第2話
数日後、四階の視聴覚教室の廊下の壁にカラースプレーで落書きが大書されていた。そこは校舎の最上階の端で、あまり生徒の通らない場所である。 スーパーレッドでけばけばしく見える。
《アホのハグキ》と書いている。
力石は絵のような字の前に立って拳を握りしめ、ブルブルと震わせていた。彼は普通にしゃべっても必要以上に歯茎が露わになった。笑うと前の歯茎の全体がむき出しになる。そのために面識のあまりない人は彼をいつもニコニコしている人だと誤解する。そう思われるのが嫌で、彼はたいてい不機嫌で不満そうな表情をしている。だから無言の時としゃべっている時のアンバランスは甚しかった。歯茎は彼が最も気にしていることだった。
力石は技術員室からシンナーを持って来て雑巾に湿し、力一杯こすってみたが消えない。次に磨き粉を取ってきてやってみたがだめだった。地肌がコンクリートでザラザラのためか、かえって色がにじみ汚くなった。
「畜生、壁全体を上塗りするしかない」
口の中でぶつくさと呟いた時、三階から三、四人の生徒が甲高い声でしゃべりながら上がって来た。階段下からは力石の姿は見えない。
「今日で五回遅刻したから、保護者の呼び出しだとよ、俺」
「お前は要領が悪いからだ。哲弘のやつなんか、もう十回以上遅刻しているけど、チェックはゼロだぜ。あいつは賢い。少しは見習ったらどうだ」
ほかの生徒の声に混じって軽率な調子の通明の声が聞こえた。
「ヘェー、どうしてそんな事できるんだ?」
「下足室前の遅刻チェックを逃げて、裏側の教室の窓から入るんだ。あそこには教師は誰もいない。何回、遅刻しょうが、教科担当のセンコーが来るまでに入っておれば、セーフよ」
「アー、そうか。そんな事をしていたんか」
「オッ、力石のハグキがあの落書きを見ているぞ。逃げろ」
先頭で通明が階段を上がって来て力石の顔と合うと、慌ててまた下に駆け下りた。他の者もそれに続いて逃げた。力石は憎々しさと不服さの入り混じった顔でしばらく突っ立っていた。
放課後の職員会議で彼は挙手をすると同時に立ち上がった。
「遅刻指導を徹底しなければなりません。指導は教師全員が意思統一して、生徒に徹底させる事によって効果が出てくるものと思います。中途半端では不公平になり、返って生徒に不信感をもたせ、逆効果になります。その意味で下足室前では抜け道が多過ぎます。八時四十分ちょうどに校門を閉めるようにしたらどうでしょうか。二年生はまもなく修学旅行です。列車は待ってくれません。その訓練も兼ねてピシッとやりましょう。本来は、こういう提案は、生活指導部から出されるものでしょうが、係りでもない私が見てもあまりにもひどい現状なので、あえて言っているのです」
この提案には意見が噴出した。結局、一時間半ほど話し合って決をとった結果、過半数をわずかに越える賛成で決定した。
校門での遅刻指導が始まると力石は当番に当っていない日でも積極的に門扉のそばに立った。少し油断すると、瞬時に門を閉めるタイミングを失ってしまう。ぎりぎりに流れ込んでくる生徒が閉まりかかっている鉄扉と門柱の間に殺到して切れ目がなくなり、閉めようにも閉められなくなる。
門扉は必要以上に丈夫な鉄骨作りで、二本のレールの上を車輪で移動させるようになっている。かなりの重量があり、特に動かし始めは両手に体重をかけるようにして思い切り押さなければ動かない。それで、もたもたしているうちに、とっくにチャイムは鳴り終わってしまう。
「これでは下足室前のチェックと変わらない。もっと厳しくしなければ何の意味もない」
力石は校門での取り締まりの状態を見てしばしば愚痴を言っていた。
やがて彼はチャイムが鳴ると同時に門扉の外に出て両手を広げて生徒を止めた。そしてその間に別の教師に門を閉めてもらった。これは力石がやるとうまくいったが、気の弱い教師では制止が効かなかった。
「とにかく時間には、きっちりと門を閉めるしかない。思いやりの気持ちも時と場合による」
周囲の教師に聞こえよがしの大声で彼は口癖のように言った。それでも数日、力石が門番に立たないと少しずつ閉める時間が遅くなった。
