├金城鉄壁

 シャオを攫って逃げた短剣使いの女を追いかけていたフィリアは、惨劇の少し後に現場に到着した。


 外から見える船体にたいして異様に広い吹き抜けと中央ホール。使われている木材はあちこち崩れ、血とアンモニアの混じり合う悪臭が漂っている。


 顔をしかめつつ周囲を探るフィリアは、吹き抜け付近にある床の穴から啜り泣く声が聞こえてくるのに気づいた。


「何ここ……シャオちゃん!? いる!?」

「ふぃりあ!? きてくれたのじゃあ!?」


 穴を覗き込むと、そこには襟首に引っかかった木材にぶら下がるシャオの姿。


 その直下は赤黒く濁った水が溜まっていて、サメのヒレらしきものがぐるぐると円を描いている。


 水面のあちこちにはサメ人間の残骸らしきものが浮かび、水の溜まっていない下層の床には瓦礫に挟まれた人間の"下半分だけ"が転がっている。


「うぶっ……」

「まぢゅのじゃ! その位置はまじゅいのじゃ!?」


 子供には見せられない光景を直視したフィリアがとっさに口元を押さえ、直撃コースにいるシャオが悲鳴を上げた。


「だ、だいじょうぶ……」

「たすけてほしいのじゃ、もう魔力ないのじゃ……ひっぐ」

「う、うん、ちょっとまっててね」


 使えるものはないかと周囲を探すフィリアだが、周辺にあるのは腐りかけた木片と、めった刺しにされた痕跡のあるサメ人間の死体だけ。


「う゛っ」

「だいじょうぶなんじゃよな、信じるのじゃよ!?」


 漂う血臭い空気に嘔気を催し、穴の上から顔を覗かせたフィリアをシャオの懇願じみた悲鳴が押し留める。


 こんな状況でもツッコミを入れるシャオリンは、もしかしたら思ったよりも余裕があるのかもしれない。


 釣られるようにフィリアも少し落ち着きを取り戻し、改めて壁が切り抜かれ顕になっている船室に目を向ける。


「ロープ探してくるから、待ってて!」

「うぅぅ、たのむのじゃあ……」


 シャオリンの周囲には、この状況なら本来居て当たり前のシャルラートの姿はない。


 足元から狙って飛び出してくるサメ人間を撃ち落とすのに水刃を連発し、完全に魔力がなくなってしまっていた。


 幻体を維持することも出来ずシャルラートも消えて、ひとり吊るされるはめになったシャオリンの絶望は如何ほどだっただろうか。


 駆け回ったフィリアがロープを見付けて戻ってくる。


「いまロープ降ろすから! 捕まって!」

「わ、わが、わがったのじゃあ……ひっぐ」


 目の前に降ろされたロープはまさに救いの糸。


 涙を流しながらしがみついたシャオリンが体重を預ける。


「うぐっ、おもっ……!」

「わしはおもくないのじゃ!」


 手に伝わる重量に、思わずといった様子でフィリアが呻く。


 シャオリンの背丈はノーチェと同じくらい、体重は身長に対して平均的だ。


 比較対象が、身長に対して軽すぎるアリスなのが重さを感じる原因だった。


「今! 動かないで!」

「アッ」


 ツッコミを入れるために上を向いたシャオリンの視線の先で、古ぼけたロープがミチリと音を立ててほつれて行くのが見えた。


「落ち着いて! ゆっくり、引き上げるから!」

「ッ! ッ!」


 青ざめた涙目で何度も頷くシャオリンが大人しくなったところで、フィリアは体重をかけて引き上げていく。


 ズリズリとロープがこすれる音が響く。


「あ、後少しなのじゃ!」


 緊張の中、シャオリンの手が床にかかる。


 それを切っ掛けに一気にロープが引き上げられ、シャオリンの身体が汚れた床に転がった。


「シャオちゃん!」

「い、いきてる、わし、生きてるのじゃっ! ふぃりあああ、ありがとなのじゃあああ」


 あーんと泣き声をあげて抱き着いてくるシャオリンの頭を、フィリアは苦笑いしながらよしよしと撫でる。


「こ、この恩はっ、わす、わすれな……ぐしゅっ」

