├猫の行く道

 ノーチェはフォーリンゲン近くにある、小さな町で産まれた。


 母親はノーチェと同じ黒い毛並みの猫人フェリシアン、大陸東方南部にある大森林出身の若い女。不吉とされる毛並みのせいか故郷にいられなくなり、身重の身体で岳竜山脈を越えてきた女傑だ。


 何とか逃げ延び、住み着いた町の片隅で娘を産んで。それからは得意な狩りを活かし、冒険者として生計を立てながらノーチェを育て上げた。


 しかし大陸西方の獣人蔑視と差別は大きく、店で物を売ってもらえないことなど日常茶飯事。


 割高のぼったくりでも、売ってもらえるだけマシという有様だった。


 田舎故に地元の権力者とズブズブながら、規則で追い払うことも出来ない小さな冒険者ギルド。あからさまに扱いの悪いそこですら安らぎになる程の苦境。


 彼女は折れなかった。いつも明るく笑い、曲がったことを嫌い、正しく生きろと娘に伝える。


 最初は手ひどく扱っていた人間たちも、顔を突き合わせるうちに彼女に絆される者すら出てくる。毛並み以外の顔立ちは整っていて、靭やかで細い体付きの美人だったのも大きかったのだろう。


 そんな母親ですら、ノーチェを冒険者仲間に見せることは決して無かった。


 まるで娘を隠すように隠れ家を転々としながら、スラムの中を生きていた。


 力があり逃げることも可能な自分とは違い、獣人からも人間からも迫害対象になる幼い娘が普人の町でどういう扱いを受けるか……。


 想像もできないほど愚かではなかっただけだ。


「いいかノーチェ。自分に向かって胸を張れないようにゃことはするにゃ。世の中には仁義ってものがあるにゃ」


 普段は優しい母親は、ノーチェが悪事を働くとひどく怒った。


「仁義を欠けば人が離れる、でも仁義を通して生きる奴の周りには、いいやつが集まるにゃ」


 それが彼女の黄金律。決して恵まれているとはいえない人生の中で、己に課した絶対のルール。


「いいにゃ? 苦しくても辛くても、投げ出したくなっても、頑張って正しく生きろ。そうやって生きた道筋が、いつかお前を助けてくれる」


 盗み、暴力……スラムに付きものの弱者からむしり取る行為の数々だ。周りは普通にやっているのに、どうして自分だけ怒られるのか。


 不服に思いながらも、ノーチェはその言葉に従った。


 ノーチェにとっては母親が世界の全てだったからだ。



 母親が死んだのは、アリスたちと出会う2年前。


 ヘマをしたと笑っていた彼女は、毒で身体を蝕まれていた。


 原因は普人ヒューマンからは若々しく見える美貌、町の男たちが彼女に毒を盛り弱った隙に暴行を働こうとした。


 だから殺した、ひとり残らず喉笛を掻っ切って。


 しかし使われた毒が厄介な代物だった。普人にとっては暫く身体が痺れる程度のもの、しかし抗体を持たない獣人には解毒しなければ死に至るもの。


 解毒剤はこんな小さな町では手に入らない。在庫があったところで、町の人間を殺した自分は殺人犯として追われるだけだろう。


 彼女はノーチェを連れて町を出た。宛もなく歩いて、辿り着いたのはとある町の近くの小屋。


 そこまで娘を連れていき、とうとう力尽きた。最後の言葉は、口癖のように言っていた『正しく生きろ』だった。


 残されたノーチェはひとしきり泣いた後、母親の亡骸を土に埋めた。幼い身体で数日かかった。


 空腹を抱えて町に入ろうとして、石を投げつけられた。


 何とかして壁の亀裂から中に潜り込んでからスラムに入ったが、迫害される日々に耐えかねて誰も近づかない魔物の潜む遺跡群へと逃げ込んだ。


 普人を嫌い、母親も自分も助けない神と世界を呪う日々。


 ノーチェは自分と同じく親を失ったばかりの兎人ルプシアンの少女と出会い、生活を共にした。


 年齢の割に知識の豊富なひとつ年上の女の子。彼女から理由を聞いて、自分が何故迫害されるのか、母親が何故あんな酷い扱いをされなければいけなかったのか。


 知ったノーチェは、母親に夜空みたいで綺麗だと褒められていた自分の髪色すら呪った。


 鬱屈が募る日々の中、同居する兎人が新しい子供を連れてきた。


 汚れていてもハッキリわかるほどに美しい、白雪のような毛並みを持つ双子の狼人ヴォルフェン


 激しく嫉妬した、年下相手でも容赦なく殴りつけて追い返そうかと思った。


 母親の遺言がそれを止めなければ、言い聞かされていなければ。のんきに眠る妹狼に毛布をかけるのではなく、毛皮を毟り顔に消えない爪傷をつけていたかもしれない。


 それからノーチェの忍耐の日々が始まった。


 独特な性格で空気の読めない妹狼に、張り合ってくる生意気な姉狼。


