┌兎の足跡
聖王国アルヴェリアはゼルギア大陸東方、その最北に国土を有する小国だ。
初代聖王バルタザールが神星竜オウルノヴァと盟約を結び、多大な加護を受けている。
国名の由来は古き竜の言葉で『揺り籠』。ゼルギア帝国崩壊直後、混乱の最中にあった世界で人々の安らぎの地となることを願いつけられたという。
領土内に海と山間部を有し、領土の大半は土の豊かな平原部という恵まれた立地。
広さこそ小国であるものの、周辺に未踏破領域が多いため軍事力は高く資源は豊か。
主戦力は実力を認められ、星竜より武器を賜った聖王国最強の7人である七星騎士と竜の名を冠することを許された四竜騎士団。
眷属である銀竜を授けられた、星竜教会最高戦力である星堂騎士。
どちらも一騎当千の実力者揃いで、総戦力ともなれば大陸東方最大の軍事国家でもあるゲルマニア帝国に勝るとも劣らない。
住む人間の大半は
同盟関係にある北方獣王国が魔王との戦争によって崩壊し、離散した獣人の多くを受け入れたのだ。
現在は多様な人種が文化をすり合わせながら、平和に暮らす努力をしている。
強い力を持ちつつも、平和を維持する努力を惜しまない国。
それがアルヴェリアに対する同国貴族と、周辺国家からの評価だった。
フィリアはそんなアルヴェリアの南部の小領地、ザインバーグ子爵領で生を受けた。
子爵本家に仕える
■
「子爵閣下、お母さま、おはようございます」
「おはようフィリア」
「フィリア、ひと目が無い時はお父様で構わないと言っているだろう?」
雪の積もる寒い日の朝。子爵家の食堂では親娘の団欒が行われている。
「はい、お父さま」
愛娘を見守る優しい視線を受けて、フィリアはエプロンドレスの裾を掴み、母から習ったカーテシーを披露した。
照れくさそうに笑みを浮かべながら、席についた娘を子爵とメイドは父親と母親の顔をして見守る。
こうして幾度も繰り返される冬の日が幕を開けた。
家族の誰もが望みつつも、ついぞ叶わなかった家族の団欒だった。
「――それでね、アリスちゃんったら廊下で倒れてて! ほんとう目が離せないんです」
フィリアが語るのは、新しく出来た友人たちの話。
30代半ばを過ぎたばかりの子爵も、20になったばかりの母親も目尻を緩めて話を聞いた。
一緒に料理を担当しているアリスが、調味料を探すと行って隣の部屋に行く途中。戻ってこないのを心配して見に行くと、廊下で行き倒れていたこと。
母親に習った料理を美味しいと食べてくれるけれど、たまに取り合いになって少し困ること。
伝手を頼り母とともに岳竜山脈を超えて西側に逃げ延びた"あの日"。
無理な山越えで悪化した傷が原因で母が亡くなり、それから本当に大変だったこと。
飢えと孤独に絶望しながら、たどり着いた先で出会った猫人。
ぎくしゃくしながらも同居するようになって苦労したこと。
暫くして関係が大分マシになったところに現れた狼人の双子。
それをきっかけに始まった命がけの逃走劇と、4人一緒の大冒険。
何度も死ぬかと思って、死を覚悟した。
それなのに友達を守るため、姉妹を守るため、平気で前に出る友人たちに驚かされたこと。
両親と別れてから歩んできた日々を伝えはじめて、今日で5日目。
話す内容が尽きてきた頃。激しかった吹雪はすっかり落ち着きを見せ始めていた。
「それで、それで……」
「フィリア」
優しい女性の声が、必死で喋り続けるフィリアの耳を打つ。
自分の名前は北方獣王国の初代銀狼王、その妻の名前の一部を貰ってつけたと聞かされていた。
身に余ると思いつつも、フィリアの密かな自慢だ。
「お母さま」
「頑張ったのね」
「……はい」
仕事は卒なくこなすが、稀に手足を家具にぶつけた時は大袈裟に痛がる母親だった。
兎人らしい臆病さも、痛みを苦手とするところも、普通の兎人と変わらない。
しかし領地から落ち延びる際、悪化する刀傷に苛まれながら娘を抱えて山越えを為した強い母でもあった。
「良い友人が出来たのだな」
「……はい、お父さま」
子爵は領主として甘いと身内に言われながら、領民と共に畑を耕すような男だった。
ザインバーグは農地の守り手たる騎士の家系。
三男でありながら後継者として指名されたのは、そんな彼の民に対する誠実さと国への忠誠心を先代領主が認めたからだった。
幼い頃から傍にいたメイドに手を出したのは、自分が継ぐとは思ってもいなかったからだという。
政略によって輿入れした奥方には申し訳ないと思っていたようだが、フィリアの母と正妻は意外とうまくやれていた。
剣を握るのが苦手だったはずの子爵は、賊を相手に一歩も引くことなく民を守り抜いた。
優しくて強い、フィリアの自慢の両親だ。
「引き止めてすまなかったな、お前はいつまでもここに居てはいけない」
「…………」
名残惜しそうに視線を落とし、子爵はいやいやと首を振る娘を見る。
領地の境界線近くに現れて、略奪をはじめた盗賊団の討伐時に死亡した父。
葬儀の直後、毒に倒れた正妻。領主の妻の暗殺未遂の濡れ衣を着せられた母。
