第百六十三話 灼陽は二度墜ちるか【後】

 早梅はやめは両足の裏でしっかりと地面を踏みしめると、息を吐き出し、青年へ語りかける。


「君には、弟がいるのかい?」

「……っあ……」


 とたん、ぴたりと動きを止める青年。

 極限まで見ひらかれた夜色の瞳。彼自身が、おのれのこぼした言葉に衝撃を受けているようだった。


「そう、だ……おとう、と……弟……あの子が、いなくなって、わたしは……っ、あぁっ! あにうえ、兄上ぇっ!」


 とめどなく涙を流しながら悲痛な叫びをひびかせる青年を前にして、早梅の胸はきゅうっと締めつけられる。

 あぁ……見れば見るほど、と。


黒皇ヘイファン黒慧ヘイフゥイ

「──ッ!」


 早梅がことさら静かに発語すると、青年の肩がひときわ大きく跳ねた。


「ふたりとも生きてる。無事だよ。これで証明になるかな」


 動きが止まった一瞬を見逃がさず、早梅はふところから取り出したものを青年へ差し出す。

 赤、青、緑、金、紫。五色の宝玉でいろどられた、手鏡を。


「あ……あぁあ……!」


 青年のととのった顔が歪み、夜色の双眸から、大粒の雫があふれ出す。

 この手鏡がだれによって作られたものなのか、だれの内功おもいが込められたものなのか、青年にはわかったのだ。


小慧シャオフゥイ……っ!」


 手のひらにおさまるちいさな鏡を胸に抱いて、青年はひざからくずれ落ちる。


「ごめんっ、わたしがちゃんと見ていてあげればっ、おまえを独りにしなければっ……ごめんっ!」


 ぽたぽたと、石畳ににじむ模様。


「君が悲しそうにしていたら、私も悲しいよ。ふたりが悲しむからね。だから、じぶんを責めてはいけないよ……ね?」


 片ひざをついた早梅は、うつむく青年の両ほほを包み込む。

 正面から、やさしく見つめる。慈愛をもって。


 にじむ夜色の瞳が、そのときはじめて、早梅を映し出した。

 呆けたような一瞬の隙に、早梅はふれた指先から、氷功ひょうこうを流し込む。


「あっ……」


 直後、青年の口からくぐもった吐息がこぼれる。


(っ……もの凄い勢いで、吸い取られて、いく……!)


 それほどまでの熱が、青年を苛んでいたのだ。

 くらりとめまいを催すが、早梅は歯を食いしばり、氷功を注ぎ込み続ける。


「はぁっ……んんっ……!」


 そのうちに、悩ましげに眉をひそめた青年の腕が回される。

 青年も夢中のようだった。しなやかな腕からは想像もつかない力で早梅を抱きすくめ、密着するほどに増す快感に身悶えている。


 氷の結晶を舞い上げた風が、黒い炎をやさしく包み込み、ぱっとはじけて、散った。


「……は、ぁ」


 ずる、と脱力した青年の鼻先が、早梅の首筋に埋まる。

 その身は気交きこうによる快感をいまだくすぶらせており、蕩けた夜色の瞳で、早梅を見上げた。


「……あなた、は」


 半ば夢見心地でこぼされた問いに、早梅はひとつ呼吸をして、青年の濡れ羽色の髪をなでる。


「灼陽は二度墜ちるか」


 ついで、そうほほ笑みを返した。


「その答えは、そこで見ているといい」


 なにを言われたのか理解できていない青年の肩に手を置き、そっとからだを離す。

 立ち上がった早梅は、瑠璃の瞳で空をあおぎ、左手をかざした。


「──白姫パイヂェン!」


 凛とした鈴の声音がひびきわたり、白い風が巻き起こる。


 ──ヒュオオオ……


 荒れ狂う氷の花嵐が吹き去ったとき、早梅の右手には純白の義甲が、左腕には白琵琶がおさまっていた。


の章」


 ──ベベン。


 乙女の胸もとで、四本の弦がかき鳴らされた。

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