第8話
写真を撮られたミワと呼ばれている子は、藤川美和と言って校内では少々有名な女子生徒だった。どうして有名になったのかというと、年一回行われる作文大会で、最優秀賞をとったからである。文書を書くことが嫌いな生徒達が増えている中で、藤川美和は長文の作文をうまく書いていた。その内容は、図書館から発刊される冊子に全文が載ったので、多くの生徒たちが読んで感動し、話題に上ったものであった。
その作文の題名は『お母さんありがとう』というもので、内容は次のようなものであった。
私の両親は、私が小学一年のころ、離婚してしまった。そのころ私が何を思い、何を考えていたのかは自分でもほとんど記憶がない。でも、母から急に離婚の話を聞かされたときは、それまで両親はとても仲がよいと思っていたので信じられなくて大変なショックだったのは記憶に残っている。
私は幼かったこともあって、何も考えられなくて、涙が次々と出てきて、母の前で大泣きをしてしまった。今思えば、あの時、一番つらかったのは間違いなく母に違いがなかった。だから、しばらく時間がたって私が落ち着いてから、母が玄関先で声を出して泣いていた光景だけは今でもはっきりと覚えている。
私は一人っ子で、いつも母と一緒に過ごしていて、母が大好きだった。
母は離婚後も以前と同じように明るい。だれにも言えないことを心の中にため込んで、胸が痛くなるような思いをすることがあるのだろうに、私にはいつも明るく接してくれる。それを感じると母は素晴らしいなと思う。本当にこの母の娘でよかったと強く感じる。
ただ一度だけ母が耐えられないような状態になったときがあった。それは母の一番の理解者であった祖母が亡くなったときだった。母はその時からほとんど食事もとらずに毎日泣いていた。ベランダから外を見て、
「このまま飛び降りたい」と何度も言っていた。しかし私はそんな母を止めようとしなかった。これまでどれほど自分を殺して生きてきたのか、子供ながらにもその苦労が少しでもわかるような気がするから。
母がそうしたいのなら、周りのことなど気にせずに、行動してほしいと思った。それで母が幸せになるなら自由にさせてあげたいと思った。でも、もちろん、母は飛び降りなかった。そのうなだれた後ろ姿を見ると、私がいるから、踏みとどまって生きていてくれるのだなあと直感した。
母はこのことを乗り越えた後はまた明るくなった。いや、ずいぶん強い人になったと思う。その姿を見ると、弱い私にもあの強い母の血が流れていることを感じ、ずいぶん勇気づけられる。
母は、はっきりとものを言うようになった。良いことは良い、悪いことは悪い、言わなければならないことは、たとえ目上の人でも会社の上司でもためらわずに言っているようだった。そして、いざというときには自分の身を犠牲にしてでも子供の私を守る母のその強さに私は何度も感動した。
私は泣き虫だった。泣いている私を見ては母は私を抱き締めてくれた。その時の母のぬくもりは私を大変落ち着かせてくれた。その温かさを感じながら、私も母のように強くなろうと決意することもできた。
小学校高学年のころ、自分のお母さんについて書く作文の授業があった。そして授業参観の時にその作文を発表するものだった。私は何を書いたのかは、自分ではよく覚えていないが、母のことをすごくほめた内容だったらしい。母はそれが大変うれしかったようで、今でもよく、笑ってその話を持ち出したりする。私はそんな母を逆に抱き締めたくなる。
私は母が大好きだったけれど、それでも中学のころから何かにつけて母に反抗してしまう自分を、自分の中で発見をすることになった。母に対して申し訳なく思い悪いとは思っていても、自分でもよくわからないけれど、母のありがたみが分かっているのに、ついつい反抗をしてしまう時期があった。
時にはひどくけんかをして、そのまま寝てしまった。翌朝目を覚ましてみると、朝食、弁当、着替えなどいつものように母が準備をしてくれていた。もし私が母の立場であったとしたら、わが子といえどもあんなケンカをした翌朝には不機嫌に接するのに、と思って、母の胸に抱きついて、謝って泣きたい衝動にかられた。けれども、どういうわけかしらけた顔しかできなかった。
普段そんな状態なので、母の日や母の誕生日など特別な日くらいは素直に気持ちを伝えたいと思って、手紙を書いてプレゼントした。母は大変うれしそうな笑顔になった。私は母のその笑顔が好きで、いつまでもこの瞬間を大切にしたいと思った。その後私は年齢を重ねるごとに、自分でも不思議でならなかったが、母への反抗の気持ちは霧のように消えていった。そしてまた、母と一体不二のような気持ちになった。
高校になって、ある時、捜し物をしていた時、ふと母の持ち物を見ていると、あのころに書いた私の手紙を大切な宝物ようにしまっているのを見つけたことがあった。私は母の思いというものは私の想像を超えた深いものなのだと感謝した。
私がある程度、大人の気持ちが分かるようになったころに、父親との離婚についても話題になった。その時、母は、
「私の見る目がなかった。ごめんね」とすがすがしく言って私に謝った。
「お母さん、強くなったね」と私が言うと、
「だって、あの時、一生分、泣いてやったもの。もう涙を出す必要ないのよ」と笑いながら言った。
今、母は忙しい。毎日、パートタイムを朝も昼も夜も入れている。家にいる時間は本当に短い。それだけ働くのは、もちろん生活のためだし、なにより、私を大学に進学させてくれるためのお金を準備するためだ。
そのうえ、帰ってくるとすぐに家事をする。ほとんど四六時中休んでいる時などないように思える。もちろん私も家事を積極的にしているつもりだけれど、母から見るとまだまだ抜けていることが多いに違いない。
それでも、時々、母と買い物に行く時がある。デパートなどに行くと、私が見たい洋服を一緒にみてくれた上に買ってくれる。でも、母は自分のものはほとんど買わない。買わないというよりむしろ買えないのではないだろうか。本当はほしいのだけれど私のために我慢しているのだと思う。母が体を粉にして稼いだ給料の多くを私のために使ってくれているのだと思うと、私は申し訳なく思い、しっかりと勉強して、できるだけ学費の安い大学に行こうと決意をしている。
そして、働きだしたなら、最初の給料で何よりも母が欲しがっているもの必ず買います。
お母さん、私はあなたの子でよかった。幸せです。
この作文は、多くの生徒たちに読まれて大きな反響を呼び、生徒一人一人の心の中に人間としての生き方のすばらしさを感じさせることができた作品だった。
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