第1章 「伝説のアイドルの伝説」5

 校門を抜けて、200メートルほど先にある部室棟。その入り口に人影が見える。

 こちらに気付いたのか人影が振り返る。

「あの……。おはよう……ございます」

 控え目なお辞儀と同時に、艶のある長い髪が軽く揺れる。

「ああ……。おはよう」

 とっさに挨拶を返してあゆむの方を見ると、

「このお方は、さっきお話したもう一人の部員さんです」

「はじめ……まして……。二年生の月野咲月(つきのさつき)と申します」

 上下共に白いジャージを身にまとった女生徒がこちらを見てキョトンとしている。おっとりとしていて、随分と柔らかい印象の子だ。

 大人しめだが、整った顔立ち。ややたれ目がちな優しい瞳。くっきりとした眉のあたりで切り揃えられた黒髪が腰まで伸びている。何と言うか、和風美人といった感じの子だ。

「木村崇矢だ」

「昨日お話したとおり、部のプロデュースをしていただくお方です。ちなみに、アタシは大ファンです」

 ひらひらと十本の指を動かして、あゆむが賑やかす。

「だから、それは断ったはずだ」

「それじゃあ、何の部活に入るんです?」

「何の部活って……」

 なんだろうな? SKBを辞めて以降、中高と帰宅部で過ごした俺にはこれと言って得意なものはない。

「ほら~。だから、今はアイドル部にいて、どこか入りたい部が見つかったら、そこに行けばいいじゃないですか」

「いや、だけどな……」

「ね? ね?」と強引な勧誘を断り切れずにいると、ジャージ姿の涙歌がやってきた。

「おはよう」

 俺の方に視線を向けず、二人へ挨拶する。

 どうやらここまで走って来たのか肌が上気している。だけど、額には汗ひとつかいていない。

「さぁ、喋ってばかりいないで練習を始めるわよ。練習を一日サボれば取り戻すのに三日かかるのよ」

 完全に俺を無視して、アイドル活動の練習メニューをこなしていく。

 俺はと言えば、ただそれを見ていた。

 アイドル活動のための練習。それは一般の人たちが目にする歌やダンスの練習と言った派手なものではなく、主には走り込みなんかの地味な基礎体力作りが中心だ。実際にアイドル活動というものに触れたことのない者には想像出来ないかもしれないが、体力がなければステージでの歌やダンスは務まらない。なおかつ、そのハードな動きをアイドルらしく笑顔を作りながらやらなければいけないので、疲労度は普通にパフォーマンスをする倍以上だ。

 入念なストレッチを終えてからグラウンドを10周。それから、発声練習をこなした後に、持ち歌の合わせやダンスステップを確認する。歌を一曲歌うだけでも、実に一週間単位の練習を行う必要がある。地味な作業の繰り返しだが、それを怠れば涙歌が言っていたように、勘を取り戻すのにかなりの時間がかかってしまう。毎日の積み重ねが一流なアイドルを育てるのだ。

 それにしても、流石は涙歌といった感じだ。メンバーへの的確な指示出し。昔から真面目で、アイドル研究に余念がない。俺もSKBに入ったばかりの頃、よく涙歌にアドバイスを求めたっけな……。

 という訳で、練習は涙歌に任せても問題ないだろう。

 あくびを一つかみ殺す。

 何もしないというのも暇だが、楽でいいか。元々練習を見ているだけの約束だし、プロデュースするって言っても何をしていいか分からないもんな。

 パンパンパンと手拍子でリズムをとりながら、涙歌が二人のダンスの指導をしている。

 そのキリリと真剣な表情に吸い込まれそうになる。

 だけど、涙歌のやつ、アイドル活動なんてまだやっていたんだな……。あれ以来、もう辞めてしまったのかと思ったけど、あいつにとってアイドルはまだ……。

 あの頃と比べて、涙歌は随分と雰囲気が変わってしまった。昔のように変わらず美人だが、以前のような天真爛漫で自然な美しさというよりは、今は近寄り難い刺すような鋭いトゲを感じる。それが、幼い子供から少女に成長し、変わっただけと言うのならそうかもしれないが、俺の記憶の中にある涙歌はもっとこう――。

