第4章 「再起の産声」4
晴れてアイドル部の加入を認められた咲月は人が変わったかのように、とは言わないが、いい顔をして練習に臨んでいた。
今朝は何か吹っ切れたように挨拶をされ、あゆむに「何かあったんですか~」とニヤニヤと突っ込まれたので、「いいからサッサと着替えてこい」と部室へと追いやってやった。
部室の少し離れた場所でみんなの着替えを待っていると、サアア――とかすかな雨音が聞こえてくる。導かれるようにそちらへ足を運ぶと銀色のじょうろを手にした卯月がいた。
「おはよう」
思い切って声をかけると、卯月がこちらへと振り返る。
「なんだ、あんたか……」
「ずいぶん早い登校だな」
「ほっとけ……。で、アタイに何か用かい? 咲月がアイドル部を続けることはもう認めたはずだ。アタイも女だ。一度言った言葉を曲げたりしないぜ。今さら何の用があるってんだい?」
「あっ、いや。用ってわけじゃないが……。こんな朝早くから、一体何をやっているんだ?」
「見りゃ分かるだろ? 花壇に水をやってるんだよ」
そう言うと、卯月は手に持つじょうろを傾けた。
「もしかして、毎日やっているのか?」
「ばっ、馬鹿言うな。たまたま早起きした時にやっているだけだ」
その割には随分と、じょうろの扱いに慣れている感じだった。おそらくだけど、卯月はずっとそうしているのだろう。咲月の様子を人知れず見守るために……。
「何、ニヤついている? アタイが花に水やりなんておかしいか?」
「いや。そうじゃなくて……。うん。いいと思うぜ。綺麗なものは俺も好きだ」
「そうだな……。花はいい……。アタイの見た目や、話し方、どんな態度でも、平等に綺麗な花を見せてくれるんだからよ」
冗談で言っているのかとも思ったが、その横顔はどこか真剣で憂いに満ちていた。
「人ってやつはさ。見た目や外見でそいつを判断する。みんなと違うだけで、不良だなんだとレッテルを張ってさ。こいつは、ああいう奴だ。あいつは、こういう奴だって、ろくにアタイのことを知りもしないで勝手に色分けをするんだ」
「急に、何を言っているんだ?」
「さあな……。アタイは、そういうレッテルを張るやつに嫌悪を抱きながら、自分も同じことをしていたんだってな。咲月のことをずっと弱いままだと思い込んで、レッテルを張っていたんだ。ホント、馬鹿な女だよ……」
「そんなの……。お前だけじゃないさ。俺だってそうだ。上辺だけを見てそいつを理解したような気になる。実際、俺はお前のことを、最初は暴力的で女らしさのかけらもない奴だと思っていた。でも、それは俺の勘違いで、妹想いの優しいお姉さんだったんだよな」
「アタイが、優しい?」
卯月はキョトンとした顔をして、「何の冗談だ」と鼻で笑った。
「本当さ。やり方は間違えたかもしれないが、お前は自分よりも他人を優先出来る、人を思いやることの出来る優しい女性だ。それに、自分のことってのは、自分が一番分からないものさ」
「元アイドルが、利いた風なことを言うじゃないか?」
「ふっ、今の俺は見習いかもしれないが、教師だぞ。それくらいは言うさ」
互いに、鼻で笑い合う。
「どちらにしても俺はお前を凄い奴だとは思っている。大切なもののためにあんなに熱くなれるんだからな。それだけで尊敬に値するよ」
「お前こそ、急にどうした?」
「いや、お前と咲月を見ていて、思い出したんだ……」
俺の声色が変わったのに気付いたのか、卯月は真剣な顔つきになる。
「俺もさ。守りたいって、守らなきゃいけない子がいたんだ……。でもさ、ずっと一緒にいられるわけじゃない。それじゃ駄目だって。俺たちは離れ離れになった。いつか同じ場所で再会するために……。だけど、駄目だった。俺は孤独に耐えられなかった。結果、ただその子を傷つけただけで、俺は大切なものを手離してしまったんだ」
「お前……。その……。アタイ、なんて言ったらいいか……。あんたがそんな風に傷ついていたなんて、それなのに……」
卯月の表情が曇るのを見て、俺はその肩をポンと叩く。
「だからさ。自分の信じたものに一直線というか、お前のそういう一本気な所、好きだと思ってよ」
「す……き……?」
そう口にした途端、卯月の顔がみるみる真っ赤になっていき、
「ばっ――。ばか! おかしなこといってんなよ」
