├悔しさを胸に
ずっとひとりだった。
「バザールおじさん、アリスは……」
「落ち着いてはいるが……無理をしすぎだな」
母親と死に別れてからずっと、ノーチェはひとりだった。
曲がったことが嫌いな母親は迫害の中でも強く在ろうとして、「正しく生きろ」と娘に求めた。
嫌なやつ、酷いやつ、悪いやつ。そんな人間ばかりの中で、真面目に生きることの意味なんてわからない。だけど唯一ノーチェが信じられる、大好きだった母親の言葉だから従った。
侮蔑の言葉と石を投げられ、隠れ逃れる日々。
遺した言葉の意味がわかったのは、本当につい最近のことだ。
「負傷者の手当は?」
「一通り終わりましたが、動ける人間は多くありませんね。まだ死者が出てないのが奇跡です」
バザール率いる錬金術師たちは手持ちの治療薬を総動員し、負傷者の手当に奔走している。
「動けるものは子供たちの警護に専念せよ、湾岸騎士団の誇りにかけて無事親元へ帰してやらねばならぬ!」
「ハッ!」
ランナルは内心の焦りを噛み殺し、騎士を鼓舞している。
神経質で嫌味っぽい騎士。最初にバザールに突っかかった時に抱いた印象は、今や欠片も残っていない。
ここに居る大人は、ノーチェの知っている嫌な人間じゃない。
他人を助けるために動ける人間ばかりだ。
「大丈夫なのじゃ、泣くでない。疲れならばわしとシャルラートが癒やしてやれる、おぬしの妹は心配いらぬのじゃ」
「うん……うん」
尊大で嫌なやつだと思った狐人の少女は、今までの言動が嘘のように慈しみに満ちた表情を浮かべてスフィを慰めている。
自分は何が出来ただろう、何をしただろう。ただ大人たちについていき、アリスを見つけただけ。勢い勇んで飛び出して、ただついてきただけだ。
檻を壊したのも、あの強敵達を退けて見せたのも全部助けるはずだった虚弱な妹分だ。
普段は感情を表に出さないアリスが、必死に守ろうとしている人間の中に自分が入っていることを知って嬉しかった。
しかし、本来この状況で真っ先に戦うべきは自分であるべきなのだ。仲間の誰よりも先に前に立ち、あの男と戦って時間を稼がなきゃいけない立場なのだ。
わかっているから、なお悔しい。
言われるがまま後ろで動けなかった、かばうアリスを押し退けてでもあの男に挑みかかれなかった。アリスなら何とかできるだろう、そう思ってしまったからだ。
結果として自分たちは殆ど無傷で逃れた、ただでさえ体調の悪かったアリスを犠牲にして。この有様で、"アリスは自分を頼っていない"なんてよく考えられるものだとノーチェは自嘲する。
旅を続ける中で無意識に末っ子の異質な力に頼っていたことに気付かされ、情けなさと屈辱でノーチェの視界が滲んだ。
自分ひとり逃げ延びる力があればよかった。強さには自信があったし、事実そこらの人間に負けないだけの武術の才能があった。
才能にあぐらをかいて努力をしていなかった訳じゃない。むしろ人並み以上に訓練に励んでいたし、スフィという年齢の近い強力なライバルの存在がノーチェを急成長させていた。
それでも、いまあの男には到底敵わない。
負けたら奪われる、せっかくできた"友達"ともう二度と会えないかもしれない。
スフィの膝に頭を乗せて眠りこけるアリスを見下ろして、ノーチェは拳を握りしめる。
遥か遠くの海原で、雷鳴が轟いた気がした。
■
「ゲンテツ! やつらはどうした?」
「逃げられちまったよ、まったくあのチビどもはどうなってんだか」
力づくで拘束を外したウィゲルが、赤くなって血の滲んだ手首を隠しもせず戦闘が終わった直後の仮眠室へと飛び込んでくる。
備え付けの家具は破砕し、一部は何故か雪が積もって凍てついている。
今回の海賊行為のためにつれてきた船員の中でも腕が立つものを含めて10人以上が倒れ伏している。
「クソッ! こっちの被害は? 奴等はどこだ!」
「壁を抜けて行っちまったよ」
「貴様は何をしていた!」
「眠れる虎を狩るつもりで行ったら、とんだ怪物を見つけちまったよ」
悪びれる様子もなく、ゲンテツは腕に付けられた木材の手錠を破壊し、床を砕いて脚を引き出す。
