2,兵たちの憎しみ

 サクラは口を開こうとした。

 その瞬間、


「ッ!?!?!?」


 死滅的な破壊音が、サクラの口蓋より頭蓋骨内部に向かって響き渡った。雷でも落ちたような衝撃が顔面を横殴りに襲って、彼女の意識が一瞬途絶える。

 いきなり天使が拳を握り、サクラの顔面をぶん殴ったのだ。女とは、いや人間とは思えない力だった。その力によってサクラの首はねじれ、前歯が吹っ飛んで顎の肉が抉れてしまったのである。十字架に打ち付けられたままの手足も千切れんばかりに揺さぶられた。

 余りの激痛に、サクラは瞬間的に恐慌状態に陥る。愕然としたまま目だけで少女を見た。すると天使が再び拳を握った。


「はっ……!? やっ……やえて、ください(止めてください)! たっ、たふへてくだはい(助けてください)ッ!!」


 サクラは痛みを堪えて叫んだ。閉じなくなった口の端から血脂の混じった赤い涎を滴る。

 だが天使は答えない。中手骨にサクラの折れた前歯が突き刺さり、青く内出血を起こしているその拳で天使はなおもサクラを激しく殴打する。ブロー、ブロー、アッパー、ブロー。その衝撃に部屋全体が揺れ、十字架を壁に固定していた鋼鉄製のリベットが幾つかはじけ飛んだ。損壊は十字架だけに留まらず部屋の厚さ五百センチにも及ぶ耐爆強化壁がアルミ箔のように拳の形に歪んだ。


「ソフィア。カルマ。ノーレア。シュティル。カナン。アルセイド。インターロック。オーバーブレイド。アルマントン。ペルーダ。フラカン。グリンカムビ。フロス。クレタ。アマリリス。オグン。ラティ。チョールヌィ。ヒルデガンド。ミールディン。メニヤ。ユースティア。オリゲネス。ノイア。ノーナ。ルキナ。ルミナ。アルマーク。リトー。ロビン。ガヨー。ロコ。アイム。アルデラミン。ギブリン。サブナック。カン。ムーシュ。サウレ。ユーサー。コインドット。クレア。ザイード。ジェラルディン。ガドガダ。ベアトリクス。アビィ。レイモシー。セオドン。ヴァレンス。ストレイト。エリオット。ルックハルト。キスリング。パーシヴァル。ドビー。アハブ。イゼベル。マルサネス。ヘルムート……」


 天使は一発殴る度に人名らしきものを口にしていった。それはまるで死者を憐れむ聖者が如き厳かな声で、彼女が振るっている暴力とは対極の位置にあるものだった。なぜ目の前の人物が人名を口にしているのか、またどうして傷ましい様な視線を時折自分に向けるのか、サクラには何一つとして理解できない。

 やがて人名の数が百を超えた頃、サクラはとうとう拘束から逃れる事ができた。なぜなら彼女の手足は永久に十字架に留められたままとなったからだ。天使の振るう拳の威力が強すぎて、二の腕や腿の肉を骨ごと拳で潰し切ってしまったのである。彼女が着させられていた白い拘束服も既に血濡れの襤褸切れと化していた。

 四肢を失ったサクラは前のめりに崩れ落ちた。鼻っ面を血の池に打ち付け、ぜえぜえと荒く呼吸をしながら自分の血脂で冷たくなった床を這いまわる。


「ッ……ッ………ッ!!!!」


 もはや悲鳴すら上げられず、サクラは床を這いずって逃げようとした。だが柔く固まりつつある血溜まりが逃走を妨げる。

 そんなサクラのすぐ傍に天使が音もなく歩み寄った。既に死臭すら漂う現場だが、天使は表情をピクリとも動かさない。機械のような左右対称の顔で淡々と刑を執行し続ける。


「ひッぎゃあんッ!!!?」


 続けざまにサクラはわき腹を蹴り上げられた。まだ銀色だった天井に頭を打ち付け、真っ逆さまに床に落ちる。わき腹を中心として、雷が直撃したような激痛と、冷たいオイルでもぶっかけられたような寒気が彼女の全身を刺し貫く。金属壁をも凹ませる天使の一撃が腹を突き抜けて内臓を破裂させたのだ。