「殴るぞ」と拳を見せて恥じらう卯月。
こいつはたまらんと俺は踵を返す。
「だけど、お前もそんな顔が出来るんだな」
「なに?」
「眉間を皺に寄せている顔もいいけど、そういう困った表情も美人だなってよ。ホント、まだまだ俺はお前について知らないことだらけだな」
それを聞いて、卯月はますます顔を赤くした。
「まっ、俺になんて見せる必要はないけどさ。咲月には見せてやれよ。本当の自分ってやつをさ」
俺はニコっと笑うと、その場を後にした。
その次の日の朝。
流れ落ちる水音に交じり、微かな鼻歌が聴こえてきた。鼻歌と言えばどこか機嫌が良いイメージがあるのだが、そこには、どこか虚ろな目をした卯月が、じょうろを傾け立っていた。
「よっ、何かいいことでもあったのか?」
俺は卯月の表情に気付いていない振りをして挨拶する。が、怪訝な顔で返される。
「逆だ。あんたに言われてあれから考えたんだ。本当の自分ってやつをな。だけど、そんなものは見つけられなかったんだ……。その代わりに思い出したよ。あの頃のことをよ……」
「あの頃のこと?」
「あんた、咲月に聞いたんだろ? アタイが中学生まで空手をやっていたって。長女だったこともあって、両親のアタイへの期待は並々ならないものだったよ。勝つことだけを義務づけられて、アタイはそれに応え続けた。別に辛くはなかったよ。どうやら、アタイには空手の才能ってやつがあったみたいだからな」
だろうな。あんなに強い拳を俺はいまだかつて食らったことがなかった。
「だがな。咲月を怪我をさせて以来、アタイは人を殴れなくなっていた。それまでは、人を殴り倒すことなんて屁でもなかったよ。もちろん、試合だから殴って当たり前なんだが、それで傷ついている奴がいるって思いもしなかった。勝者の影にいる敗者が見えていなかったんだ。それを知ってしまったら、人を殴ることが怖くなったんだ。そこでアタイの空手人生は終わってしまった」
俺はうなずき、続きを促す。
「それまでのアタイは空手が全てだった。勝つことに全てを捧げ、勝ち続けることで何もかも手に入れてきた。でも、それは、ただ両親に言われたまま、勝ち続けるだけの人生だったんだ。他の誰がそれに価値があるって言っても、自分が欲しくないものを手に入れても、空しいだけだ。そこにはアタイの意思なんてなかった。アタイは両親の夢を叶えさせられていた……。そう……。アタイには夢がなかったんだ……」
そう言うと、卯月はキュッと口を結ぶ。
「だから、咲月に……、あんたに言われて考えたよ。本当の自分を、アタイ自身の夢ってやつをね……。アタイは中学一年生で全中空手チャンピオンになった女だ。そのアタイが望みさえすれば何だってやれる。何でも自分の力で叶えられる。そう思っていた。だが、いざ何がやりたいかと考えると、何も思い浮かばなかったんだ……」
「え……」
「アタイは花野家にとって初めての子だったから、オヤジには、男のように育てられた。厳しく、激しく、愛も、優しい言葉さえかけれた記憶もない。中学の大会で試合に負けた日でさえ、『お前にはもう教えられることはない』って、言われて……。でも、仕方ないんだ。アタイは両親の期待を手ひどく裏切ったんだからな……。勝つために生まれて、勝利のために何もかも費やしてきた。クラスメイトが遊んでいる時間も、アタイは一発でも多く拳をミットに叩きつけてきた。だから、やりたいことなんて、楽しいことなんて知らない」
その言葉に胸が大きく跳ねる。鳥肌が立ち、背中に冷や汗を感じる。
「そんなこと……。きっと何かあるはずだ。楽しかったこと、笑えたこと、些細なことでいいんだ。自分が好きだと思える何かがあるはずなんだ!」
焦って早口になった俺に、卯月は首を横に振って答える。
「あの大会から、アタイは自分をなくしていたんだ。空手が出来なくなって、目の前が真っ暗になって、何をしていいのか分からなかった。そう思った時、アタイの前には傷ついた咲月がいた。気が付いたら、アタイは、あの子に寄り添っていた。そうやって、あの子を守るふりをして、傷の舐め合いをしていた。アタイの傷を隠してくれる存在――アタイにとってのカサブタは咲月だったんだ」