床に伏した正妻が意識を失う直前に、フィリアたち母子を屋敷から逃がすことを侍従に命じなければ、確実に生命を奪われていただろう。
母親は領主に仕える騎士たちに送られ、領地から逃げた。
追手から手傷を追いながらも、娘を守り何とか逃げ切った。
後のことは知る由もない。それがフィリアの知る、自分たちの身に起こったことの全てだ。
降り積もる"名残雪"は、生者と死者の名残りをより合わせ思い出の形をつくる。
「…………」
ずっとこの夢に浸っていたかった。このまま幸せな日々を過ごしたかった。
でも、フィリアの知る両親を完璧に再現した幻はそれを許さない。
娘を凍りつく夢の中に閉じ込め続けることを良しとしない。
そして、彼女もまた夢に溺れられるほど弱くなかった。
抵抗するように首を横に振っていたフィリアだったが、やがて諦めたように力なくうなだれる。
「フィリア、どうか私達の分まで幸せになって。お友達と仲良くね」
「お前のことを始まりの海から見守っている、愛しているよ。……それから、お前の兄にもいつか無事な姿を見せてやってくれ。腹は違えど兄妹だ、父親としては仲良くあってくれれば嬉しい」
正妻の子とはあまり接触がなかったフィリアは、腹違いの兄の姿を思い浮かべた。
記憶の彼方の姿はもう曖昧だ。
「はい……」
父に似て物覚えの良い、物腰穏やかな聡い娘だった。
これが最後の別れになるとわかっていた、わかってしまった。
こらえ切れない涙をこぼして、フィリアは顔をあげる。
「お父さま、お母さま……私、いつかアルヴェリアに帰ります。今度は負けないくらい、つよくなって」
双子の旅に同行することを決めたのは、自分の事情からだった。
父母を奪った理不尽に対する怒りと憎しみ。
暗殺を企んだ犯人を、そして捕らえ損ねたという父を殺した仇を突き止めて裁いてやりたいと思っていたからだ。
フィリアは普人の騎士たちや、母の友人である一般的な獣人も知っている。
今の友人たちはそこらの獣人と比較しても、あまりに異質なほどの力を持っていた。
戦闘がそこまで得意ではない猫人でありながら、生まれ持っての強者である銀狼と渡りあえるノーチェ。
生来武術に長け魔術に劣る銀狼とは思えぬほどの魔力を持ち、同時に武術の才も見せるスフィ。
今まで生きてこれたのが不思議なほど虚弱ながら、錬金術の天才であるアリス。
彼女たちと一緒なら、自分たちを襲った理不尽にも打ち勝てる日が来る、そんな予感があった。
「次はあの子たちを助けられるくらい、つよくなりたい……!」
臆病な兎の瞳に宿るのは、強い決意。
フォーリンゲンで現れた怪物に、地下道のときと同じくフィリアは怯えることしか出来なかった。
視線を向けるだけで耐え難い恐怖を覚える怪物を相手に、アリスは平然と正面から向き合った。
スフィとノーチェは脚を震わせる恐怖を抑え込み、末妹のために剣をとって立ち向かった。
一番年上のフィリアが、命がけで戦う仲間を見ていることしか出来ずに震えていたことは、思いのほか彼女の小さなプライドを傷つけていた。
誇り高き騎士ザインバーグの血を引く、ザインバーグ家の一員としてのプライドを。
後ろめたさを感じつつも、利用できると共に旅立った仲間たち。
最初こそ打算の関係だった彼女たちは、気付けばかけがえのない友人になっていた。
意地っ張りで仕切りたがりな、誰より仲間思いの黒猫。
時折闇が見え隠れするが、とても天真爛漫で人当たりの良い姉狼。
独特な感性でマイペースに生きる、どこか放っておけない妹狼。
一筋縄ではいかないけれど、一緒に居て楽しいと思える友人たち。
前を向けば、屋敷の幻は空気に溶けて消え始めていた。
椅子も机もなくなって、フィリアと両親は雪原の真ん中に向かい合うように立つ。
吹雪が止んだ。
どこまでも続く雪原の分厚い雲で覆われていた空には、いつの間にか晴れ間が覗いている。
「お父さま……お母さま……」
「私達はずっと見守っているよ。友を守り、友と助け合い、強く生きなさい。お前なら出来る」
「フィリア、元気でね。貴女なら大丈夫」
「……はい」
穏やかな笑みを浮かべ、雪に溶けていく両親の姿。
やがて誰もいなくなった雪原を見つめていたフィリアが、背中を押す風に導かれるように空を見上げる。
灰色の空にできた雲の亀裂から、青空が広がっていく。
それを眺めているうち……目が覚めた。
■
名残りがなくなったのか、迷いは振り切れたのか、それはフィリアにもわからない。
それでも両親に背を押され、夢を振り切って歩き出すことは出来た。
和室で目を覚ましたフィリアが、何があったのか状況を確認するため、同室で眠る友達をひとりずつ確認していく。
いつの間にか着替えさせられ、布団の中で何度も寝返りをうつスフィ、ノーチェ。
「スフィちゃん……ノーチェちゃん……アリスちゃ……きゃあああああああ!?」
それから、暗がりの中でぐったりと倒れ込むビークマスクのペスト医師。
寝起きで見付けた正体不明の謎の怪人に、少女の悲鳴があがるのも無理からぬことだった。
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