「……ッ……ウ……ッ!?」


 出血は優に五リットルを越えていた。身長二メートル超の大男でもとっくに意識を消失し死亡している量である。だがそれでもサクラは死なない。意識さえ消えない。


「あっ……あっ……たすへ……ッ」


 もはや縋る先もなく、サクラは周りの兵士たちに助けを求めた。その瞬間まるで警報でも鳴らされたかのように、兵士が揃って銃を突き付け、軽蔑とも威嚇ともとれる険しい眼でジッとサクラを睨んだ。


「ひ……ッ!」


 まるで殺人者を見やる被害者家族のようなその視線に、サクラは物理的にも精神的にも小さくなったその体を縮こませて震えあがった。


「こいつ情けねえ面してやがるぜ!!」

「誰がてめえなんざ助けるかよ!!!」

「死ね化け物!!!!」

「大人しく死ね!!!」


 兵士たちが口々にサクラを罵倒し出す。

 これほどまでに痛めつけながら、それでも彼らの心からサクラに対する憎しみは消えなかった。

 その事実に、一番の当事者であるサクラは憤慨する。


 どうして……!

 どうしてこんな目に遭わされなきゃいけないの……ッ!?


 サクラは再度問いたかった。それはそうだろう。この場の誰にもサクラをいたぶる権利などないはずである。その反面、彼女には幾らでも彼らを糾弾できる理由がある気がしていた。自分のような女を閉じ込めて私刑リンチするような連中が悪人でないはずがない。

 だがサクラは問い質せなかった。なぜ自分が真実を問い質せないのか解らない。正義が自分にあるならば、どうして気後れする必要があるだろう。理由などは聞いてしまえばいい。

 そう思いながらもサクラは、


「え……へへ……えっ……うぇへへ……ッ!」


 笑った。無理に無様に無作為に笑おうとした。

 どうして自分は笑っているのだろう?

 痛みで気が狂ってしまったのだろうか?

 サクラは己に問う。その答えは単純にして明解である。

 恐怖。

 底知れぬ恐怖が、サクラの理性を押し固めていた。自分が何をしたのか、それを問い質そうとした瞬間から体が硬直して思考が完全に停止してしまったのである。そうなるともう何も考えられない。

 いったい何が自分をこんなにも追い詰めるのか。それが解らないサクラは、現状自分が取り得る最善の選択をした。憐れみを買うことで許しを乞い、何の責任も果たさぬまま眼前の恐怖から逃れようとしたのである。そのためにサクラは自分を一層の愚か者に見せることに決めた。こんなにも痛めつけられ、今にも死にそうだというのに、それを執行している連中に向って阿諛追従の笑みを浮かべたのである。

 私は哀れでか弱い女の子なんです。

 だから許してください、と。

 それが自分にできる唯一の現状解決策なのだと、サクラは思い込もうとしていた。


「こいつ……笑ってるぜ……!」


 すると呟いたのは、副隊長と思わしき鳶色の鳥頭をした兵士。彼のギリシャ彫刻の如き端正な細面の口端が、釣り糸に引っかけられたように引き攣っている。その表情は呆れというより戦慄に近い。どうして彼女がここまで自己を貶められるのか、この十年ずっと戦場で戦ってきた鳥頭には寸毫も解らない。

 事実彼がサクラだったら、自分を捕らえた相手を逆に質問攻めにしてやるか、さもなくばこの場に居る連中をだろう。少なくとも目の前のこの哀れな小娘のように、自らの零した血肉に塗れ、脳漿混じりの鼻水を垂らし、玉になった鼻血を喉の奥から吐き出しながらも、その暴力を振るった相手に対して赦しを乞うような真似だけは絶対にしない。

 確かにそれはその通りである。だが今のサクラには直前の記憶がない。

 自分がどうしてこのような場所で、素性も解らない連中から痛めつけられているのか解らないのだ。加えてそれを問い質すこともできないとあれば、ただ無様に赦しを乞うより他に方法はない。サクラはそう決めていた。


