第3章 「あの日、あの時、あの少年」3
「本当にお風呂、入らなくてもいいんですか?」
「うん。そこまで甘えるわけには。と言うか、これ飲んだらすぐに帰るから」
可愛らしい調度品に囲まれた部屋で、俺は熱々のコーヒーに口をつけながらそう言った。
濡れネズミになってしまった俺を、自分の家へと陽子は招いてくれた。俺もその誘いを断り切れずにホイホイとお邪魔してしまっていた。とは言え、あまり長居する気にもなれず、出来るだけ早く出ていこうとしてコーヒーを飲み干そうと試みるも、あまりの熱さになかなかにその進みは悪かった。
「…………」
何となく話題が見つからずに黙り込む。
「そう言えば、昨日はお疲れさまでした」
「いや、あまり盛り上げられなくて、ごめん……」
「いえいえ、みんなとても満足していましたよ。だからまた、よろしくお願いしますね」
「そうなんだ。でも、それはあの子たちに言ってあげてよ。お世辞でも、彼女たちは喜ぶと思うよ」
「いいえ。お世辞なんて。今までで一番の賑わいでしたよ」
「ははは。まあ、瀧口さんたちのグループがいたからね。だけど、結果として彼女たちは瀧口さんたちの前座でしかなかった。そういう意味では少しは役に立てたのかもね。俺なんかと違ってさ……」
乾いた笑いを浮かべながらそんなことを口にする。
「だから、もう辞めてしまうんですか?」
俺はカップに落としていた視線を上げた。
「だから、あの子たちのプロデューサーを辞めるんですか?」
陽子にしては真剣な声色でそう問いかける。
「あ、ああ……。グッズだって、瀧口さんの所は用意したものは全部完売したのに対し、アイドル部のものは一つも売れていないんだ。彼女たちはプロじゃない。ただの部活だから、結果が全てじゃないけど、はっきりとした形が出てしまったのは確かなんだ。だから、俺はここで降りさせてもらうよ。そもそも、最初から――」
言いかけて、不意に腹部の痛みを思い出し、止めた。
「ゼロに何をかけてもゼロにしかならない。なんにしろ、俺たちの研修期間もあと二週間だし、これからはそちらに注力するよ」
陽子は、それもいいですねと言って席を立つと、
「そう言えば、見てもらいたいものがあったんでした」
机の引き出しから、なにやら可愛らしい便せんを取り出すとこちらへ差し出した。
「小さな女の子からのファンレターです。イベントがある時、いつも彼女たちの応援に来てくれてるんですよ」
俺はふとステージ前で、アイドル部の真似をして一緒に踊っていた子を思い出す。あの子か……。
四つ折りにされた手紙には、あまり綺麗な文章とは言えないが、一文字一文字丁寧で、一生懸命書いているのが見て取れた。そして、伝えようとしていた。自分が彼女たちのことを好きだということを。
「あの子、お母さんに連れられて一度瀧口さんのステージに行っていたみたいなんですけど、あの後、CDを買いにわざわざ戻ってくれたんですよ」
「そう……だったんだ……」
声が震える。カタカタと肩が揺れる。その一方で、何故か胸の奥が温かくなるのを感じる。
「まだ寒いですか? 暖房もっと上げましょうか?」
「いや、そうじゃないんだ。ただ――」
「ただ?」
首を傾げ、陽子は俺の言葉を待った。が、俺がカップに口を付けるのを見て、続きがないと悟ったのか、
「素直に、嬉しいですよね。応援してくれる人が一人でもいることが。こんなにも心を熱くさせるんです」
俺の心を代弁したかのようなセリフに、手に持つカップが揺れ、波紋を描く。
「そう、ゼロではなかったんです。無駄ではなかったんですよ。だから、もう一度、アイドル部のこと、考え直してもいいんじゃないですか?」
「いや、あいつらは、もう俺に愛想をつかしていると思うよ。それに、昨日も言ったけど、俺に何が教えられるって言うんだ? 俺は何者でもないし、何の技術も持ち合わせていないんだ」
と、陽子は少し寂しそうな顔を浮かべ、
「どうして、出来ない理由ばかりを並べたてるんですか?」
「それは……」
ギリギリと奥歯を噛みしめる。
「それは……。俺が元SKBだから……。何も出来ない、ただの男――いや、負けっぱなしの人間だからだよ」