俺と同じだ……。俺もアイドルと言う世界に単身飛び込んで、それ以外のことを考えることすら許されない日々が続いた。ただ毎日がむしゃらに走り、青春の一ページを黒く塗りつぶした。燃え尽きて、何をしていいのか分からなくなっていた俺は、当面の目標として、今までさぼり続けていた学業に勤しんだ。
だけど、俺は両親が支えてくれたから腐らずにやってこられた。でも、こいつは、咲月のために強い自分のふりを続けなければいけなかったんだ……。両親から見離され、自分には何もないと思い込んで……。それは、何と悲しい日々だったのだろうか。
「けど、咲月はアイドル部を続けるのが夢だと言った。あの子は、あの頃よりずっと強くなった。それに比べて、アタイはあの頃のままだ。独り立ちすべきだったのはアタイの方だったんだ……」
スッとその瞳から光が消える。
「アタイは何のために生まれてきたのかな?」
それは、自分自身で答えを出すしかない。しかし、それはこいつを突き放すようで、俺はそれを口に出すことが出来なかった。
「また、アタイは空手を続ければいいのかな? 欲しくないものを手に入れるために、誰かを傷つけ、自分を騙して生きていけばいいのかな?」
空しく響く願い。それに答えられるものはここにはいない。
「分からない……。分かるはずもない……。今まで何一つ自分の頭で考えてこなかったんだからな」
何て悲しい顔をして、夢を語っているのだろうか? 『夢』を語る時、人はその胸に希望や勇気を抱くものだと思っていたが、目の前の少女は吹けば吹き飛びそうなほど、弱弱しく震えている。
「アタイはもうここで花に水をやることしか出来ない」
人形のように魂の抜かれた表情で、一定の角度でじょうろを傾けている卯月。流れ続ける雫は花のない植物を濡らす。今週に入って雨が降っていないとはいえ、水をやり過ぎじゃないか?
「おい。水、やり過ぎだろ?」
その声にハッとして、卯月はじょうろを水平に戻す。
「これ、大丈夫なのか?」
「ああ。多分、大丈夫だ」
多分って……。卯月が水びたしにした鉢植えを見てみる。まあ、雨が降ればこれ以上濡れるだろうし、問題はないのかもしれない。花もついてないしな。今はこの花の開花時期ではないのか?
と、俺はこいつの隣にも同じ花っぽい鉢植えがあるのに気が付く。見れば、そちらには赤い花が咲いている。
改めて、二つある鉢植えを見比べてみる。一つは鮮やかな花をつけたもの。もう一つは棘が生え、枯れ木のようなどこか生気のない葉と茎をしていた。
「こいつは花が咲かないのか?」
「さあね。昔は両方とも咲いていたって聞いたけど、いつからか咲かなくなったらしい。きっと、こいつはもう役目を終えたんだよ……」
卯月は、今にも枯れ落ちてしまいそうな葉を、手のひらでそっとすくうように触れる。
「こいつはアタイだ。自分が何者か知らず、何の花を咲かせればいいのか分からない。どこにも行けず、ただここで突っ立っているだけの存在」
「それってどういう意味だよ?」
「みんながみんな咲月やあんたみたいに自分のやりたいことが分かっている奴ばかりじゃないんだよ。だから、アタイはそんな奴らを見守ることしか出来ない……。花に水をやることしか出来ない」
どこか虚ろな瞳で卯月は花のない花を見つめる。
「だけど、アタイは、一度は夢を叶えられたんだ。小中の大会で全国優勝出来たんだ。それだけで満足しなきゃいけないんだ」
「それは、両親の夢だろ?」
「…………」
「俺も一度は夢を失ったんだ。トップアイドルになることが自分の夢だと思い込んでいた。そのせいで俺は、長い間自分が何をやっていいのか分からなかったんだ。でも、今はもう一度、失くしたものを取り戻そうとしているんだ。だから、お前も――」
卯月は俺の言葉を制し、
「アタイのことはもういいんだ。でも、今日は、あんたに聞いてもらって、少し楽になったよ」
「あっ、ああ……。それは良かったよ。話ならいくらでも聞いてやる。あのさ、俺、明日もここに来るから。お前も、来るよな? な?」
その問いかけに、咲月は曖昧にはにかんで見せる。それから、まだ太陽が顔を出していない空を見上げて呟く。
「アタイがやってきたことに意味はあったんだろうか?」
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