第3章 「あの日、あの時、あの少年」7
帰宅後、ただいまと扉を開けた俺を母親が迎える。日曜の夜ということで、父もリビングでくつろいでいた。
食卓に並ぶごちそう。俺が教育実習で帰省して以来ずっとボリュームのある食事が続いていた。普段は父と二人だけだから、俺がいる時くらいはと、母は言った。
思えば、アイドルを引退し東京から戻ってきた時も、ごちそうが用意してあった。
SKBを辞め、実家に戻った日、俺は両親から絶対に怒られると思っていた。アイドルになるのを反対され、家を捨てるように勝手に出て行って、勝手に戻ってきたバカ息子に跨がせる敷居はないと塩でもまかれると覚悟していた。でも、母も父も、何も言わなかった。なぜ辞めたのかと問い詰めるでもなく、ただ、おかえりと笑って、俺の好きなものを食卓に用意してくれていた。
その夜、何年かぶりに父と一緒に風呂に入った。そして、言われるがまま父の背中を洗っていると、普段無口な父がポツリポツリと呟いた。
「父さんもな、写真家を目指して東京にいたことがあったんだが、人ばかりで、何もない所だったよ。あの頃に、何を考えていたのか、何かを得たのか、今はもう忘れてしまったけど、毎日忙しかったのはよく覚えているよ」
うなずく俺の背中を綺麗に流すと、父は攻守交替させた。俺は無言で背中をこすった。それは記憶にあるものに比べて、ひどく小さく弱弱しく見えた。
「崇矢も、今まで頑張ったんだ。少しくらい休んだって構いはしないさ。ゆっくり寝て食べて遊んで、それから、また、やりたいことを見つければいいさ。男ってのは、夢をみて旅をするものさ。旅に出て色んなことを経験して、そして、また疲れたらいつでも帰ってくればいい。父さんも母さんも、お前が生まれたこの家でいつでも待ってるからな」
声にならない返事。でっかい背中に雫がこぼれ落ちた。同時に湯船に落ちた水滴が波紋を作る。
俺は、自分が捨てたと思っていたものに、ずっと守られていたのだと知った。用意されたものをむさぼり食い、ぬるま湯に浸かり、いつも自分のことばかりで、周囲のことなんてまるで見えていなかった。
それからの俺は何かに憑りつかれたように学業に勤しんだ。アイドルとして過ごした時間を取り戻すように、学生としての本文をまっとうした。そして、今度はアイドルなんかじゃなく、地に足をついた職を志した。
夕食後、俺は押し入れに仕舞い込んでいた段ボール箱を引っ張り出した。それは両親が買った複数のDVDやCD、写真集、SKBの記事を集めたスクラップブックを保管したものだ。
父はアイドルを辞めた俺に、「今のお前にはもう必要ないかもしれないが」と段ボールいっぱいの思い出を渡してくれた。そして、当時の俺はそれを押し入れの奥へと封印した。
SKBを辞めた俺に、父が何を思い、それを託したのかは分からなかった。でも、今、それらを目にしながら、ノスタルジックな気分に浸る。
あの頃は、ホント、父が語ったのと同じで毎日忙しかったのをよく覚えている。いつも生傷が絶えなかった。いつの間にか出来ていた手足のすり傷や、膝に出来た青アザが勲章のように思えたっけ。傷ついた数だけ、前へ進めたような気がしていた。だけど、もう体に出来た傷はどこにも見当たらない。あるのは、鈍い心の痛みだけ。
取り出すCDやDVDの中に、自分が知らないものがあるのに少しあきれ顔になる。ケースの中には、握手券がそのまま残っている。息子の握手券を保管している親って……。俺は苦笑いを浮かべながらも、そのひとつひとつの重みに震える。
それから俺は、もう一つあった段ボールを開ける。そこには読まれることのなかった大量のファンレターが詰め込まれていた。
「現役時代は忙しくて読む暇なんてなかったもんな」
誰に言い訳するでもなく呟く。
俺はDVDの映像を見ながら、今さらながらそれらを読み進めていった。
熱狂的なもの、控えめなもの。ずっと応援している。元気を貰った。熱量に差はあるが、綴られているメッセージはどれも前向きで、受け止められないほど沢山の想いで溢れていた。
陽子が言うように、たしかにSKBを支えにしている人がいた。そして、手紙の中にはあゆむや陽子からのものがあった。
アイドル、木村崇矢は、確かにそこにいた。だけど、当の本人は、アイドルになり多くのことを経験した。が、そのほとんどは嫌なものだった。テレビで見ている時には分からなかったアイドル同士の軋轢、メンバー内での足の引っ張り合い。黒い噂。偽りの歌、偽りの笑顔。俺は、夢の舞台のただ中で絶望し、いつの間にか笑えなくなっていた。
そして、俺は誰からも応援されない、誰も応援しない、ただの木村崇矢になった。
だから、ここにある想いはここで通行止め。
なら、せめて最後まで読むのが義務だろう。何十分、何時間経っただろうか。DVDやCDを入れ替えながら、ようやく段ボールの底のファンレターへとたどり着く。それは、消印のない手紙だった。
「これは……。この手紙は……」
花びらの刺繍が散りばめられた薄いピンクの便せん。そこに、『たかや君へ』と幼く丸っこい文字で書かれていた。
俺が貰った初めての手紙(ファンレター)。SKBになる前の、ただの木村崇矢だった時に貰ったものだった。
何よりこの手紙が全ての始まりだった。
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