第9話

 早朝に学校の近くを通る幹線道路で事故があった。交通事故は珍しい事ではなかったが、その影響が通勤時間にまで尾を引いて付近の道路が渋滞した。松岡校長もその渋滞に巻き込まれてしまい、途中で学校へ遅れることを電話連絡した。力石はいつも始業時間の一時間前には学校に着いていたので、多少の渋滞では慌てることはなかった。それでもいつもより二十分遅れた。八時二十五分になった時、彼は二階の職員室の窓から校門を見た。教師は誰も居ない。

「遅刻指導の先生はすぐに校門に行ってください」

 力石は何度も大声を出したが、各学年から一名ずつの担当者は渋滞の影響かまだ誰も来ていなかった。

「これはたいへんだ。誰でもいいから代わりに校門に出てよ」

 こう言って力石は近くにいた二名の教員をむりやり引っ張って行った。教員用の下足室で靴に履き替えながら、彼は事務室にあるチャイムに直結した時計と腕時計とを見比べた。それから秒針までぴたりと合わした。遅刻指導をする時にはいつもやっていることだった。

 門のそばに着いてまた時計を見ると三十分になっていた。生徒はまだまばらにしか登校して来ない。どこの学校でも同じようなものだが、始業前の五、六分の間に千名ほどの生徒がなだれ込む。やがて三十五分になった。

「あと、五分で門を閉めるぞ、急げ!」

 力石が両手を口に当てて道路に向かって大声で怒鳴った。見るみる生徒の集団の嵩が増してくる。指導に当っていた教員のうち誰が門扉を閉めるかは決まってはいない。だが、力石は無意識に門扉の後ろ端の方へ走った。三人の体格、腕力、それに遅刻指導の提案者であることを考えれば当然、自分が閉めるべきものと思い込んでいた。なによりも他の二人はまったくやる気なしの風体で手持ち無沙汰に立っているだけだった。

 バス通学の生徒は一割いる。交通事情が悪かったり、雨の日には必ずといっていいほどバスは遅れた。バス利用者には、遅れる可能性があることを見越して一本早い便に乗れ、と指導はしていたが、実際には担任がバスによる遅刻はそれを確認して取り消していた。この事は生徒も知っていた。

 美和はバス通学であった。彼女は指導を守って時間の早い便に乗っていたので、入学以来二年生の現在まで一度も遅刻をしたことがなかった。それどころか欠席、早退さえ全くなかった。もちろん体調の悪い時もあったが、学校は絶対に休むまい、と自分に言い聞かせて登校した。かなり悪い時などは家を出た後で、母親が心配になり担任に、大丈夫でしょうかと連絡を取ったことさえあった。美和は母が必死に働いて学費や生活費を稼いでくれていることを思うと、一時間でも授業を無駄にしたくなかった。

 この朝はもたもたした訳でもないのにどうしてか、いつもの便に乗り遅れた。それで次に来たバスに乗った。今までにも稀にこの時間のバスに乗ったが、通常の運行ならば学校には充分に間に合っていた。

 バスは途中までは順調に走った。ところが学校が近づくにつれて、事故の影響でノロノロ運転になってきた。美和は不安になってソワソワと前方の車や信号に目を向けていた。

「アラ、ミワじゃない?珍しいわね、このバスに乗るなんて」

 振り向くと隣のクラスの恭子だった。就学旅行中の喫煙で停学になった後でも口紅を付けて、短いスカートをはいて学校へ来ていた。

「間に合うかしら?」

 心配そうに美和が尋ねると恭子は余裕の笑みを見せる。

「そんなにイライラしなくたって大丈夫よ。このバスに乗っておれば授業に遅れたって遅刻にはならないから」

 確かにそうではあったが、授業中に教室に入ることで教師やクラスの者に迷惑をかけることは美和にとっては大変に苦痛なことだった。学校の近くのバス停に着いた時は門の閉まる三分前だった。思い切り走れば時間に何とか間に合うと思った。彼女はバスを降りるなり疾走した。恭子は悠々と後を歩いていた。

「あと、三十秒だ!門を閉めてゆくぞ」

 太い声を力石が出した。そしてゆっくりと門扉を動かし始める。生徒が最も慌てるのはこの時であった。門扉や門柱にぶつかるのもかまわずに全力で走り込んでくる。説教をされてグランドを走らされたり、親を呼ばれたりすることを考えれば少々痛い思いをしても門を通り抜けるに越したことはなかった。力石は門扉を途中で止めて時計の秒針を見た。

「あと、十秒だ!八、七、六・・・」

 彼の声は大騒ぎをして門を通る生徒の声にかき消されもせず、道路までよく響いた。他の二人の教師は相変わらずぼんやりとポケットに手を入れて立っている。力石はふと不安になって、門扉から離れて外側の様子を見た。塊になった生徒が必死になって前の者を押しているなかに、弱そうな女子のところを無茶苦茶に押し退けて近づいた男子生徒がいる。哲弘だった。力石が教育委員会から処分を受ける原因となった遅刻指導の時、哲弘は閉まりかけた門扉を押し戻してきた。哲弘の居る位置を見れば、ちょうど門扉を締めると挟まれる状態になると思えた。力石は素早く門扉に戻った。そして俯いて腕に力を入れ、時計を見た。

「二、一、ゼロ。ヨシッ、閉めるぞーッ!」

 チャイムがのんびりと鳴り始めた。 力石は哲弘に押し戻されないように全身の力で押した。積み重なった怨念が、今晴れる事を心に念じた。

 閉切ろうとした時、哲弘の反発力でもない、またいつものクッションに当たって止まるのとも違った手応えを力石は感じた。と同時にあれほど騒がしかった周囲が一瞬、静寂に染まった。

 彼は力を抜いて門扉から離れ、門柱を見た。口から大量の血を流している美和の顔がドサリと地に落ちた。門の外から悲鳴が上がり、すぐに校舎に広がり、悲鳴のるつぼになった。

 だが、力石にはまったく聞こえなかった。静寂が続いていた。その静寂のなかで美和の顔が母親に変わった。悲しく笑っていた。彼は母親なら許して欲しいと祈った。

 力石は崩れるように四つん這いになっていた。美和の倒れたすぐ後ろには哲弘が茫然と立っていた。

 哲弘は女子を押し分けて進み、閉まりかけた門扉の直前で、目の前に肩で息している美和を認めた。哲弘は美和を押し退けて通れば間に合うと思った。しかし、それは彼女への思いからできなかった。その代わりに美和を遅刻させないように両手で押したのだった。


 車で通勤していた松岡校長も渋滞で遅れたため、ちょうどバス停の所で、学校全体が異常な状況にあるのを見て取った。

彼は何を思ったか学校への道を逸れて車を走らせた。

「君子危うきに近寄らず」

 松岡校長は日頃の信念に従った判断をした。

             (おわり)

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校門圧死事件 大和田光也 @minami5

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