 苛立ちと嫉妬を募らせる日々が少しずつ変わり始めたのは、双子姉妹が本当の意味でノーチェの毛色を気に留めてもいなかったこと。


 毛並みを揶揄する普人の子供と喧嘩中、そもそも毛色の意味を知らなかったという声が聞こえてきた時は思わず吹き出しそうになった。


 フィリアの言葉では獣人にとっては当たり前の常識のように感じていたし、普人からも不幸を呼ぶ魔物のような色と嫌がられる事が多かった。


 もしかしたら母親が死んだのだって……。


 そんな考えを、マイペースな妹狼は鼻で笑った。


「なんだ、ただの迷信か」


 妹狼は嘘か真か錬金術師の資格を持っているという。ノーチェですら知っている、国でも尊重されるようなものすごく頭の良い学者様のことだ。


 字の読み書きも出来ないスラムの子供や冒険者たち。自分を蔑んできた人間たちより、ずっと優れた錬金術師様が彼等の言葉を笑い飛ばした。


 ノーチェはほんの少しだけ双子を認めた。


 それでも、絶望は消えることはない。どれだけ正しく生きようと、理不尽や不幸は向こうから悪意をもってやってくる。


 たとえ飢えても盗みには手を出したこともない、暴力だって身を守るため以外に振るったこともない。


 どんなに気に入らなくても、幼い子どもを放り出すことはしなかった。


 結果としてはじまったのは冒険者相手にする命がけの鬼ごっこ。


 あの時双子を見捨てなかったのも、自分が囮になるといい出したのも母親の遺言に従ったからじゃなかった。


 もう疲れていたからだ。


 苦しくても辛くても正しく生きた結果がこれだと、自棄になって命を投げた。


 心にあったのは最後まで母の遺言を守りたいという意地と、カッコつけだけ。


 誤算だったのは、意地っ張りのカッコつけがノーチェ以外に2人も居たことだ。


 妹を護るため、迷うことなく命を捨てようとする姉狼。そんな姉狼を置いて逃げるくらいなら一緒に死ぬと言い張る妹狼。


 羨ましくて、チクリと傷んだ。


 見付けた妙な遺跡で妙な道具を回収している最中、話が付く前に怪物に襲われた時。


 死の恐怖に漏らして、泣きわめきそうになった。死にたくないと無様にも思った。


 だけど、生き延びた。よくわからない道具の力で怪物は倒され、自分たちは生きて帰る事ができた。


 姉妹に誘われ、旅路を共にすることになった。


 理由は単純明快だ、あの時勢いで口にした友達ダチという言葉を否定されなかったから。それだけだ。


「だから、あいつらと旅に出たにゃ」


 粉雪の舞う雪原の真ん中で、ノーチェは母親と背中合わせに座り、今までのことを語り終えた。


「そっか、大変だったんだにゃ」


 独特な猫人訛りで返ってくるのは、記憶の中から薄れつつあった母の声。


「ノーチェ、いま幸せかにゃ?」

「さぁ、わかんにゃい」


 空気の読めない妹狼、生意気な姉狼、素直に頼れる仲間はフィリアだけという有様だ。自称リーダーとしては頭が痛いようだった。


「でも、楽しいにゃ」


 生意気でも空気が読めなくても、屈託なく接してくる双子の狼は小気味好い。ちゃんと考えてるフィリアは付き合いやすい。


 最初こそどうなるか不安しか無かった4人での旅路は、いまは快適で楽しいとすら感じている。


「母ちゃん」

「うん」

「やっぱ、母ちゃん間違ってにゃかった」

「そっか」


 盗みをしてスラムに染まっていれば、きっと双子と接点も無かっただろう。自分可愛さに彼女たちを見捨てていれば、縁は断たれていただろう。


 気の良い友人と食卓を囲み、妹狼が倉庫から引っ張り出してくる見慣れないゲームをして夜を過ごす。


 手に入る物資も、不思議な道具も便利で有益なもの。それでもノーチェにとってそんなものはおまけだ。


 自分と一緒に危険な場所にだって飛び込んでくれる、背中を預けられる友人たち。


 それは苦しくても、辛くても、母の遺言を守るという意地を通した先に掴んだものだ。


「だからさ、あたしもう行くにゃ。友達が待ってるから」

「おう、頑張るにゃ」


 立ち上がったノーチェの視界に映る雪原の果ては、雲の浮かぶ青空になっていた。


 雪はもう止んでいる。


「母ちゃん……行ってきますにゃ」

「あんたならもう大丈夫、ダチと仲良くにゃ!」


 ノーチェは軽く手をあげて、振り返らずに歩き出す。


「おう!」


 たった一言、元気よく返事をして。その背中に、もう迷いはなかった。

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