の意志すら示さずに、ひたすら己が作業に没頭していた。まるでサクラなどこの部屋に居ないかのような態度である。


 無視。

 でもここで引くわけにはいかない。

 なんとか情報を聞き出さないと、永遠にここから出られなくなる。


 そう思ったサクラは、勇気を振り絞って更に質問し続けた。


「あの、私、どうしてここにいるんでしょう……? ここどこなんです?……みなさん武器を持ってるんですから、きっと兵士さんなんですよね? するとここは軍隊の基地なんでしょうか……捕まってるって事は私、きっと悪いことをしたんですよね……? でしたらその……謝りたいんですけど……」


 ネルは答えない。

 沈黙がサクラの不安を加速させる。一切情報を与えられないこの状況では、何よりも沈黙が恐ろしい。次の瞬間また訳も分からずブン殴られるかもしれないのである。そう考えただけでサクラは頭がどうにかなりそうだった。

 するとネルが立ち上がった。彼女は無言のままサクラに近づくと、彼の首の後ろに手を回し銀色の首輪を嵌める。この部屋の壁と全く同じ色をしたそれは首に装着すると自動で締まり、ゴムバンドのようにサクラの喉笛を締め上げた。


「……これは……?」

「センサーで爆発する爆薬が仕掛けてある。この部屋を出ると自動で爆発する」


 淡々と語るネルに、サクラは絶望した。

 それじゃ、一生この部屋から出られないじゃない!?


「どうして……ッ!? どうしてなんですか!? 私が一体何をしたっていうの!?」


 余りの理不尽な扱いに、とうとうサクラは叫んだ。


「……」


 そんな彼女の訴えを、ネルはまたも無視する。その鋼鉄の面皮からは如何なる感情も漏れ出ない。


「理由もないのに私をこんな目に遭わせてるんですか!?」


 ネルはいかにも恐ろしい相手だったが、それでもサクラは退けなかった。

 一刻も早くこんな場所から出たい。

 その一心で相手に食らいつく。


「自分の胸に聞け」


 するとネルがポツリと答えた。哀しみとも怒りとも付かない落ち着いた声音だった。


「!? 自分じゃ解らないからアナタに聞いてるんでしょ!? 意味ないこと言わないでよ!!」


 怒りに任せて叫ぶと、ネルの眼だけが此方を向いた。相変わらず何の感情もない眼だったが、そこに何か言外の圧を感じさせられたサクラは思わず後ずさった。


「……わっ……私を、どうするつもりなんですか……!?」

「言ったはずだ。このままここで生きていろと」


 ネルの口から放たれたのは銃弾の如き言葉であった。それだってサクラにしてみればまだ銃弾の方が良かっただろう。少なくとも自分を殺してくれる。


 このままここで生きる?

 いつ殺されるかも解らないまま、こんな所でいつまでも暮らせっていうの!?


 内心サクラがそう思っていると、ネルは床に畳んで置いていたスタンドカラーのトレンチコートに袖を通し、そのまま部屋を立ち去ろうとした。


「どこいくんですか!? まだ話の途中なのに!!」

「経過報告だ。すぐに戻る」


 軍人的な口調でそう呟くと同時に、ネルが振り返る。

 何か尋常ではない様子だった。鋭く目を細めて反対側の壁をジッと見ている。やがてサクラの前を横切ると、手を翳して壁に掌大の穴を開けた。すると外から車のハイビームのような眩しい光が入り込んでくる。それはどうやら懐中電灯の光らしい。暗い室内と比べるとかなりの光量があったが、サクラの目は不思議とすぐに慣れた。

 銀色の壁の向こうには、同じ銀色をした廊下があった。その穴の向こうに完全武装の兵士がL字型の懐中電灯を持って立っている。どうやら廊下の照明は落ちているらしい。


「ネル! 『ヤツ』だ! 第九地区公園ゲート付近にSサイズが一頭! レベル4『塔』付近に同じサイズがもう一頭!!」

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