第4章 「再起の産声」6

 その次の日の朝、おでこを赤くした卯月が花壇で待っていた。何があったのかという俺の質問に、卯月は自分の親父さんに空手の勝負を挑んだ結果だと話してくれた。

「オヤジは、凄く強かったよ。一応、基礎体力だけは落ちないように気をつけていたつもりだったけど、空手じゃ全然歯が立たなかった。でもな、最後に一発パンチをくれてやったんだ。このおでこと引き換えにな」

 そう言うと、卯月は親父さんのパンチをワザとデコで食らって、その隙にパンチをお見舞いしたんだとポーズをつけて教えてくれた。

「会心の一撃ってやつだった」

 ファイティングポーズから放たれた拳が、最短の距離で俺の胸に優しく打ち付けられる。

「ホント、チョー気持ちよかった~。『ほぼイキかけた』なんて言ってたスポーツ選手の気持ちが分かったよ。まあ、思い切り踏み込んだせいで、おでこにカウンターをもらって、めちゃめちゃ痛かったけどな」

 ガハハと大笑いした表情は本当に清々しいものだった。

「それで、アタイのこれまでのこと、思ってきたことも、オヤジに全部告白した。そして、ガキの頃から締め付けていた帯をほどいて、アタイの空手人生は終わりだと告げたんだ。そしたら、オヤジは、大きくうなずいてくれた。『これからはお前のやりたいことをやればいい』って。『本当に、強くなったな』って。『卯月はずっと自慢の娘だ』って……」

 音もなく流れ落ちる涙。それは、きっと未来の卯月を成長させる糧となるだろう。

「もう、後ずさりするのは止めだ。これからは、前だけを向いて歩いて行くよ」

「そうだな……」

 サアアアと、爽やかな風が二人の間を駆け抜ける。朝露に濡れた葉が朝日を受けて輝く。濃い緑の、とても青臭い匂いが胸いっぱいに広がる。

「また、夏が来るな……」

 卯月は頬に張り付いた髪を、耳にかけ目を細めると、

「ああ、きっと暑い夏になる……」

 深呼吸をして、大きな胸を弾ませた。

「アタイは誓うぜ。夢を見つけるまで、絶対に諦めないことをな……」

 と、風に乗って懐かしいメロディーが微かに聴こえてくる。曲に合わせて、アイドル部のみんなが歌を歌っている。ったく、元気な奴らだ。それに引き付けられるように、卯月の足は自然とそちらへと向かっていた。

 校舎の影から覗き込む卯月。

「なんだ? 興味があるのか?」

「バカぬかせ。アタイはアイドルなんて嫌いだ。いつも何が楽しいのか、意味なく笑ってよ。なんか面白いものでも見ているのかよ?」

「さあ? どうだろうな?」

 俺は苦笑いで返す。まあ、そのほどんどは、いわゆる、『営業スマイル』ってやつなんだろうけどな。

「なんだよそれ? あんたも、アイドルだったんだろ?」

 そうだったなと笑って誤魔化す。

 遠くからだが、アイドル部の連中は楽しそうに練習しているのが見てとれる。それを思いのほか真剣な眼差しで見つめる卯月。

「なあ……。アイドルって何がそんなに面白いんだ? どうしてあんなに笑っていられる?」

「ん? そうだな~」

 遥か彼方の記憶の糸をたどるように思案にふける。

「他の奴は分からないが、俺はテレビの向こうにいる特別な人のことを想ったら自然と笑顔になれた……ような気がする」

「特別な人?」

「ああ。家族や友達、恋人……。不特定多数ってのもいるかもしれないが、見つめる視線の先に、最高の笑顔を届けたいって思う人がいるんだ。だから、あんなに笑っていられるんじゃないかな? 夢を与える職業は沢山あると思うけど、性別も生まれも関係ない、その笑顔ひとつで出来るのがアイドルなんだ」

「それがアイドル……。それが、咲月の叶えたい夢……」

「とはいえ、本当の所は分からない。だから、アイドル部のみんなもその答えを知るために頑張っているんだと思う。だから、今度のイベントでみんなが何かを掴むことが出来れば、俺は自分がここにいる意味も分かるんじゃないかと思っている」

