├狼と錬金術師

 スフィにとって、世界の全ては妹と養父だった。


 自然くらいしか見るものがない片田舎の小さな村で、スフィの味方は"家族"以外にいなかったからだ。


「おじいちゃん、寒くない?」


 病で枯れ枝のように痩せこけた祖父の肩にケープをかけて、スフィははぁと息を手に吐いた。


「……えぇ、大丈夫ですよ」


 外はもう何日も大吹雪が続いている。大陸南部に位置するラウド王国では雪なんて滅多に降らない。


 村で暮らした数年間で一度、ほんの少し降ったことがある程度。その時も積もることすらなく止んだ。


 こんな吹雪なんて、つい最近まで見たことがない。


「おじいちゃん、すぐお茶入れるからね」


 慣れない寒さに二の腕をさすりながら、ぱたぱたと足音をさせて台所へ向かう。かまどに火を入れて、慣れ親しんでいるはずの設備に不便さを感じながら薬缶で湯を沸かした。


 カップに湯を注いで、布で包んだお茶の葉をゆっくり沈めて色が変わるのを待つ。


「雪、止まないね」


 強い風で叩きつけられる雪が木の窓を揺らす。窓から光を採れない薄暗い部屋の中で、ごうごうと怪物の唸るような音が耳を打った。


 双子のうち、養父に懐いていたのはスフィの方だ。まだまだ親が恋しい年頃、両親がいないことを村の子供に馬鹿にされるたび、大人たちに蔑まれるたびに痛む心を笑顔で隠す日々。


 故郷の村に思い入れなんて全くない、村も住人も全てが大嫌いだった。


 それなのに、幸せだった頃の養父との思い出はあの村の風景と共にある。


「スフィ様……もういいのですよ」


 怯えるように耳を寝かせて、スフィは椅子に座る養父に湯気の立つ茶を出した。


「あなた方のせいではありません、寿命だったんです」

「……でも」


 自分がもっとしっかりしていれば、養父が無茶をしてアリスをフォーリンゲンに連れていくことはなかったかもしれない。


 それがなければ、急に様態が悪化したりせずもう少し一緒にいられたかもしれない。


 自分が頼りないから、養父にも妹にも無理をさせてしまった。スフィの中に残ったしこりであり、今なお自分たちの為に無理をする妹を見てしこりは大きくなっていく。


 妹だって、本来ならば1日の半分以上をベッドの上で過ごしていても不思議ではないほど病弱なのに。


 養父とふたりだけの思い出に浸って数日。雪は止むことなく吹雪いていた。


 ただ黙ってスフィを見守っていたワーゼルは、穏やかに声をかける。


「それに、アリス様が悲しまれますよ」

「……そんなことない」


 喉に引っかかっていた小骨が取れるように、するりと言葉がこぼれ出た。


「あの子は、ひとりでも平気だもん」


 逃避行の途中、高熱を出してからアリスは変わった。


 言動や性格こそ変化はない。相変わらずのんきかつマイペースに、独特な感性で世界を見ている。


 ただ、中身だけ大人になってしまったように落ち着きが出た。それまでの「おねえちゃん、おねえちゃん」と袖を引っ張るのを止めて、まるで大人が子供を見守るかのごとき態度が目立つようになった。


 頼れる気持ちができた反面、離れていくようで寂しさに襲われた。


 アリスが事あるごとに倒れる虚弱な身体でなければ、スフィはもっと強く孤独を感じていたかもしれない。


 妹の弱さに救いを見出す自分に嫌悪感を感じて、余計に落ち込んだ。


「そうでしょうか」

「そうだよ、だって……」


 アリスは誰かに助けて貰わなければ生きていけない。でもそれはスフィでなくてもいいのだろう。


 身の回りを世話してくれる人さえいるなら何とかやっていける。妹の世話をフィリアが手伝ってくれるようになって、自由に動ける時間が増えたことで実感させられた。


 スフィは相手がアリスでなければダメなのに。妹ばかりが成長してしまったようで、スフィの内心は複雑だった。


「だって……スフィじゃなくても平気そうだもん」

「……やっていける事と、平気であることは違います」


 拗ねたように唇を尖らせるスフィに、ワーゼルは優しく声をかけた。


「確かに、今のあの方は何があっても前へ進めるでしょう、傷付きながらでも堂々と。……しかしそれは、あの方が痛みや苦しみを感じないというわけではありません」


 いつの間にか立ち上がっていたワーゼルのしわくちゃの手が、スフィの髪の毛を整えるように撫でる。


「アリス様が苦しまれている時、素直に甘えることが出来るのはスフィ様だけのはずです」

「…………」

「スフィ様、手をつないであげてください。抱きしめてあげてください。それだけでアリス様が救われていることを、あなたはわかっておいでのはずです」


 抱きしめた時の困惑と安心がないまぜになったアリスの表情が脳裏に浮かぶ。何かを言葉にしそうになった小さな唇を引き結んだ。


「それに……夢の中で別れてどのくらいの時間が過ぎたでしょう。本当は妹君に会いたくて仕方ないのは、わかっていますよ」

「おじいちゃん……」


 スフィは図星を突かれたように、バツの悪そうな顔をした。愚痴まで言って留まろうとしていたのは、もう会えないはずの「おじいちゃん」に甘えていただけだ。


 しかし、ワーゼルとしてもいつまでも夢の中に居させるわけにもいかない。


「私は、あなた方をきちんと故郷に送り届けてあげられなかった。無理をしてでも人手を集め、旅をすべきだった、もっと手を尽くしできるだけ全てを残すべきだった……可能性を摘んでしまったのは、私の欲のせいです」

