4,禊<Misogi>

「…………?」


 恐る恐る目を開ける。するとネルが自分の足元に屈んで何かやっているのが見えた。呆然と眺めているうちに足元の枷まで外されてしまう。


「わッぶッ!?」


 拘束を解かれたサクラは重力の作用に従い、つんのめる形で足元に居たネルの背中に覆いかぶさってしまった。途端に針のような怖気が全身を刺し貫く。


「ひッ!!?!」


 恐慌状態に陥ったサクラは、バッとネルの背から飛び退く。そして銀褐色の床の上を毬のように弾み、途中で転びそうになるも顔面からぶつかるようにして十字架のあった場所とは反対側の壁に両手を突いた。首だけ振り返ると、いきなり捕まえられて人間の住居へと放り込まれた野生の子猫のような瞳でネルを見る。


「……」


 一方ネルは屈んだまま、顔だけ此方に向けてやはり黙っていた。不気味に動かない。やがて緩慢な動作で立ち上がると部屋の隅を指差す。

 指された先をサクラが見れば、壁に手のひら大のくぼみがあった。彼女の目にはそれがドアノブのように見える。


「手洗いはそこだ。体も洗える」


 ネルが淡々とした口調で言った。サクラはしばし呆然として佇むと、「ッ!?」思い出したように汚れた体を両腕で隠した。




 ネルに示された部屋に入ってみると、そこはいわゆる三点式のユニットバスだった。樹脂製のパネルによって組み立てられた広さおよそ一坪のそこに、トイレと洗面所と浴室が詰まっている。


「一日の水使用量は十リットル。それ以上は出ない」


 入る際にネルに注意された。相変わらず冷淡な口調だった。


 ……怖い……!


 サクラは言い知れぬ不安に顔を引き攣らせていた。

 どうして体を洗えと言われたのか解らない。自分を風呂に浸からせて、今度は何を企んでいるのだろう。突然浴室に入ってきて、水責めにでもするつもりなのだろうか。サクラは思う。

 それでもせっかくの機会を逃してはなるまいと思い、サクラは錆で赤茶けた浴槽に限度量ギリギリまで水を貯めた。少なくとも今すぐ殺されるというわけではない。だったら体を綺麗にしながら脱出の方法でも考えようと、そう思ったのである。


「ひゃうんッ!?」


 冷え切った浴槽に片足を突っ込むと、余りの冷たさに子犬のような声が漏れた。その場で足踏みする。

 それでも入らずにはいられない。血、汗、その他、サクラの体は余りにも穢れていた。彼女は大事な水を何度も手杓で掬っては体に振りかけた。水はすぐに温い泥水へと変わる。


 こんな時だけど、体を洗えるって気持ちいい……!!


 サクラは純粋に喜んだ。下水のように冷たく汚れているが、それでも慣れれば天国である。彼女の桜色をした唇が自然な形に吊り上がった。

 やがてリフレッシュしたサクラは浴室を出た。備え付けのボディタオルで髪を挟んで、大量の水気をふき取る。

 すると急に個室の扉が開いた。ギョッとして振り向くと、ネルが鉄板みたいな顔で両手に何か持って立っていた。


「忘れ物だ」


 きっと体を洗っているうちに用意してくれたのだろう。ネルの手には着替えらしき空色のガウンがあった。まるで入院中の患者が着る病衣のような服で、一緒に下着と思わしきブラトップが折りたたまれてある。それを見ただけでサクラは恥ずかしい気持ちになった。


「えっ?……あっ、はっ、そのっ……すみませ……ッ!?」


 すっかり動揺してしまった彼女は、何がすまないのか解らないままバッとタオルで体を隠し、茹蛸のように赤く染まった顔でお辞儀をした。

 それからやっと病衣を受け取って、再度ネルの顔色を伺う。

 同性とはいえ、傍でジロジロ見られていると着替え辛い。


「衣類の洗濯は三日に一度。必要があるものは洗面台脇の洗濯籠に入れておけ」


 果たしてその事に気付いてくれたのだろうか、ネルはそれだけ言うとピシャリ、扉を閉めた。サクラは反射的に鍵をかけようとしたが、そもそも扉には鍵がない。


 ……お風呂も洗濯もプライベートも、ここじゃ全部必要最低限ってことか……!


 サクラは思ってため息を吐く。そして洗面所の鏡に映る自分を見た。白い額縁のような長方形の内側に少女が立っている。

 年の頃は十四。身長146センチ体重36・2キロ。未だ乙女と分化し切らない未成熟な体を持ち、薄ピンク色の髪を目が隠れる程度に伸ばしている。サクラは気付かなかったが、その瞳には薄っすらとした赤い線で八芒緋星オクタグラムが刻まれていた。

 そんな、いかにも頼りなさげな自分の姿を見るうち、サクラは不安になってきた。綺麗に折り畳んだタオルを枕のように抱きしめて彼女は思う。


 私、これからどうなるんだろう。

 体を洗って、着替えて……また、昨日みたいにイジメられるのかな。またあの十字架に磔にされて、殴られたりドリル使われたりして酷い目に遭わされちゃうのかな。


「う……うっ、うぅ……ッ」


 サクラの脳裏に昨日の出来事がありありと浮かんできた。途端に足が震え出し、頭を抱えてうずくまる。目と耳の奥でズキズキと鈍痛がした。メリメリと内部から肌が裂ける音が聞こえる気がする。


 どうしよう、怖い……ッ!

 でも考えなくちゃ……!

 自分が助かる道を……!

 なんとかしなくちゃ……!


 怯えてばかりいても仕方がない事は、サクラ本人が一番よく解っていた。昨日あれほど助けてくれと訴えたのに、誰も彼女を助けてはくれなかったではないか。


 そうだ。

 十字架に磔にされていた時、みんな物凄い眼で私の事を睨みつけてきた。

 ここじゃ私、相当嫌われているみたい。

 でも、どうして嫌われてるんだろう?

 理由なんてないのかも。みんな訳もなく私を嬲って、ただ楽しんでるだけなんだ。あのお猿さんみたいな騒ぎっぷりを思い返せば、そんな気もしてくる。


 サクラはすっかり悲観的になっていた。その小さな背中に孤独が一層重く伸し掛かる。


「……」


 更に数分が経って髪が半ばまでしっとり乾いたころ、ようやくサクラは立ち上がった。すると鏡に映る少女……この上なく不安そうに此方を見つめている自分……と目が合う。

 サクラは片手で胸を押さえ深呼吸をした。その手を鏡にペタリとつけて、そこに映る自分に向かって「……大丈夫」優しく声をかける。


 今はチャンスを伺おう。

 情報を集め、脱出の策を練って、ここから逃げ出すの。

 ほら、なんとかなりそうじゃない。

 私たちならできる。

 きっと無事にここを脱出できるよ。

 だから泣かないで、サクラ。

 私が居るじゃない。


 サクラは鏡の中の自分を慰めようとしていた。鏡に映った自分を別人と捉えることで、追い詰められた現状から距離を取り、冷静になろうとしたのだ。

 だが鏡の中の自分は今にも泣き出しそうな顔でこちらを見つめ続けていた。その泣き顔が笑顔に変わることはない。


 ――私の味方は、私しかいないんだ……!


 サクラは震える肩を両手で抱きしめると、もう一度その場にうずくまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る