第3話

 翌日、呼ばれて校長室に入って、力石は面喰らった。校長、教頭はもちろんそろっているが、それ以外に哲弘の父親、地元選出の地方議員、その秘書らしい男、それに哲弘本人もふんぞり返って座っていた。

「前回、息子からトイレの件で疑われたということを聞いた時は、先生方も一生懸命になって教育活動をなされているのだから、時には間違いもあると思って何も言いませんでした。むしろ、疑われるような事を口にする息子に注意しました。しかし、今回はあまりにもひどい。門が締まる前に入っておれば遅刻ではないと言っておきながら、服を引っ掛け破いてまで息子を遅刻にしていまい、その上、暴力的に走らせるなど異常としか言いようがない。放置しておく事は個人の問題を越えて社会的に許される事ではありません。ですから、正式に筋を通させてもらいます」

 哲弘の父親は堂々とした、反面、威圧的な態度であった。議員を動かせるだけの立場があるに違いなかった。

「いったい何が言いたいのですか。筋を通されて困るような事は僕にはありません」

 頬を引きつらせてかたくなに力石が答える。

「ほんとうに、そう思われているのであれば、あなたの考えが道理にかなっているのか、それともお父さんのおっしゃっている事が道理なのか、公平な第三者の判断を仰ぐことになりますよ。私どもはお互いに大人ですから説得の必要を感じていません。今日来たのも学校やあなたに抗議をしに来た訳ではありません。あなたの行為を確認し、それに対して管理職が適切な処置をとろうとしているのかを聞きに来たのです。その結果、お父さんが納得がいかなければ公にするだけです。それにしても、とにかく来てよかった。校長は何も知らなかったのですから」

 議員が野太い声で言う。力石がいきり立って何か言おうとした時、校長の松岡が手を振って制した。

「力石君、君の言い分もあるだろうが、行き過ぎた面があったことも事実だから、謝るべきはあやまらねばならないよ。それに、今回の事件を校長としいて私はまったく報告を受けていず、知らなかったというのも遺憾なことです」

 低いだみ声で諭すように言う。力石は黙って俯いた。彼は人情家であった。裏返せば人情に弱く脆い男であった。時には理性や信念よりも人情を優先させる感激家でもあった。

「申し訳ありませんでした」

 しばらくしてから力石は顔を上げないまま、少々不敵に呟いた。父親は少し納得したような表情を見せたが、議員はあくまで事務的だった。

「そうですか、しかし謝ってもらっても仕方がないのです。心情的なものはどうにでも変わるものですから。それよりも事実を確認させてもらって、書類化しましょう」

 議員が合図すると秘書が鞄の中から用紙を取り出す。哲弘親子がうなずいている。力石の行為だけを取り出して並べ立てると彼にとって不利なことばかりであった。出来上がった書類を読むと性格異常の教師像が浮かんでくる。しかしそれは事実ではあった。

「とんでもない事だ。教師と生徒の信頼関係が今最も叫ばれているなか、教育現場でこういうことが平然と日常的に行われているとしたら、市民の高等学校に対する期待を踏みにじっていることになる。許されることではない。私としましても、この事実については関係諸団体において問題にするつもりです」

 面積の広い顔の議員はいかにも深刻そうに言う。松岡校長の顔色が少し青ざめた。抗議に来たのではない、と言いながら二時間近くも苦情を並べ立ててから三人は出て行った。

「力石君、私は君にいつも感謝している。いままで口に出さなかったが、君の人知れぬ苦労については充分に分かっているつもりだ。口は出すが、動かないし責任もとらない、こんな教員の多いいなかで、君は教育者としてのりっぱな信念から皆が避けることを泥を被ってでもやってくれている。それは何よりも、生徒指導部の係りでもないのに、学校の為に勧んで動いてくれているところによく表れている。私は内心、涙が出るほど嬉しく思っている。それだけに今回のことは残念だ。私が悪い。申し訳ない」

