第5章 「アイドルはやめらんない」3

 部室にいると緊張で押しつぶされそうだったので、俺たちは学園を出ることにした。歩きながら、何をどう話せばいいかを考えた。

 話したいことは沢山あったはずなのに、一体何から話せばいいのか分からず、俺は無言で歩いた。

 涙歌は大人しく後ろをついてきていてくれた。

 こうやっていると、何となく子供の頃の記憶と重なる。俺はいつも前を歩いていた。涙歌がシャツの端を掴んでいたから、母にシャツの生地が傷んでいると笑われたっけ。

 俺たちの道はいつから違ってしまったのだろうか? あのオーディションの前日の日、涙歌が俺の歌を喜んでくれた日の気持ちをずっと持ち続けてさえいれば、今とは違う状況だったのだろうか……。

 あの約束をした場所でなら、もう一度あの頃の素直な想いで話が出来るかもしれない。そう考え、俺は二人の思い出の公園を目指した。

 たどり着いた時には、とっぷりと日が暮れていた。

 公園にはひと気はなく、俺たち二人だけだった。

 涙歌をベンチに座らせると、俺はさっきダウンロードを終えた、あの日踊った課題曲を再生する。何百回と練習した曲だ。前奏が終わると反射的に体が動いた。完璧な再現とはいかないまでも、明確なミスもなく曲を終えることが出来た。

「憶えてるか? あの日。この曲を踊った俺を褒めてくれたよな。凄く嬉しかった……。だから、ありがとう……」

「憶えてるよ……。あの日のこと、忘れたことなんてないよ……」

 そう言うと、涙歌は俺をベンチの隣に促し、

「あの日が、始まりだった。夢の始まりの日……」

「そうだな……。全部、あの日から始まったんだ……。あれから、もう十年も経つんだな……。いい思い出だよな……。ずっと大切にしていきたいと思うよ」

「うん……。でも、私は思い出を作るために生きてるんじゃない」

「え……」

 横目で見ると、涙歌は目を細めて遠くを見つめていた。

「思い出はすごく綺麗だけど、私はあなたと一緒の時間を過ごしていたい。同じ夢をみていたい……。それに、まだあの日の約束は思い出なんかじゃないよ……」

 俺はその言葉にうまく応えることが出来なくて、固まってしまう。視線の先にはゆっくりと沈んでいく太陽があった。

 しばしの沈黙。

 夕日に落ちる影がその色を失い、境界を曖昧にしていく。それが、何となく別れのイメージを抱かせる。このまま二人が闇に飲まれ、再び巡り合うことがないのではないかという不安がふつふつと沸き上がってくる。もしかすると、涙歌はもう隣にはいなくて、俺はただ一人で沈む夕日を見ているんじゃないのかという錯覚に陥る。

