第3章 「あの日、あの時、あの少年」4

「大学の入学式の日、桜並木道に散る花びらがとても綺麗だったのを覚えています。それは、新しい始まりの合図でした。知らない通学路、初めて出会う人たち。とにかく何もかもが新鮮で、学ぶこともいっぱいありましたけど、それがとても面白くて、本当に毎日が充実していました」

 俺も大学入学当時は、目まぐるしい毎日の中、あっという間に夏休みに入ったのを覚えている。

「だけど、その反面、どこか満たされないような、心の中に小さな穴が開いているような違和感を覚えていました。そんな気持ちを抱えたまま、前期の授業が終わり、そのお疲れ様会で大学のみんなと行ったカラオケで、その違和感の正体に気が付いたんです。自分が何のために勉強しているのか? 何になりたかったのか? そう……。私はずっと忘れていたんです、あの頃の想いを……」

「あの頃の想い?」

「はい。あの頃――中学生の私は、あまり勉強が得意ではありませんでした。だから、しばしば居残り授業に参加することもありました」

 ふふふと照れ隠し気味に笑う。

「何度目かの補習授業の時だったか、先生に言われたんです。『あなたは何のために勉強しているんですか?』って。でも、その問いに私は答えることが出来ませんでした。そしたら、先生は、課題のプリントと共に、一枚のCDを渡してくれたんです。『課題よりも、今のあなたに必要なものがここには詰まっています』って」

 そう言うと、陽子は席を立ち、本棚をあさる。

「その時は何のことか分かりませんでしたけど、家に帰って、課題をやりながら先生に渡されたこのCDを聴いて、それが分かったんです」

 古びたCDアルバムを一枚取り出し、こちらへと差し出した。

「努力、友情、愛。前向きで純粋な想い、夢がここには詰まっていました」

 俺は渡されたCDジャケットに視線を落として、唇を噛みしめた。

「この歌を聴いて、私は、自分には夢がないことに気が付いたんです。ともすれば、その時まで『夢』なんてこと、考えてすらいませんでした……。思えば、多くの大人たちは、口をそろえて『勉強しなさい』とは言うけど、何のために勉強するかを教えてはくれませんでした。目的も知らずに勉強するのは、地図も持たずに旅に出るようなものです」

 おかしいですよねと微笑んだ。

「私は、小さな頃、本を読むのが好きでした。父が誕生日にくれた白雪姫やシンデレラ、アリス……。そこには文字通り、夢のような世界が広がっていました」

 陽子はCDと一緒に取り出していた絵本のページを愛しそうにめくっていった。

「でも、現実の世界で夢を知った時、創作のお話に想いを馳せても、そこに自分という存在はいないのだと。私という物語の中に、主人公はどこにもいないのだと。地味でも、派手じゃなくても、自分自身の物語を描けるのは私だけなんだと気付いたんです……。その夜、私は悲しくて泣いてしまいました」

 絵本を閉じ、ハードカバーの表紙のふちをなぞる。

「そして、決めたんです。私が自分自身の物語の主人公にならなきゃって。それから、少しずつ何のために学ぶかということを意識し始めました。自分が、何になりたいのか? どうありたいのか? まだ何も分かりませんでしたが、それを強く意識するようにしたんです。そのおかげかどうかは分かりませんが、次第に成績は良くなっていきました」

 俺が手放し、テーブルに置いたCDを愛しそうに見つめ、

「このCDもそうですが、それを教えてくれた先生にはどんなに感謝してもし足りないくらいです。いつも気さくで明るい性格。時に厳しいこと言うこともありました。でも、悩んでいる生徒がいれば、手を差し伸べて一緒に悩んでくれる。いつしか私はこの人のようになりたいと想い、教師を志しました。先生は私の憧れであり目指すべきゴールになったんです」

 陽子はキリリと眉を上げた。

「目標が決まれば、あとは一生懸命勉強するだけでした。絵本や文庫本は、分厚い参考書へと姿を変え、夢を叶えるため、理想の教師になるため、一つでも上の学校、いい大学に入学出来る高校、大学を目指しました。そんな忙しい受験勉強の日々の中、いつしか私は勉強することにだけ一生懸命になり、大切なものを忘れてしまって、父の薦めの大学に入学していました」

「それで、いいじゃないか……。それで、ハッピーエンドでいいじゃないか?」

「もちろん父の希望の大学に入学出来たことはとても誇らしいことでしたし、このまま、あの頃の想いを忘れて前へ進むのも良かったのかもしれません。しかし、私にはそうすることが出来ませんでした。そう、ハッピーかもしれませんが、まだ私の物語は終わりじゃありませんから」

「だからって、そんな簡単に、今までやってきたことを――何もかも捨てられるほど、価値のあることなのか? 子供の頃の夢なんて、現実のみえていないガキの、それこそ形のないユメでしかないじゃないか?」

「そうですね……。あの頃の夢は漠然としていて、形のないユメまぼろしだったのかもしれません。でも……。だけど……。あの頃の自分に胸を張れるんだろうかって……」

 俺はその言葉にドキリとした。

「それに、簡単ではありませんでした。両親の説得、学費の問題に、もう一度受験勉強だってしなければいけませんでしたしね。多くの友達は、前へ向かって歩き続けているのに、自分だけは後戻りして、また同じ場所から始めなければいけないんですから。何度も諦めそうになりました。夜ごと、自分の選択を後悔しそうになりました。それでも、私が諦めずに続けることだ出来たのは、SKBの歌があったからなんです」

 そう言うと、陽子はテーブルの上のCDを指さした。

「こんなもの、何の価値もないじゃないか……」

 誰にともなく呟く。

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