「もう大丈夫だから。怖かったね、戻ろう?」


 周囲を警戒しながら立ち上がる……が、シャオリンはへたり込んだまま動かない。


「シャオちゃん?」

「こ、こひが、ぬけ……」

「……わかった、背中に」


 漂う匂いと濡れたスカートを見て色々と察したフィリアは、少し躊躇した後に何も言わず背中を貸そうと膝をつく。


 長い耳がピクリと揺れて、水から何か飛び出す音を聞き取った。


 意識して動いた訳じゃなかった、スフィやノーチェの訓練相手をする過程で身につけた瞬間反応。


 察知と同時に動くくらいでなければ、あのふたりには到底ついていけない。


「のじゃあ!?」


 シャオリンが裾を捕まれ強引に引き倒された。


 少し遅れて飛び上がったサメ人間の顎がシャオの居た場所を床ごと齧り取る。


「ひい!」

「ひゃあ!?」


 歯型が残った床を見て、ふたりは咄嗟に抱き合った。


 バシャバシャと、水から飛び出す音がする。


「は、走って!」

「あっ……」


 慌てて立ち上がり、シャオリンを引っ張ったフィリアの手が、するりと外れる。


 数歩進んで振り返ったフィリアに向かい、座ったまま手を伸ばしたシャオリンの表情が絶望に染まっていく。


 バギャリ、グギャリ、まるで嬲るように床を食いちぎりながらサメ人間の暴威が迫ってくる。


 飛び上がったサメの大きく開かれた口が、動けないシャオリンに迫る。


「――」


 間に合わないと、フィリアの心を絶望が覆う。


 肝心な時、肝心な場面でいつも自分は力が足りない。


 死が迫るシャオリンの姿が、いつか故郷を追われた日、自分を庇った母が追手に切られる場面と重なった。


 今までは誰かが助けてくれた、頼もしい仲間が何とかしてきた。


 しかし今は自分たちだけ。シャオを助けられたのは自分だけ。


 自分の力が足りないからまた失うのだ。


 守られるだけでよかった時期なんて、父に続いて母を失った時にとっくに終わっていたのに。


 強くなりたいと願いながら、実態はといえば、才能豊かな仲間たちへの羨望を言い換えただけだった。


 ノーチェのように速ければ、スフィのように強ければ、アリスのように錬金術を操れたのなら。


 それも全て、手遅れの後悔でしかない。


 だからこそ、この日初めてフィリアは心の底から力を願った。


 弱い自分でも誰かを守れる、そんな力を。


「だめええええええ!」


 顔色を失ったシャオリンに鋭く尖ったサメ人間の歯が食い込む直前、シャオリンとサメ人間の間で金色の光が瞬く。


「……の、じゃ?」

「……え?」


 硬いものが砕け、肉が潰れる音が響く。


 自ら飛び出した勢いそのままシャオリンに食いつこうとしたサメ人間が、金色の光で構築された大きな盾に頭から突っ込んでいた。


 よほど硬いのか光の盾はビクともせず、潰れたサメ人間が床に転がる。


「ひかりの、盾なのじゃ?」

「あれ、これ、私が……?」


 一瞬遅れて、自分の中で眠っていた力が覚醒したことにフィリアが気付いた。


 仲間を守りたい、傷付いて欲しくないという意思に応え、光の盾を生み出す『鉄壁の加護』。


 いつかノーチェが言っていたのと同じように、目覚めた力が使い方を理解させてくれた。


「……はっ、シャオちゃん! 今のうちに捕まって!」

「わ、わかったのじゃ!」


 突撃が失敗に終わったことを察したのか、サメ人間が自ら床の上に飛び上がってきた。


 不気味に身体をくねらせ、水の滴る錆びついた武器をどうやってかヒレに持ち、サメ人間はのろのろと迫る。


 大慌ててしがみついてきたシャオリンを背負い、フィリアは少しふらつく頭を押さえて走り出した。



 加護の種類は魔術と同じく千差万別。