「――むらさん」

 もっと、こう、ヒマワリのように眩しい――。

「きむらさん? 木村、先輩!」

「ん?」

 気が付くとあゆむが上目づかいで俺の顔を覗き込んでいた。

「練習、終わりましたけど」

「あ、ああ……。お疲れ。って、どうして先輩なんだ?」

「え? そうですね~。何ででしょ? 何となくですけど、人生の先輩だからですかね?」

「あ、そう」と言って腕時計を見ると、短針が8時を指し示そうとしていた。

「だけど、どうかしたんですか? ボケーと呆けていましたよ。まぁ、アタシに見とれるのは構いませんけど~」

 うっふ~んと、あゆむは腰をくねらせてポーズをつける。

「誰が誰に見とれるって? こっちは無理やり叩き起こされて寝不足なだけだ。それに、ガキの体なんて見ても何も感じないぞ」

 実際、あゆむは見とれるようなセクシーな美少女というよりは、女性的な凹凸のまるでない引き締まった元気なスポーツ少女といった感じだ。そういえば、子供の頃の涙歌に雰囲気がよく似ているような気がする。

 と、不意に視線を感じてそちらに視線を移すと、そこには涙歌が立っていた。

 それにしても結構な運度量をこなしていていたはずだが、涙歌はクールな表情を崩していなかった。あゆむは、額に玉のような汗を滲ませていて、距離が近いのもあるが若干匂いが気になる。咲月の方はといえば、肩で息をするほど疲労している。心配になって声をかけようとしたら、「汗、拭いておかないと風邪ひくわよ」と涙歌が咲月へとタオルを手渡す。

「あゆむも、おしゃべりなんてしていないで、きちんとストレッチは済ませたの? 練習で怪我なんてしていたら元も子もないわよ」

 少し不機嫌そうだが、きちんとメンバーを気にかけている。いいリーダーでもあるようだ。相変わらず俺とは視線すら合わせないが……。

「それじゃあ、お先」と言って涙歌は、校舎の方へと消えて行った。俺はただその背中を無言で見つめていた。

「涙歌先輩。ホント、綺麗ですよね」

「ああ……。あ、いや……」

 不意の問いかけに思わず本音が漏れる。目を細めて涙歌の後姿を見つめるあゆむ。

「アタシも、もう少しだけ身長と胸とお尻が自己主張してくれると、涙歌先輩の隣にふさわしいアイドルになれるのにな~」

 あゆむの、『もう少しだけ』というフレーズに、俺は思わずフッっと口角を上げた。その『もう少し』に届くまでは随分と距離がありそうだな。

「その笑いは何ですか?」と非難めいた視線に、「いや。別に……」と返す。

「なるほど、それがあゆむにとっての、アイドルになりたい理由か?」

 あゆむはうなずくと、「まだまだ全然つり合いませんけどね」と照れてみせた。

「でも、そんな理由じゃ駄目ですかね?」

「どうしてさ? 理由なんて人それぞれだろ。目立ちたい。可愛くなりたい。アイドルになりたい理由なんてシンプルなもんだろ? だから、自分の感情に素直でいいと思うけどな」

 そう。それで良かったんだ。ごちゃごちゃと余計なことを考え出すときりがない。

「だけど、涙歌は何のためにアイドル部なんてやっているんだろう?」

 俺は無意識に頭に浮かんだ疑問を口にしていた。

「それは、木村先輩の方が詳しいんじゃないですか?」

「え……」

「だって、幼馴染――なんですよね?」

「そう……だけど、もう何年も話していないんだ。だから、分からないよ」

「本当ですか~」

 いやらしく目じりを下げてあゆむは言った。

「もしかして、『愛』とか?」

「アイ?」

 それは、何に対して? 誰に対して? 俺はその答えを知らない。

「いや、本当に、俺には、分からないんだ……」

 握りこぶしを作り、眉間に皺を寄せてうつむく。

 と、あゆむが覗き込むようにして、ニコッと八重歯を見せ、

「そう、木村先輩の言うように、答えはシンプルなんです。だって、『アイ』ドルを目指しているんですから! ねっ!」

「何だそれ? 馬鹿なこと言ってないで、お前も早く授業に行った行った」

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