この日は、彼は一時間目に授業が入っていたが、無理をして指導に立った。ぐすぐすしていると自分が授業に遅れることになる。
「今朝はどんぴしゃりに僕が門を閉める」
当番に当っていた三人の教師に彼は歯ぐきを見せないように言った。八時四十分が近付くにつれて校門を通過する生徒は幾何級数的に増えてくる。そして二、三分前からピークになる。
「あと、二分だ。チャイムが鳴った瞬間に閉めるぞ。急げ!」
緊張の面持ちで走って来る生徒に向かって力石は大声で何度も怒鳴り続ける。
「あと、一分だ。少しずつ閉めていくぞ」
彼は門扉の後ろの端に行き、俯き加減になってかなりの力を入れて押した。そこは門扉を閉めるのには最も力の入れやすい場所だった。力石の力む様子とは対象的に門扉はゆっくりと動き始めた。それから力強く加速していった。
二人の生徒が横に並んで通れる程度まで閉まった時、彼は押していた鉄骨を今度は握り締めて尻餅をつくような体型で引き止めた。それでも門扉は惰力でさらに一人分ほど閉まって止まった。これを見た生徒は遅刻を逃れられるかどうかの瀬戸際なのを知って、顔色を変えてコンクリート制の門柱と門扉の隙間に殺到した。生徒にとっては遅刻が多くなって親が学校に呼ばれて説教されるのはたいへんな苦痛なのだ。
力石の位置からは門扉に縦に何本も通された幅広の鉄骨が視界を遮り、外側の様子が見えにくい。首を横に突き出して覗き込むようにすると、どうにか鉄骨と鉄骨の間からわずかに見えるくらいである。彼は三、四メ―ターほど門から離れて外側の様子を窺った。多数の生徒が我れ先に入ろうとするものだから、却って詰まってしまいもたもたとしている。その集団の後方に哲弘の姿が見えた。力石は腕時計の秒針にチラッと目をやると、急いで門扉の押せる場所に戻った。
「あと十秒、九、八、七・・・ゼロ!」
最後に一際大きな声を出した時、ちょうど八時四十分のチャイムが鳴り始めた。それと同時に彼は門扉を押した。三人が閉まりかかった隙間から身体を斜めにしながら必死で通り抜けた。すでに人間が通るには狭過ぎる状態になっていた。
「ヨーシ、これから遅刻だ」
彼は俯いて体重を腕にかけ、一息に押し切ろうとした。ところが門扉が動かない。それどころか逆に押し戻される。顔を上げて見ると両腕を門扉に掛けて力任せに開けようとしている生徒がいる。やがて頭と身体半分をねじ込むようにして門扉の内側に出した。
「ハグキのアホ、早よ、閉めよ!」
挑発的な言い方で目をつり上げているのは哲弘だった。
「この野郎!」
今度は力石は思い切り押した。その間に哲弘は身体だけは擦り抜けたが、制服の上着の裾が挟まれた。コンクリートの門柱には鉄製の門扉が当った時の為の緩衝材としてゴム製のクッションが取り付けられている。そこに引っ掛かっている。力石が力を緩めないこともあって、いくら引っ張っても取れない。やがて哲弘は身体全体を激しく動かせて外そうとした。するとボタンが全部バラバラと落ちてしまった。力石は門扉を少しだけ引いた。制服の裾が外れた。哲弘は憎悪を露骨に表して立っている。
「哲弘、お前は遅刻だ。二分でグランドを一周して来い。遅れたら、もう一周走らすぞ」
勝ち誇った声で力石が怒鳴った。哲弘はそれには従わずに校舎に入ろうとする。力石は襲いかかるように哲弘を追い掛け、羽交いじめにしてグランドまで連れて行き、尻を押し出すように足で蹴った。哲弘はグランドを走らずに今入って来た校門の方へ走って行った。
「俺は遅刻じゃない。門が締まる前に校内に入ったじゃないか。どうして俺だけ目の敵にするのだ。今度こそおやじに来てもらう」
門の所で力石の方を振り返り、両手で殴り付ける格好をして哲弘は怒鳴った。それから門扉を開けて出て行った。遅刻して押し掛けていた生徒が再び堰を切ったように入って来た。当番の教師は突っ立っているだけだった。
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