思い出すのは幻獣か精霊の類をけしかけて向こう側に消えていったあの狼人の少女の目と言葉。
――譲れない、譲っちゃいけない一線ってやつ。あんたも傭兵なら、わかんだろ。
「……わかるさ。あぁ、わかるとも」
傭兵なんてみんな等しく無頼者。寄る辺もなく、金のために命をかけて殺し合う仕事。昨日の仇が今日の友、昨日の味方が今日の敵、そんなことは日常茶飯事だ。
そんな世界だからこそ、絶対に譲ってはいけない一線がある。
『自分からは決して裏切らない』。それが彼ら傭兵に伝わる黄金律、「お前が俺を裏切らない限り、俺もお前を裏切らない」というたったひとつの約束事だ。
再起のためにあがいた結果、こんな汚れ仕事を掴まされた。それでもその道に生きる以上、過程はどうあれ一度受けた依頼から逃げるつもりはなかった。
だからあの時だって殿として金虎王へ挑み、今回だって憤りを飲み込んで鬼となった。
「悪いが、俺もここで逃げたらただのクズなんでな」
どれほど嫌な仕事でも、我が身可愛さに依頼人を裏切るつもりはない。だからこそ、先程やりあった幼い錬金術師の才能を惜しく感じていた。
「一体どんな人生送ったら、あの歳であんな目が出来るんだか」
傭兵をやっていて出会う人間の大半は、ろくでもない人生を送ってきている。
ゲンテツだって例に漏れない、幼い頃から身寄りもなく、盛り場を巡っては酔客から小銭を巻き上げる毎日だった。師範に叩きのめされて武芸者の道を授けられていなければ、今頃ただのチンピラとして道端で冷たくなっていただろう。
彼の知る限りでも親に戦奴隷として売り飛ばされた子供、暗殺者として育てられた者……。まともに育った人間の方が珍しい。だからひと目見てわかった。
あの少女は数え切れない死線をくぐり抜けた者の眼をしていた。生き残った人間特有の、数え切れない命を見送ってきた者の眼だ。
見て取れるほどに意識を朦朧とさせながらも、向けてくる眼光はゲンテツをして怖気を覚えるほどの凄みがあった。
「向こうは……船倉、資材置場か!」
「だろうな」
苛立つウィゲルの言葉に思考を止めたゲンテツは、さして興味がなさそうに答える。ゼノバ王国に連れていかれた獣人の子がどうなるかくらいはわかっている。
場合によっては類まれな才能を3つも摘み取らなければならないことに、ゲンテツは憂鬱な感情を抑えることができていなかった。
「何をぼさっとしているんだ貴様は! こっちは高い金を払っているんだぞ」
「船壊すわけにゃいかねぇだろ?」
無精髭の残る顎を擦るゲンテツの返事に、ウィゲルは悔しそうに歯噛みした。
今回託されたコーティング船はこの1隻。バティカル教国の威光にすがることで何とか周辺蛮族の侵攻を退けているゼノバ王国にとって、錬金術の産物は貴重な品だ。
流れ者の錬金術師を拝み倒して作らせたこの船は、実に国家予算の3分の1近い金がかけられている。
ドアや家具など替えの効く可動部なら仕方ないとしても、壁や床をぶち抜けとは口が裂けても言えない。ゲンテツの破壊力ならば下手すれば沈没する危険性すらある。
騎士を皆殺しにして無事に本国に帰ったとしても、コーティング船を失えばその失態は必ず責められる。
「くそ、パナディアの錬金術師め……! 入り口へ回るぞ、動けるものだけついて来い! ゲンテツ、貴様もだ!」
「はぁ」
頭に血が昇っているのか、妙な勘違いをしているウィゲルをあえてゲンテツは否定しなかった。
騎士や錬金術師の中に脅威になりそうな戦士は居ない。厄介な幻獣を使う幼い錬金術師は酷く体調が悪そうな上に、持つ手札はほぼ初見殺しでタネさえ分かれば対処できる。
残りは幼い子供ばかり。唯一戦えそうな猫と狼のふたりの少女も"子供としては凄まじい"の域の内側だ。
このまま成人まで育った後ならわからないが、今はまだ負ける要素がない。
「嫌な仕事だぜ」
ぼやきながらも、ゲンテツは精神を調えながらウィゲルと共に追撃に向かう。
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