「……」


 老錬金術師の紡いだ言葉は養子たちへの懺悔だった。


「恐れ多くもあなた方を孫のように思ってしまった、人生の最後に家族と過ごせる時間を欲した。誰かを巻き込めば、事態は大きく動き始めて現状(いま)を壊す結果に繋がる……。いくら言い訳を重ねても、私はそれを恐れてしまっていたのです」


 曝け出されるのは、家族に恵まれずに生きてきた人間の本音。


 ひとりで充分だと研究や研鑽に生きてきた男が、最後に手に入れた孫という存在の暖かさに欲をかいた。


「あなた方に看取らせてしまったのは、私の失敗です。辛い思いをさせて申し訳有りませんでした」

「……ちがう、おじいちゃん、スフィもアリスも、おじいちゃん病気なのに迷惑いっぱいかけて……」


 泣きそうなスフィの言葉を、ワーゼルは首を振って浮かべて遮る。その顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。


「私は幸せでした、あなた方のおかげで幸せだったんです」


 まとわりつく死者の思いと、生者の心残り。未踏破領域の凍てつく世界で、合わさる想いが氷って降り注ぐ"名残雪"。


「だからどうか、スフィ様も前へとお進みください。あなた方が力を合わせれば、どんな苦難も乗り越えていけるでしょう」

「……わたしも、スフィもおじいちゃんと一緒に居て、しあわせだったよ」

「勿体ない、お言葉です。故郷に無事たどりつけることを祈っています、そこではきっと沢山の幸せが待っていますよ」

「うん……」


 閉鎖的な村の中で、双子姉妹が何とか歪まずに生きてこれたのはワーゼルから不器用ながら精一杯の愛情を受けて育ったからだ。


 終わりは辛く苦しい思い出だったとしても、それまでの日々を不幸だったとは思わない。


 心のなかで別れを決めれば、ふたりは曇り空の雪原で向かい合っていた。


「アリスは、もう起きてるのかな……」

「随分と前に。別れの言葉だけを改めて堂々とお進みになられました」


 ふと妹のことを思い出して口にすれば、ワーゼルは苦笑を浮かべて答えた。


 アリスが錬金術を学んでいる時によく見せたものと同じ表情だった。


「あはは、スフィもすぐ追っかけないと……おじいちゃん、いってきます」

「はい、いってらっしゃいませ」


 曇り空から晴れ間が覗き、名残雪は溶けていく。


 空気に溶けていくワーゼルは、背を向けて歩き出したスフィの背を見つめてほっとしたように頬を緩めた。



 ワーゼル・ハウマス。大陸西方においてその名を知らぬ権力者は居ないだろう。


 ラウド王国の田舎に生まれた彼の半生は、静かな憂いと絶望の中にあった。


 当時の大陸西方において、錬金術はまだまだ怪しげな邪教の秘術。田舎にまでそれが伝わっているはずもない。


 口減らしも兼ねて働き口を探しに出たフォーリンゲン、ワーゼルはそこで運命的な出会を果たす。


 旅の錬金術師が持ち歩く道具の数々が、教会が管理する遺物を彷彿とさせる代物だった。


 水を生み出す杖、火を吹く筒。ある程度の才能を必要とする魔術と違い、魔力さえあるのなら誰でも扱うことが出来る道具の数々。


 それが錬金術ギルドによって作られた魔道具であることを知り、ワーゼルは衝撃を受けた。


 神と教会の占有物だった奇跡を起こす神代の遺物は、人の手で作り出すことも出来るのだと。


 ワーゼルは弟子入りを求め迷惑そうにする錬金術師の滞在する宿に7日7晩日参し、とうとう錬金術師を折れさせた。


 幸いにもワーゼルには才能があった。遅れてた習いはじめのハンデをあっさりと埋め、メキメキと実力をつけていく。


 やがて能力を認められたワーゼルは若くしてアルヴェリアの錬金術師ギルドに留学し、最先端の錬金術を思う存分に学んだ。


 王都にある錬金術ギルド本部研究院には、諸国において国や貴族領で一番の才能を持つと期待されている錬金術師が集まる。


 ワーゼルもまた当時錬金術に力を入れていたラウド王国の王から後押しを受けて留学したひとりだ。


 才能豊かな学徒と切磋琢磨する日々。研究漬けでこそあったが、彼はフィールドワークも好んでいた。


 冒険者と共に未踏破領域に赴くこともあった。襲来する魔王から都市を守る戦争に巻き込まれたこともある。


 騎士や冒険者と協力し、押し寄せる魔獣から必死に街を守り続けた。しかし1体だけでも小さな町なら滅ぼせるような魔獣を何千と引き連れた魔王の姿に絶望して、戦場を駆け回っているうちに出来た親友と自棄になって酒を飲んだ。


