夜のこと

「よっと……」

「んー……ありしゅ?」

「トイレ」

「おね……ちゃ……も……すぅ……」


 普段着に着替えたあと、ぼくたちは奥にある修道女たちの部屋のひとつ借りることになった。


 疲れもあったのかすぐに眠気がきたのはいいけど、夜中に目が醒めてしまった。


 まぁぼくは直前まで寝てたから、さもありなん。


 窓の隙間から入る月明かりを頼りに、スフィの腕から抜け出して床で眠るみんなを避けて扉に向かう。


 ベッドがひとつだから、ぼくとスフィが使っているせいでこうなった。


 別にぼくが床でも良かったんだけど、「寝覚めが悪いにゃ」「後悔したくない」「わしを鬼かなにかと思うておるのか」と何故か全会一致。


 みんなこそ、ぼくを何だと思っているんだろう。


「チュピ」

「ありがと」


 扉を開けたところで、護衛役をすると言うシラタマが頭の上に飛び乗ってくる。


 軋まない、暗い廊下を歩く。


 時間的には深夜だからか灯りは落とされていた。


「静かだね」

「チュピピ」


 誰もいない廊下には、声がよく響く。


 昼間の喧騒が嘘のように静まり返る道をひとりで歩くのは、なんともいえない寂しさを感じた。


「遠い」

「チピ……」


 それはそれとして、トイレが遠い。


 アルヴェリアのトイレは水洗式が主流。


 建物から出る必要はないんだけど、建物そのものが広いと結局歩くことになる。


 自分の限界に挑戦する気持ちになりながら曲がり角をいくつか越えてトイレまでたどり着き、何とか用を済ませる。


 うーん、また体力が落ちてきている気がする。


 流石にパナディアの時ほど酷くはないけど、気をつけないとまずいかもしれない。


「帰りがとおい……」

「チュピピ?」

「だいじょうぶ」


 もとの大きさに戻っておんぶしようかと行ってくるシラタマの提案を固辞しつつ、トイレから出た。


 長い帰り道だとため息を吐きながら顔を上げたその時、見えた。


「…………」


 廊下の曲がり角の暗がりから、顔半分だけ出してこっちを見つめる大きなくまのぬいぐるみが。


「……………………」

「チュピ?」


 なんで、何あれ。


 脳裏に蘇る記憶、恐怖と動揺から硬直して動けない。


 シラタマも気付いたのか、パタパタと羽ばたいてぬいぐるみへ向かう。


 止める間もなく、反射的に伸ばした手の先が空を切った。


 ぬいぐるみはシラタマがたどり着く直前にヒュッと暗闇の中に消える。


 よく見えなかったけど、ミカロルの玩具箱亭に居たぬいぐるみに似てる気がする。


 ……いやそんな、まさかね。


 暫くして、曲がり角の向こうに行ったシラタマが手のひらの中に瞬間移動する形で戻ってきた。


「シラタマ……あれって」

「…………」


 心当たりがあるのかと思って聞いてみたけど、シラタマは困惑して首を傾げている。


 言えないからとぼけているんじゃなく、本気でわからないみたいだった。


 精霊アンノウン案件なのか、誰かが操っているのか……。


 シラタマがまったく警戒してないってことは悪意や敵意はないんだろうけど。


「なんだろうね」

「チュピィ」


 暗がりからくまのぬいぐるみが覗き込んでくるって、普通にめちゃくちゃ怖い。



 それから謎の熊は再び姿を現すことはなく、穏やかな朝が来た。


「アリス、夜中になにかあった?」

「べつに」


 起きたスフィが寝癖を直しながらぼくを見る。


「何か変なことでもあったにゃ?」

「起きたらアリスがしがみついてて、めずらしかったから?」

「ほーん」


 普段からピッタリ身を寄せ合って寝てるんだから、珍しいことはないと思うんだけど。


「ふははは! なんじゃ、恐ろしいものでも見たのじゃ?」


 小馬鹿にしたように笑ってくるシャオに、少しばかりイラっとする。


「夜中、血まみれの髪の長い女が窓ガラス越しにシャオを睨んでた」

「のじゃ!?」

「木窓にゃ」

「アリスちゃん、私もこわかったよ!?」


 おちゃめによる反撃は思いのほか効果的だったようで、シャオとフィリアが抱き合いつつ窓から離れていった。


「冗談は置いといて、何があったにゃ」


 ノーチェは冷静なようで、正直に話すように促してくる。


 ……誤魔化しても仕方ないか。


「トイレにいったら、廊下の先の曲がり角からでっかいくまのぬいぐるみが覗き込んできた。シラタマが追いかけたら消えた」

「ふええ!?」

「いや怖いにゃ!」

「怖いのじゃ!」


 この現象を怖いと思うのはぼくだけじゃないらしい、ちょっとほっとした。


「そ、それだいじょーぶなの?」

「悪意や敵意はないと思う……こんな場所に忍び込める力があるなら、とっくに被害が出てる」


 実際に滞在してわかったのは、修道士も騎士たちも精鋭揃いだってこと。


 しかも昨夜は騒動が起きた直後だ、そんな状態での警戒網をすり抜けて内部を徘徊するなんて尋常じゃない。


 耳を動かして外の音を拾っても、何か騒ぎが起きている様子もないし。


「あと、精霊関係かもしれない」

「あぁ……」


 推測できる中で一番確率が高いものを提示すると、何故か納得された。


 一応言っとくけど『精霊関係で何か起こるイコールぼくが関わってる』なんてことはないからな。


「なにかしてくる訳じゃないけど、伝えておく」

「あたしらに出来ることはなさそうだにゃ……」

「何もないといいけど、怖かったらいつでもおねえちゃんに言うんだよ」

「うん」


 騒動が無事に終わったというのに、スフィからの小さい子扱いにも拍車がかかるし散々だ。


 げんなりしている間に、みんなの出発の準備が終わったらしい。


 ぼくも気持ちを切り替える。


「んじゃそろそろ宿に戻るにゃ」

「錬金術師ギルドも行かないと」

「えーっと、じゃあ宿でごはん食べてから?」

「だね」


 リフォーム用資材の発注もかけなきゃいけないのに、これ以上の面倒事は勘弁願いたい。

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