「……あっ、あの……ッ……わッ……わたひッ……なんでも、ひます……! 皆さんの言うこと、なんだって、聞きます……!! おせんたくでも、おそうじでも、かいものでも……なんでもします……よろこんでやらせていただきますから……ッ……だから命だけは……! おねがいひます……たすへへ……ください……ッ!!」


 サクラが涙ながらに乞うた。

 微笑によって歪んだアーモンド形の目から水晶のような涙が溢れ出す。


「フンッ! この期に及んでよくそんな事が言えるわねこのクズ! 恥ずかしくないのかしら!?」


 すると年端もいかぬ少女兵が歩み出て、サクラの側頭部に銃口を突き付けて言った。不織布の膝丈ワンピース型軍服をダークな琥珀アンバー色の首輪と足輪で瀟洒に着込んだその姿は、兵士というより軍服を着たお嬢様のように見える。また耳を覆うフリッツ型の戦闘ヘルメットの間から覗くプラチナブロンドの直毛には、鳶色の鳥の羽の髪留めが付けられていた。


「ガブ」


 するとその隣で銃を構えていた、痩せぎすで目元に少し影のある黒髪眼鏡の青年兵が彼女を制止した。彼だけは軍服の代わりに白衣を着ている。


「ダメだよ。ネル隊長が言ってただろ。私以外手を出すなって」

「止めないでよレフ! ネル! わたしやっぱこいつ許せない!! だって見てよこの顔! 自分だけは助かりたいなんて気持ちでこいつッ……ホントふざけないで……ッ!」


 ガブと呼ばれた少女兵が怒り顔で訴える。


「……ッ!」


 一方サクラは大量の涙を流していた。それは悔し涙だった。

 自分はただ許して欲しいだけなのだ。それだけのために泣いて喚いて媚び諂って、地べたを這いずりながら何でもしますとまで言ったのに、目の前のこの人たちはただ嘲るだけで少しも自分を許してくれない。その事に彼女は憤っていた。


 言いたいことばっかり言って!!

 こんな暴力を振るわれたら命乞いをするのが普通じゃないの!!

 っていうか、どうして私がこんな酷い目に遭わなくちゃならないのよ!?


 内心の怒りに突き動かされるようにして、サクラは目の前のガブを睨みつけた。彼女の円らだった瞳がごろごろと音を立てて左右に動き出す。サクラは今なら視線でこの場の兵士たちを皆殺しにできる気がしていた。その瞳に微かな光が宿る。


「……」


 するとネルと呼ばれた少女……濡れ羽色のボディーアーマーを装着し、つい先ほどまでサクラを嬲っていた銀髪銀眼の天使……が再度片手を挙げた。三白眼の瞳を左に柔らかく滑らせて、今にもサクラに噛みつきそうな程に歯を食いしばっているガブに目配せをする。

 それだけでガブは頷き、隊の最後尾に退いた。直前の激高具合から考えれば信じられないような大人しさであったが、それほどまでにこのネルを信頼しているのだろう。他の兵士たちもそれに倣った。


「今、なんでもするといったな」


 初めてネルがサクラに話しかけた。先に多くの人名を口にしていた時と同様、厳かで慈悲深い聖者のような声音だ。

 その声音を聞いた時、サクラは直感的に今度こそ自分が助かる機会を与えられたのだと思い込んだ。それで一分前の怒りも忘れ、だらしなく口元を緩めて、真っ赤な涎を零しながら子犬のようにその身を捩って黒いブーツの足元に縋りついた。舐めろと言われればブーツでも何でも喜んで舐めるつもりだった。


「は、はいッ……! 私ッ……なんでもしますッ!! だからッ!!!」


 藁にも縋る思いでサクラは赦しを乞うた。

 だが。


「お前はなにもしなくていい。ただ嬲られろ」


 最早慈悲など欠片もない、愛情その他一切を排した声音でネルは無慈悲に告げた。

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