 夜に駆けつけた神星竜がブレスで魔獣たちを薙ぎ払い、聞き慣れぬ星竜の魔術で魔王すら簡単に滅ぼしてのけた。助けられた人々は竜の姿を『白銀の鱗から漏れ出す様々な色の魔力が夜の闇に煌めき、星空を纏っているようだった』と語った。


 命の恩人の荘厳な姿を目に焼き付けたワーゼルは、それから星竜オウルノヴァを信仰するようになった。


 親友と肩を組んで無事を喜びあい、その地を治める公爵の子息であることを知って驚きはしたが、その後も付き合いは変わらなかった。


 一連の事件を経て、彼はひとつの目標を見つける。


 人の手に余る敵が来た時に力を貸してくれるのがオウルノヴァならば、可能な限り人は解決する……竜に伝えるまで守る努力をしなければならない。


 便利で強力なのに、大掛かりで移動も組み立てもままならない魔道具の数々。巨大化の原因である制御核を圧縮出来れば人々を守る力になるのではないかと。


 こうしてワーゼルは魔道具制御核の小型化に注力し、大陸における魔道具技術の発展を促す。


 やがて第9階梯『メイガス・マグナ』と認められた彼は、数々の研究成果と実績を持ち華々しく帰国した。


 惜しくも錬金術師の到達点、第10階梯『アルス・マグナ』に至ることはなかったが、今なお多くの錬金術師からその才覚と実績を認められている。


 そんなワーゼルが宮廷での権力闘争に疲れて表舞台から退き、さして思い入れもない故郷に戻ってから数年。死の病を受け入れて残り僅かな余生を静かに過ごしていた彼が、近隣の森で泣き叫ぶ双子の獣人の赤児を見付けたのは今から6年ほど前のこと。


 ようやく掴まり立ちを覚え、言葉にならないおしゃべりを始めたばかりの赤児が森に捨てられているなど尋常な事態ではない。


 ワーゼルはまともに言うことを利かぬ身体に鞭打って森を駆けた。やがて大きな木の根元に座り込む、上質な絹の衣に包まれた双子を見付け愕然とした。


 切れた息を整え、震える老いた指で双子が身につけていた布と装身具を確認する。


 そこに刻まれていたのは、アルヴェリアの王族に連なる者しか身につけることを許されない星竜の紋章。


 彼は双子の正体を察し、残った命を賭して彼女たちを守ることを決意した。


 すでに手遅れになっている自分の命を何とか繋ぎ止めながら、手探りで幼児を育てる日々がはじまった。


 結婚どころか恋人が居た時期とて数える程度、研究に生きてきたワーゼルに子育てなんて出来るはずもない。ましてや双子の女児なんてどうすればいいかもわからない。


 幸いだったのは、すでに乳を離れおむつを外す準備もできるようになっていたことくらいだった。


 村の中で比較的"マシ"な女に金を払って手を借りながら、懸命に育て続けた。


 せめて迎えが来るまでは。


 せめて自らの身を守れるようになるまでは。


 持ちうる全ての知識を与え、虚弱なアリスの体質を何とかするため財産の殆どを注ぎ込んだ。


 長くない身を悔やみつつ、自分の手で送り届けてあげられないことが心残りだった。


 本来こんなところに絶対に居るはずのない双子。事情はわからないが、だからこそ確認することも出来なかった。


 親友を通じて聖王と顔を合わせたこともある。知りうる情報を束ねれば双子の両親が何者かも想像がつく。


 関係する者達の誰もが幼子を捨てさり、放置することを良しとするとはとても思えない。


 両親が"推測通りのお方"ならば、今頃娘たちを血眼になって探していることだろう。


 ワーゼルはあえて自分から何が起こっているかを調べることはしなかった。


 嵐に曝されるがごとく暴れ狂う藪の中に、大切な赤児を抱えたまま手を突っ込む賢者は居ない。


 既に世俗と関わりを絶っていたワーゼルはアルヴェリア王族の動向を掴む伝手を失っていた。


 ゼルギア大陸における遠距離への連絡手段といえば手紙、行商や冒険者に手紙を託すのが主流なのだ。確実に届けたいならば数を出すか、信用の置ける配達人を頼るかになる。


 高位の貴族や王族の紋章が使えるならいざしらず、普通の手紙なら途中で検閲を受ける危険性すらある。


 双子の出自を誰にも悟られてはいけないという縛りがある中では、どの手段も実行することは出来なかった。


 情報がないワーゼルにとっては誰を頼っていいのか、誰を信じていいのか。誰が味方で誰が敵かもわからない。


 己にできる精一杯をと続けた老錬金術師のあがきは、志半ばで終わりをつげる。


 そのあがきはきっと、無駄ではなかった。

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