第百六十五話 わらう魔教主【中】

「公子! こちらにおいででしたか! 何事ですか!?」


 早梅たちを追って駆け出そうとした暗珠アンジュを、呼びとめる声がある。

 ちいさく舌打ちをし、ふり返れば、そこにいるのは案の定、チェン仙海シェンハイである。


「陳太守! どうかお聞き届けください。伝統ある『射陽の儀』を、野蛮な小娘によって台無しにされたのです! ルオ皇室に敬意を示すこの祭事で、なんという愚行……これは皇室に対する冒涜ですぞ! 一刻もはやく不敬罪で捕らえるべきです!」


 お立ち台から落ちた際にぶつけたのだろうか。ひたいにたんこぶをこしらえた司会の男が、陳仙海へ泣きつくも。


「──戯言も大概にしろ」

「ひぃっ……!」


 低くうなる暗珠の心情は、おだやかではない。

 爛爛らんらんとたぎる薔薇輝石の眼光にすくんだ男が、腰を抜かしてころりと地面に転がる。


「火をつける際、今年は凧の代わりに生きた烏を用いることを、そなたは知っていたか、陳太守」

「なんと……いえ」

「伝統ある祭事? はっ……笑わせる。この『低俗で悪趣味な愚行』をただちにやめさせろ。その男がまだ戯言を抜かすようなら、舌を切れ」

「なっ……そんな……!」

「公子……」

「不快なものを見せられた。関係者ともども連れてゆけ」

「……かしこまりました。御身のおぼし召されるがままにいたします、殿下」

「皇子殿下ですって!? そんなっ、お許しください殿下、殿下っ……!」


 男がすがりつこうとするが、暗珠は一切耳を貸すことなく、きびすを返す。

 むしろ、感謝してほしいものだ。


「こんど私の前にあらわれてみろ。──その首と胴を、泣き別れにしてやろう」


 おのれにとって最愛の早梅を貶めた。

 それに該当する者は、ことごとくが罪。


 ──万死に値するのだから。



  *  *  *



 ひと暴れした広場から脱兎のごとく逃げ出し、しばらく。


「うん、道に迷った!」


 薄暗い路地裏で、早梅はやめは「わはは!」と笑い飛ばしていた。


「クラマくんともはぐれちゃったなぁ、詰んだ? ねぇこれ詰んだよね?」


 逃げ出したのは早梅だが、暗珠とはぐれるのは想定外だった。軽功けいこうを使ったおぼえはないのだが。

 もしかして、どこかですっ転んだのだろうか。ひざ小僧を擦りむいてピーピー泣いていたらどうしよう。


「あの……」

「あっごめん! 君のことも忘れてないからね、安心してちょうだい!」


 控えめに声をかけてきた青年に対し、にっこりと笑みを浮かべてみせるが、あらためて早梅を映した夜色の瞳が、まばたきを止める。


「あ……お顔が……」

「うん? なんか変な顔でもしてたかな」

「ほほに、火傷が……」

「そういえば。はは、たいしたことないよ、気にしないで」

「俺のせいだ……俺のせいですっ!」


 平静を取り戻し、徐々にわれを失っていたときのことを思い出したのだろうか。

 顔面蒼白になった青年が、飛びつくように早梅の足もとへひざまずいた。


「えっなに、どうしたの!?」

「女性のお顔に傷を……そればかりか、みだりに気交きこうをおこなうなど、とうてい許されることではありません」

「いやいや、私は平気だし、ほんと大丈夫だから立ってよ、ねっ?」

「いいえ! 責任を取らねばなりませぬ。わたくしと結婚をしてください、花のごとく可憐で麗しい方!」

「んぇえええっ!?」


 なぜだろうか。激しい既視感が。

 そう遠くないむかしに、おなじようなことを言われた気がする。


「ちょっと待って! ひとまず話をしないかい? 私たち、おたがいの名前も知らないだろう!?」


 早梅があたふたと背を宥めすかしてやると、すこしの間があって、青年がゆっくり顔をあげる。


「名は……シアンと、そうお呼びください」

「爽っていうの? でも君は──」

「言わないでください」


 青年──爽の手のひらが、早梅の唇へ押しあてられた。


「……『それ』はもう、失くしたものです。『俺』がもっていては、いけないものなのです」


 伏せられた夜色の瞳に、影が落ちる。

 無理を強いる権利は、早梅にはなかった。


「そうか。じゃあ爽、私は梅雪メイシェ。よろしくね」

「っ……あなたが、梅雪さま」

「私のこと、知ってるの?」

「存じ上げております……一方的に、ですが」


 なんとも煮えきらない答えだ。

 首をかしげていると、自由な左手で、右手を包み込まれる。


「梅雪さま……お礼申し上げます。何度感謝しても、しきれません」

「烏のことかい? 私も頭にきたからね」


龍宵節りゅうしょうせつ』についてたずねたとき、黒皇ヘイファンが表情を硬くしていた理由がやっとわかった。

「祭りが見たい」などと駄々をこねていたなら、もっと辛い思いをさせていただろうことを考えると、やるせない。

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