 頭を下げながら松岡校長が感極った声を出した。力石はポロポロと涙をこぼした。

「校長先生、私はどんなことがあったって頑張りますよ。決めたことを守らせるのが教育だと思っていますから。いつも損する性格なんです」

 握り拳で目をこすりながら力石が泣き声で言う。

「しかし・・・校長先生は今回の事を知らなかったと先方に言ったようですが、私は確か教頭先生には報告しておいたはずですが・・・」

 力石は急に不審そうな眼差しになって松岡校長の顔を見た。

「そうそう、よく知っていた。だが、こんな場合は校長としては知らなかったことにした方が、学校にとっても君にとっても有利なんだ。そうだろう、内田教頭」

「はい、その通りです。議員相手には誠実なだけではこちらが不利になります。政治的な要素も必要です」

 内田教頭が確信のある声を出す。

「あの様子ではいずれ、教育委員会からの事情聴取と処分の申し渡しがあるだろうが、我々三人は同類だ。力石君、これに懲りずにしっかり頑張ってくれ。責任は全部、校長の私が取る。安心してやってくれればいい」

 松岡校長の話を聞きながら力石はまた目をしばたたかせた。

 授業が終わり、クラブ顧問の柔道部の指導も済ませてから力石は帰宅する準備を始めた。職員室には彼以外には誰もいない。

「畜生!みんな、早く帰ってしまって。これでも教育者か」

 彼はカバンを床に叩き付けて怒鳴った。それから校舎を出て、車を置いている所に行って驚いた。こぶし大の白い物がボンネットといわず窓ガラスといわず、一面にへばり付いている。よく見るとトイレットペーパーに水を含ませて丸めた物を投げつけていた。力石は犯人は哲弘や通明に間違いないと思った。力石は雑巾を車から取り出して拭いたが、乾燥してこびりつき、意外に落ちにくい。力を入れてこすると細切れの糸のようになって一面に汚れが広がる。

「哲弘の野郎、殴り飛ばしてやる。そして僕も学校をやめる。そうしなければ、この世の教育は廃れる」

 力石は拭くのを諦めて吐き捨てるように言った。その時、額に何か水のような物が落ちてきた。とっさに上を見上げると、三階の教室の窓から慌てて頭を引っ込めた生徒がいた。チラッと見えたところでは哲弘のようだった。

「コラッ、なにをしてるんだ!」

 全力疾走で彼は三階へ駆け上がった。額から垂れる水のようなものは感触から唾液だと分かった。足にさらに力が入った。教室に入ってみるとすでに誰も居なかった。窓のカーテンが破れて垂れ下がっている。転がっているジュースの空き缶からタバコの吸い殻がこぼれている。前後の黒板に所狭しと卑わいな落書きが書いてある。そのなかに一段と大きく、相合い傘の中に「テツ」「ミワ」と書いたものがあった。力石はそれらの様子を茫然と眺めながら立ちすくんでいた。

「誰がいったい、この状況を責任をもって改善しょうとしているんだ。こんな状態で修学旅行に行けば、わざわざ信州まで生活指導に行くようなものだ」

 彼は自分に言い聞かせるように唸った。彼は肩を落として階段を降り、無数の白い紙片で汚れた車に乗って帰った。

 その後、教育委員会から事情聴取等があり、最終的に呼び出されて、処分の申し渡しがあった。口頭注意の処分だった。次にまた同じような事件を起こすと重くなる、と脅された。彼は自分が生徒になったように感じた。現場の管理職である教頭、校長の処分はなかった。

 力石は帰る途中、車を置いて駅の近くのときどき寄っている立ち飲み屋で酒を何杯もがぶ飲みした。

「お客さん、もう充分に効いているのじゃないですか」

 酒屋の店主がこう言った時、力石は、力尽きた木登りが木から滑り落ちるように崩れて床にうずくまった。それから大の字になって鼾をかき始めた。店主が重い力石の身体を抱き起こしながら、自宅の電話番号を大声で尋ねると彼は鼾の切れ間に正確に答えた。

 店主がその電話番号に連絡をすると母親がタクシーで迎えに来た。車の中で力石は母の膝にうつぶしてオイオイ泣いた。母親は息子の頭をいつまでも撫でていた。

 力石は婚期はかなり過ぎていたが、まだ母親と二人で生活をしていた。今までに何度も結婚話もあったり、付き合った女性もいたが、彼が相手を気にいると相手は彼を嫌った。逆に彼が嫌った相手からは気にいられたりした。結婚はしたいのだが、いっこうに話がまとまるような相手が出てこない状態が長く続いていた。

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