“『東洋深淵奇譚』

 それから男は常に見られている様な感覚に襲われる日々を過ごすことになった。

当初は自室にいる時だけのみ視線を感じていたのだが、次第に家の何処にいても、外にいても感じるようになったのだ。

意識しなければ違和感程度で済むが、一度意識してしまえば常に見られているような感覚に襲われる。

本来雲一つない青空が広がっているはずの空を見上げても、満天の星空を見ているかのように、黒色の空と無数の目玉を男の眼は捉えた。

そして次第に、男の耳には「声」が入ってくるようになった。

男を嗤う声。

男を嘆く声。

男を非難する声。

男を悲しむ声。

男に同情する声。

男に激怒する声。

様々な声が男の耳には入ってきた。

それらは全てとても大きな声であり、隣にいる人の声ですら聞こえない事もあった。

男はみるみる内に痩せ細っていった。

食べる物に困らない筈の男が段々とその生気を失っていく様を見て周囲の人々は男に対し、医者に診てもらう様に進めた。

しかし、その声も男の耳には入っていなかった。

その様をずっと間近で見ていた妻は男がどうにもならないと悟ったのか、男が変わっていく前と変わらない生活を過ごすことを選んだ。

 あくる日の朝である。

食卓を夫婦で囲っていた男はいきなり箸を落とし、その痩せこけた頬に両手を当てた。

指の間から覗く瞳はそれまでの生気を失っていた物とは違っており、色を取り戻していた。

「奴さん、見ていやがるんだ。俺の人生を見て楽しんでやがる。俺の狂っていく様を見て楽しんでやがるんだ」

 喉の枯れた声で壊れたrecordの様にその言葉を繰り返すその様子を見た妻は狼狽える訳でもなく、只そのまま座っていた。

男は立ち上がった。

台所へと弱弱しい歩を進め、まな板の上にあった包丁を手に取った。

「俺はお前の思い通りにはならねえ!残念だったな、俺の物語はこれで終いだ!」

 男の喉からは血が噴き出した。”

筆を止めた男は大きなため息を吐き出した。

仕事を終えた達成感に満たされた胸を逸らし、閉じていた目を開いた。

目の前にあるのは木板の天井だけ。

彼は冗談交じりに笑って口を開いた。

「お前は、誰だ?」

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