 と、不意に手の甲に柔らかいものが触れる。見ると白く滑らかな指が、俺の指を優しく掴んでいた。

 思わず涙歌の方に振り返ると、涙歌は真っすぐにこちらを見つめていた。そして、眉尻を下げ、薄く笑うと、ぽつりぽつりと語り始めた。

「私ね……。SKBがこっちでコンサートをした時ね、お母さんと一緒に観に行ったんだ……。

 凄かった。感動した。生歌はとても迫力があって、胸に響いたのを覚えている。あれから一年も経っていないのに、こんなに輝けるんだって。

 そこに私の知るたかや君はいなかった。たかや君は私の手の届かない人になっていたんだって思った。

 だけど、私はあの頃と何も変わっていないんだって、そう思ったら、何だか凄く悲しくなったんだ……。

 私は、追い付きたかった……」

 そこでいったん言葉を途切ると、涙歌は正面に向き直った。俺もそれに倣う。

 夕日は既に落ち辺りは暗闇に包まれている。

「たかや君。私ね……。ずっと、がんばったんだ……」

「うん」

「アイドルについて、いっぱい勉強した」

「うん……」

「体力をつけるために毎日少しづつ運動を始めた」

「うん…………」

「みんなの前に立っても緊張しないように特訓もした」

「うん………………」

「歌もダンスも、たかや君のマネして練習した」

「うん……………………」

「たかや君……。わたし……。わたしね…………」

 声にならない想い。

 ――たかや君。

 ――たかや君。

 ――たかや君。

 何度も木霊する声。

 脳裏に映るのは、いつも俺の後ろを追いかけていた甘えん坊だった少女の姿。

 活発な俺と違って引っ込み思案で、運動も勉強もあまり出来る方じゃなかった。そんな子が、今や後輩から憧れられる女性になっている。

 その溝を埋めるのは並々ならない努力が必要だったはずだ。

 いつかアイドルになって、同じ舞台に立つという約束。

 そこから始まった日々。頼るもの一つもない毎日。

 こいつはあの頃から、ずっと俺の背中を追いかけていたんだ。見えない背中を、十年もの間追いかけ続けていた。

 それを想像すると胸が締め付けられる。

「うん」

 うなずいた拍子に、頬が涙を伝う。

「うん……。うん……。うん……」

「暗闇の中、私は前に進むしかなかった。そこにたかや君がいるって信じて頑張り続けるしか出来なかったんだ。私、たかや君に近づけたかな? あの頃より少しはたかや君との距離、縮められたのかな?」

「――っ」

 俺の指を包んでいる小さな手のひらにほんの少し力が込められる。

「私は夢を掴むことが出来たのかな?」

 想いを伝えたいのに、うまく言葉が出てこない。

 涙歌の十年余りの自問自答に、俺は何と答えてあげればいいのだろうか?

「たかや君はここにいるよね? ずっと不安だった……。あの日から、私は何を追いかけていたんだろうって。あの日の、たかや君の影法師を追っているんじゃないかって……」

 俺は過去の幻影に囚われ、涙歌は未来の希望を追いかけていたんだ。

 すれ違うのは当たり前だな……。

「俺はここにいる。だから、もう一人で頑張らなくてもいいんだ。これからは、俺が涙歌を支える。いや……。一緒に頑張っていこう。俺はお前のそばにいる……」

 俺は涙歌の手を引き涙歌を抱き締める。強く、深く。俺を影だなんて間違えないように……。

「約束、守れなくてごめん。アイドルを辞めて帰ってきたあの日も、逃げ出してごめん……」

「私の方こそ、あのバス停で、うまく言葉に出来なくて、ごめんなさい……。本当はずっと話したかったけど、もう一度話しかけて、もしまた自分の想いを伝えられなかったら、私は今度こそ、崇矢君の前に立てなくなっちゃうんじゃって……」

 言葉を詰まらせてうつむく。

「涙歌は何も悪くない。涙歌はずっと約束を――二人の夢を守っていてくれたんだからな。なのに俺は……」

「そんなこと……」

「俺は、変わりたくなんてなかった。ずっとあの頃まま、純粋な想いで夢を追いかけていたかった……」

「ううん。変わってよかった。すごく格好よくなった。それにあゆむが言っていたように、きっかけはあの頃のたかや君だったのかもしれない。けど、今の崇矢君もとても魅力的だよ」

「ありがとう。涙歌も、あの頃よりずっと綺麗になった」

「バカ……」

 そっぽを向いて顔を赤くする。俺も何となく恥ずかしくなり、視線を逸らして鼻の頭をかいた。

「そうだな……。俺は大馬鹿だ……」

 大切なものがすぐそばにあったのに、それに気付けなかったんだからな。

「だから、今さらだけど、あの日言えなかったことを言うよ」

 前に踏み出すために。あの頃のSKBときちんとお別れをするために。

「ただいま……」



 ――これで本当にさようならだ。SKB69。



「十年遅いよ……」

 そう言うと、涙歌は不器用に微笑み、

「おかえり……」

 こぼれ落ちる涙。その一瞬のきらめきの中に、俺は、幼き日の二人の姿を見たような気がした。

 思えば俺は、あの日ここから旅立ってから、ずっとどこかを彷徨い続けていたのかもな……。

 ようやく帰ってこられた。だから、また新しい夢を二人でみよう。



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