 共通しているのは魔力を糧に現実を書き換える力を与え、加護に目覚めたものは力の使い方が理解できるという部分だけ。


 その中でノーチェの持つ『迅雷の加護』は、『魔力を雷に変換する』という研究者から変換型と呼ばれるタイプ。


 発動条件も準備も必要なく扱いやすいが、魔力効率は1消費して1の雷を作り出すとほぼ同等。


 フィリアが目覚めたばかりの『鉄壁の加護』は、『条件を満たすことで魔力を消費して現象を起こす』という、加護研究者の間では条件型と呼ばれているものだった。


 条件は3つ、『対象が守りたいと思える存在であること』、『フィリアの両足が接地していること』、『発動先が地続きであること』。


 守りたい相手が床に面していて、なおかつフィリアも両足が床についていなければいけない、という難しくはないが使いやすいとは言い難い加護。


 その分、効果は破格で、1の魔力で100の効力の光盾シールドを作り出せる。通常の魔術ではありえないほど強力なもの。


 しかしフィリアは、普段から一行の中では唯一生活魔術を使用している。なので自分の現状をしっかりと理解できていた。


「追っかけてきてるのじゃ! あの盾は出せないのじゃ!?」

「あれっ! あの盾! たぶんあと1回か2回で! 魔力切れ!」

「のじゃあ!?」


 効率が良くても、フィリアの魔力は決して多くない。


 正確には魔術が発動できる程度に多めではあるのだが、獣人の特性である自動的な身体強化に大半が持っていかれている。


 無理矢理使えばもう数回はいけるだろうが、それは魔力切れを意味している。


 行動不能になるのは言うまでもなく、身体強化が覚束なくなればシャオリンを背負って走るなんて到底できなくなる。


「フィリア! あいつら泳ぎ……滑りだしたのじゃ!?」

「へっ?」


 自分の加護に思いを馳せていたフィリアが、シャオリンのぎょっとしたような声に驚いて振り返る。


 床の上をまるで水中を泳ぐように加速するサメ人間が、ぐんぐんと距離を縮めてきていた。


「いやああああああああ!」

「のじゃあああああああ! ふぃりあぁ! 盾! あの盾!」

「走りながらじゃ無理ぃぃ!」

「しょんにゃああああああ!」


 パニックを起こして走るふたりは、もはや自分たちがどこを進んでいるのかもわからない。


 気付けば廊下ではなく、空中に張り巡らされた無数の渡り廊下のひとつを走っていた。


「誰かぁぁぁ!」

「たしゅけてなのじゃあああ!」


 なにもない空間に、ふたりの助けを求める声が響く。


「――うちのもんにっ!」


 それに応える者は居た。ひとつ上の渡り廊下から飛び降りたふたつの影が、フィリアを追いかけるサメ人間の背中へ落ちていく。


「手出してんじゃにぇーぞ!」

「あっちいけぇー!」


 ザンッと音を立て、影の振るったふたつの白刃が煌めく。


 ふたりは流れるように後続のサメ人間を切り捨てる。


 フィリアとシャオリンを追走していた3体のサメ人間は、あっという間に倒されてしまった。


 後ろ姿には、警戒にピンと立つ長い黒尻尾とふさふさの砂色しっぽ。フィリアにとっては見慣れた物だ。


「フィリア! キツネッ! ようやく見付けたにゃ!」

「だいじょーぶだった!?」


 追加がこないことを確認して振り向いたスフィとノーチェの姿に、フィリアとシャオリンは感極まって涙を見せる。


「う……」

「う?」

「うわぁぁぁぁん! スフィちゃん! ノーチェちゃん!」

「のじゃあああ!」

「うわっ、きたにゃっ!?」


 当然の恐怖に涙と鼻水まみれのふたりは、気にすることもなくノーチェに抱き着きにいく。


 ノーチェはリーダーとして避けるに避けれず、頬を引きつらせながらふたりを受け止めるのだった。

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