 そう言いながら、俺は卯月のことをまじまじと見つめる。整った顔立ち、艶めくポニーテール。引き締まった手足の筋肉。

「何、じろじろ見てんのよ?」

「悪い悪い。けど、いい体してるなって」

「なっ!? あんたそんな人だったの!?」

 体を手で隠して鋭い視線を向けられる。

「いや、誤解だ誤解……。お前さっき今でも鍛えてるみたいなこと言ってたよな? それは本当か?」

「ああ。何となく子供の頃からの習慣でな、朝夕のジョギングに、腕立て、腹筋、週末は市民プールに行って、それから……」

「もういい。分かったよ。ともかく、お前の運動神経の良さは、俺の体が良く知ってるからな。でだ。その鍛えた肉体を活用してみる気はないか?」

「なにぃ? アタイに何をやらせようってんだ?」

「別に変なことじゃないさ。もしも、今、自分のやりたいことがまだ見つかっていないなら、くどくど頭で考えるよりも、体を動かしながら考えてみるのもありじゃないかってさ」

「悪かったな。馬鹿で」

「そうじゃないって。気分転換と言うかさ、頭を空っぽにした方が見えてくるものがあるんじゃないか?」

「まあ、あんたがそう言うなら……。で、一体、何をやらせようってんだい?」

「ズバリ、アイドルやらないか?」

「なん……だと……」

 顔を赤く染めた卯月の眉が、10時10分の場所へとつり上がる。

「今、アタイにアイドルをやれって言ったのか? あんなフリフリの恰好をして人前に立てってのか?」

 俺は恐る恐る頷く。

「聞いてくれ卯月。アイドル部のみんなは今、アイドルの卵たちが出場する大会に挑戦しようとしている。でも、どうひいき目に見たとしても、いい結果になるとは思えないんだ。そして、本人たちもそれは分かっているだろう」

「最初から結果の見えている大会に、どうして出場する?」

「自分たちを馬鹿にした奴に一矢報いるためには、参加せざるをえなかったんだ。そうさ、彼女たちは負けると分かっている戦いにあえて挑もうとしている。それは無謀だが、勇気ある決断だと思う。しかし、このままでは一矢報いるどころか、また、あの子たちは自分たちの力のなさに打ちのめされるかもしれない。それに、その大会は予選と本選で、2ステージあることが昨日分かったんだが、今の咲月には2曲をフルでやれる体力は正直ないと言わざるを得ない。だから、メンバーを4人態勢にして、1人の負担を少しでも減らせてあげたいと考えているんだ」

「で、その大会とやらは、いつあるんだ?」

「急な話ですまないが、実は来週末なんだ。だから、もうほとんど時間はないんだ……。正直、無理なお願いをしているのは十分分かっている。でも、頼れるのは、卯月、お前だけなんだ。だから、頼む!」

 と、俺が頭を下げるより前に、卯月は、「フン!」と気合を入れて、地面に頭突きをかます。

「今、アタイは地球に喧嘩を売った。そんな女に出来ないことがあるわけねーだろ? あんたに殴って貰う時に、アタイは何でもするって言った。その約束をたがえるような女じゃないんだよ。アタイは……」

「それじゃあ……」

「でもアタイでいいのかよ? アイドルなんて、アタイに脈あるのかよ?」

 卯月はそっぽを向いてそんなことを訊いてくる。

「ああ。アイドルは、個性と個性のぶつかり合いだ。今のアイドル部には卯月のようなガッツのある子が必要なんだ。それにさ、お前も咲月の近くにいる方が何かと安心だろ? 独り立ちするって決めたからって、すぐに何でも出来るわけじゃない。この花みたいに、添え木が必要な花もあるってことさ」

 花壇には、まだ十分に成長していない花が、添え木に絡みつくようにして、天を目指していた。

「けど、あの子はきっと嫌がるだろうな……。アタイになんて支えられるのはさ」

「そうじゃない。添え木が必要なのは咲月だけじゃない。お前も咲月に支えてもらうのさ。互いが互いを支えながら成長していく。それが家族ってやつじゃないのか?」

「そうだな……。きっと、その通りなんだよな……。アタイが初心者――チャレンジャーだかからな。ホント、あんたにはいつも教えて貰ってばかりだ……」

「そんなことはないさ。俺もお前のパンチで目を醒まさせてもらったしな。それに、これからは卯月に助けて貰うことになるんだ。アイドル部のみんなを助けてあげてくれ」

「おう!」

 元気の良い返事を上げ、卯月は満開の笑顔で応えた。

 その勢いのまま、アイドル部に合流して、朝の練習前に卯月がメンバーに加わることを告げた。咲月はもちろんだが、陽子や涙歌も快く卯月を迎えてくれた。

 当の卯月はと言えば、流石に鍛えていただけあって、厳しい練習を難なくこなしていた。歌やダンスの合わせはこれからになるが、どんな困難な状況も彼女ならばきっとやり遂げてくれる。その強さを卯月は持っているのだから。

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