第3章 「あの日、あの時、あの少年」2
少女はこちらを気にするべくもなく、スタスタと歩いていく。黒いスカートの裾が地面スレスレをかすめる。
無言で歩くこと十数分。たどり着いた先はひと気のない空き地だった。その中央付近で立ち止まると、こちらへと振り返り、一言。
「アタイは、今からあんたを殴る」
「何? 君は一体何を言っている? 俺が何をした? そもそも、俺は君のことなんて知らない」
「アタイは月野卯月(つきの うづき)。そして、殴る理由はたった一つだけだ。てめぇは、アタイの妹を――咲月を傷つけた。ただそれだけだ」
「月野……。そうか、君は月野、咲月さんのお姉さんか……」
そう言えばアイドル部の練習中、時折、物陰からこちらを見つめていた女性がいたが、それが彼女だったのか。
「そうだ。あんたが、アイドル部の責任者だというのは知っている。ぷろ、なんとかいう指導者で、商店街の祭りに出て、その結果、妹は傷ついて帰ってきた。だから、あんたにはその落とし前をつけてもらう」
歯を食いしばれと、言った刹那――卯月は大げさにモーションをかけるでもなく、拳を構えると綺麗な右フックを頬へと叩き込んだ。
痛みは一瞬だった。だが、まさか本当に殴られると思っていなかったので、その衝撃で尻もちをつく。
「痛いか?」
見下ろす卯月。
いきなりすぎて何が起きたか、いまだに理解が追い付いていかない。
「あの子の痛みはそんなものじゃないはずだ。体の痛みなんかじゃない。心の痛みってやつさ。だけど、アタイも女だ。これでこの件は手打ちにする。と言っても、あんたのことを許したわけじゃない。アタイは妹を泣かせた奴を絶対に許しはしない。だから。もう二度と咲月の前に顔を出すな。そして、その痛みをこの先ずっと忘れないことだ」
そう吐き捨てると、卯月は俺に背を向けた。そして、さも悪者に鉄槌を食らわしたがごとき態度で肩で風を切って歩を進める。
立ち上がり、その後ろ姿を見ていたら、今さらながら、頬がジンジンと痛んだ。
「なに、言ってやがる……。おれだって……、おれだって……」
その痛みを噛みしめるように、唇が動いた。
ギリギリと奥歯が軋む。そうだ。彼女が言うように、心の痛みはずっと消えることはない。
「俺だって、やりたくてやってたんじゃ……ない……」
喉の奥が焼けるように熱い。
途端、遠ざかっていた足音がこちらへと近づき――ズドン。
みぞおちに一撃。さっきよりもずっと強烈なパンチだった。
たまらず、体がくの字に曲がる。足が震え、立っていられなかった。
が、俺の膝は地につくことを許されなかった。卯月は腹にめり込ませた拳で、そのまま上着を掴むと俺の顔を自らの鼻先まで引き寄せる。互いの額がかち合う。
鬼のような形相をした卯月の鋭い眼光が突き刺さる。
「やりたくなかった……。だって!? 今さら何言ってやがる? あんたは一度引き受けるって言ったんだろ。あんたが、団のヘッドなんだろ! 信じた奴らを引っ張っていくのがリーダーの仕事なんだろうが! それを、今さらやりたくなかった? ふざけんじゃないよ! あんたなんかを信じたせいで、咲月は! アタイの妹は――っ!」
卯月は、襟元を掴んで俺を宙に持ち上げている。つま先立ちで何とか呼吸は出来てはいるが、あまり長くは持ちそうにない。
「あの子は、昔から体が丈夫じゃないんだよ」
「何を……言っている……」
「なぜ、ああなる前に気が付いてやれなかった? 気付けた、はずなんだ……。あんたが! ……アタイが……」
拳に込めた力が緩んだのか、ようやく俺の足は地面についた。
「あの子は、毎日ボロボロになって帰って来たよ。アタイは何度も部活動なんて辞めろと言った。だけど、咲月はアタイの言うことをきかなかった。今までは何でも素直に従っていたのに……」
卯月は俺の胸に額を預けると、一人語りを始めた。
「こうなることは、最初から分かっていたのに……。だけど、止められなかった……。あの子は言っていたんだ。これからは、すごい人に指導して貰えるんだって。ひどく疲れた様子だったけど、いい顔してたよ……。だから、何も言えなかった。練習風景も見せてもらったが、あんなに生き生きとした咲月を見たのは初めてだった……。そんな風に言ってもらえるあんたを羨ましいとさえ思ったくらいだ」
緩んだ襟首の力が再び込められる。
「なのに、あんたはその笑顔を曇らせた。あの子の期待を手酷く踏みにじったんだ。結果として、あの子の力不足で失敗したのは事実だ。だがな! あんた自身は全身全霊でその想いや覚悟を受け止めたって言えるのか! アタイはそのことを言ってるんだ」
睨みつけるようにして、卯月が詰め寄る。
また期待か……。なぜみんな俺に期待するんだ……。
「何とか言ってみろ! オイ! SKB!」
曇天の空に振りあげられた拳。眉間の皺が激しい怒りを如実に示していた。大切な妹を傷つけた男に対する答えを真剣に求めていた。
だが、俺はそれを視線を逸らすことで応えた。
その瞬間、スッと、首を絞めつけていた力が緩まる。
「あんた。男らしくないよ……」
悲しいような、憐みの瞳。
「殴る価値もないぜ……」
吐き捨てるように言うと、ゴミでも捨てるようにして俺をほうり投げた。
「アタイには、到底あんたが何かを持ってるとは思えないけどな」
そう言い放つと、卯月は立ち去った。
気道が解放され、逆に息苦しくて咳き込む。と同時に、激しい嘔吐感が下腹部から胸へとせり上がってくる。それを何とか押さえつけるも、代わりに眼尻から熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
俺は拳を地面へ突き立て立ち上がろうとするも、さっきのボディブローが徐々にではなく直球で効いてきたのか、膝がガクガクと震えバランスを崩した。膝小僧が地につき、そのまま地面へと胸からダイブする。
朝から曇り空だったためか、頬に感じる地面がひんやりと気持ちがいい。
ぼんやりと視界がぼやける。だが、別にどうでもいい。視線の先には無機質なアスファルトがあるだけだ。何の色も持たない灰色の俺と同じだ。が、灰色のアスファルトに、一粒の黒い染みが出来る。そして、それが波紋のように広がっていき、一面黒で塗りつぶされていく。
拍手のような雨音が、直接鼓膜に響く。今も耳に残るあの日の夢。目を閉じ、このまま泥のように溶けるまで眠りに落ちたい。そして、目が覚めたら今までのことが全部夢だといい。何もかも。そう何もかも……。
それから何分、何十分、何時間経っただろうか。パシャパシャと小気味のいい音に目を覚ました。俺は自分が雨に打たれていないのに気が付く。
地に突っ伏していたはずなのに、天を仰いでいた。見ると、透明なビニール傘が雨粒を受け止めている。
後頭部に感じる柔らかな感触。
顔を上げると、そこには慈愛に満ちた笑顔を浮かべた陽子の顔があった。
「こんな所で寝ていると風邪をひきますよ」
そう言うと、濡れた頬をハンカチで拭ってくれた。
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