コーヒーカップを覗き込むと、寂しそうな顔をした男がこちらを見つめていた。
「アイドルになっても何かを得られる訳じゃない。俺はあの子たちに自分と同じ想いを抱いて欲しくはないんだ。俺は、アイドルになって後悔しかしてこなかった。だから……」
「なるほど、そういうことでしたか」
「すまない……」
「いえいえ。謝ることなんてないですよ。ときに、木村さん、知っていますか? 今の学校教育は、なるべく生徒たちに優劣をつけないようなシステムを推奨しているんですよ」
「あ、ああ。生徒のみんなが不公平感を抱かないように、ある種、都市伝説のようだけど、順位付けしない運動会や、主役を複数人にした学芸会なんかを実施している学校があるという話を聞いたことがあるよ」
だけど、それはあくまでも、推奨しているだけであって、別に、教育委員会だか、国だかが主導でやっているんじゃない。現場任せの、玉虫色の制度とでも言った方がいいのだろうか。
「不登校、暴力行為、いじめ、学級崩壊。今、学校は多くの問題を抱えています。それに蓋をするように、生徒たちを型にはめて、優劣をつけず、失敗から遠ざけるような指導をしてしまっているように思います。それは学校という、閉じた世界の中ではいいかもしれませんが、社会に出た時に、挫折や失敗を経験した時、それにどう立ち向かうかを知らない大人たちになってしまうのではないでしょうか? それは、教育というものを諦め、学校や教師が、生徒を見放しているのと同じです」
何かを問いかけるように、こちらをじっと見つめるつぶらな瞳。
「俺も同じように間違いを犯していると? 問題から――あの子たちから、逃げ出していると?」
「いえ。何がいいとか悪いとか、何が正しくて間違っているのかは、私にも分かりません。だけど、遠ざけてしまえば、何もしなければ失敗しないのでしょうか? 何もしないことが失敗に繋がることもあるんじゃないでしょうか?」
俺は何も答えず、冷たくなったコーヒーを一気にあおった。
「実は昨日の朝、アイドル部のみんながイベントで披露する曲はとても難しくて失敗してしまうかもと相談に来たんです。もしかしたら、ステージを台無しにしてしまうかもしれないと……」
初耳だ。
「でも、私はそれを承諾しました」
「そんな。どうして?」
「それは……。彼女たちから、失敗する機会を奪いたくなかったからです」
「失敗する『機会』だって? 何を馬鹿なことを……。無難に、自分たちの出来る曲をやっていれば、あんな結果になっていなかった。誰も、傷つかずにすんだはずなんだ」
「そう――なのかもしれません。だけど、私は昨日の選択を後悔はしていません。それに、あの後、元木さんが言っていたんです。『一度や二度の失敗は、失敗のうちには入りません。だって、最後は、絶対に成功するんですから』って」
俺はハッとし、目を見開く。
「負けることは恥ではありませんよ。困難から目を逸らし、立ち向かわずに逃げ出すことの方がずっと恥ずかしいことです。私は、たとえ負けたとしても、もう一度立ち上がれる強さを教えることこそ本当の教育なんだと信じています」
「そんな綺麗事! それは今まで君が挫折や、何かを諦めたことがないから言えることだ!」
と、陽子はかぶりを振り、
「私は一度大学受験に失敗したんです。厳密に言うと、大学を受験し直したんです。父の跡を継ぐため、経営を学ぶため、両親の勧めの大学へ一度は入学しました」
陽子の口にした大学は、受験生なら誰でも名を知る大学だった。
「そんな、なんで……? 合格するのに随分と勉強だってしたはずだ」
「ええ。高校三年間、全てを勉強時間に捧げて、何とか勝ち取れた結果だと思っていますよ」
「なら、どうして?」
「そうですね~」
陽子はカップの端に口をつける。それから、何かを思い出すように宙を見つめる。やがてカップから口を離し、濡れた下唇を人差し指で拭うと、
「それが自分の進むべき道ではないと知ってしまったからですかね」
目を細めてはにかむ。
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