禍鼬


 陰に潜んでしばらく身体を休めていたその矢先。


 このまま連中が諦めてくれれば良いという甘い考えは、あっさりと覆された。


「ノーチェ、きてる」

「!」


 ネズミとは違う水をかきわける音が近づいてきていた。


「あいつら、しつこいにゃ!」


 スフィとぼくにはよっぽど売り物としての価値があるらしい。


 地下道の向こうにハッキリとした明かりが浮かぶ。わざわざ戻って照明を用意してきたのか……。


「逃げるにゃ」

「アリス、つかまって!」

「うん」


 スフィに背負われて、みんな揃ってまた逃避行がはじまる。だけど相手が照明を用意してきたことで、こっちのアドバンテージは失われた。


 ぼくたちにとって膝近くまである水深も、あっちにとっては少し足を取られる程度。


 水没した通路を回避して進もうとすれば、移動先の選択肢はどんどん狭まっていく。


「逃がすな! 追え!」

「待ちやがれ!」


 野太い声が近づいてくる。一番大きかったのは体温の低下、地下の冷気と水で濡れたことで一気に熱を奪われた。休んだことで体力そのものは温存できたけど、運動をやめて身体が冷えたことでみんな明らかに動きが悪くなっていた。


 何かしたいけれど、今のぼくに出来ることはなにもない。ただ足を引っ張らないように大人しくしているだけ、まわりがぼくを守ろうと頑張るのを、ぼんやりながめているだけ。


 これじゃあ前と……前世と何も変わらない。


「くそ、しつこいにゃ!」


 ノーチェの声にも余裕がない。


「前、分かれ道!」

「ひだり」


 ふたてに分かれた道があった。右からは何かが駆けてくる音、だから左を指差した。


「ヂュ」

「うお!?」


 左手の道に入り込んだ瞬間、右側から低い鳴き声とともにネズミが飛び出してきて、同時に男の悲鳴が聞こえる。


 偶然だけど、ネズミが男たちと鉢合わせる形になった。振り返ると、剣の男の指示のもと、棒を手にこちらを追いかけていた連中がネズミに襲われて足を止めている。


「なんだこいつ、でけぇぞ!」

「いてぇ!」


 ネズミ側も大暴れで、自分の怪我も気にせず男たちに噛み付いたり体当たりをしたり。決して広いとは言えない通路の中でそんなことをされれば、簡単には通り抜けられない。


「ネズミがおそいかかってる」

「ざまぁみろにゃ!」


 かち合えば嫌な敵でも、この状況だと助けに見える。そのうえ、右側の通路からは他にも何体かのネズミが走ってきている音がしていた。


 あの大きさと暴れっぷりなら、いくら荒事に慣れた男でもそう簡単には……。


「どけっ!」


 剣の男が明かりを近くに居た少年に預けて、鞘から抜き放ちながら走り出す。


「邪魔しやがって――『スラッシュ』!」


 技名のようなものを叫んで剣を振るう。刃が淡い赤光をまとって、暗闇の中で軌跡を描いた。


 地上で見た限り、剣の質なんて決して良くなかった。使い込まれた剣身は傷みが見えるくらいで、ギリギリ粗悪品ではないって程度。


 切れ味だって良さそうには見えなかった、その刃が。


 まるで斧で薪を割るようにネズミの身体を頭から寸断し、通り抜けた。


 場違いにも思っていた、技名叫ぶとか漫画かよという感想が吹き飛んだ。なんだよあれ、ぼくは知らない。


「あのおっさん、武技(アーツ)使えるにゃ!?」

「知ってるの?」


 一応背後を気にしていたらしいノーチェの驚愕に、スフィがぼくの聞きたいことを質問してくれた。


「なんか、鍛えると使えるようになる必殺技にゃ! 母ちゃんが言ってた!」

「ま、魔力を使って放つ、武術をしょうかさせた技だって、知ってる騎士さんが言ってた!」


 ざっくりとしたノーチェの答えを、フィリアが補強してくれた。考察してる時間がないから、いまは武器を使って使う魔術って考えよう。


 そのうえでわかったことは、どうもただのチンピラって訳じゃないってことだった。


「って、ストップにゃ!」


 ノーチェの声に全員が足を止める。理由は……。


「ごめん、きづかなかった」


 行き止まりだ。袋小路の突き当りには人形らしきものの残骸が転がっている。作りかけの壁が一部崩壊して、大きな穴が空いている。穴の先は奈落のような崖になっていて、水の流れる音が聞こえた。


 音の流れで空間が広がっているから、道が続いていると勘違いした。


 失敗だ。この状況では最悪の。胸がギュッと締め付けられる。


「しゃあにゃい、なんとか切り返すにゃ」


 真剣な表情で振り返ったノーチェに追従するように、スフィが来た道を向き直る。


「はぁ、はぁ、ようやく見つけたぞクソガキども」


 ネズミの返り血を浴びた剣の男が、引き連れた男たちを背に怒りを滲ませながら道を塞いでいた。



「まったく、こんなところまで逃げ込みやがって」

「観念しろ、ゴレンさんは元Dランクの冒険者なんだ、お前みたいな魔物もどきが勝てる相手じゃないぞ!」

「そうだ!」


 この間ノーチェにこてんぱんにやられていたスラムの子供が、剣の男の背中で照明を片手にふんぞり返っている。虎の威をかる何とやら。


 だけど、剣の男がDランク冒険者だっていうのは最悪の情報だった。


 国際冒険者ギルドは戦闘力を含めた任務の遂行能力によって、会員をランク付けしてる。地球のアルファベットに酷似した魔術語の文字列の順番どおりにAからGまでの7段階と、超越者とか格別のとかいう意味合いを持つ単語の頭文字からとったSランク。


 Gが見習い、Fが駆け出し、Eが腕一本で食っていける最低ラインと呼ばれている。


 Dともなれば一人前、小さな町や村なら腕利きに分類される。


 どうりで荒事になれてるはずだ、いまは隙もない。


 彼らの背後には棒を持った男たちがずらっと並び、逃げ道を塞いでいる。


「痛い思いはしたくないだろ、大人しくこっちにこい。お前らが大人しくしてるならそっちの2匹は見逃してやる」


 嘘つきの音がした。怒りと悪意が混ざり込んだ嫌な音だ。


「スフィ、あれうそ」

「わかってる」


 ぼくたちを確保した後でノーチェたちを始末する気満々だと耳元で伝えると、そんなことわかってると頷かれた。


 それもそうか、わかり易すぎる。


「……フィリア、いもうとをおねがい」

「スフィ?」

「す、スフィちゃん?」


 おろおろしながらフィリアが近づいてくると、スフィがぼくをそっと背中から降ろした。


「なんとか隙、つくるから、アリスを連れて逃げて」

「……ちっ、それしかにゃいか。フィリア、そっちは任せるにゃ」

「おーおー、熱い友情だねぇ」


 小馬鹿にする剣の男に少し苛立ちながら、少しでも隙はないかと耳を澄ませる。


「う、うぅ、ぐす、アリスちゃん、つかまって」

「……ん」


 少しでも邪魔にならないように、指示に従う。フィリアの背中にしがみついて、音に意識を集中する。


 チャンスを見逃さないように、相手の行動を把握できるように。


 前世、小さい頃は耳が良かった。イルカやコウモリのやっているみたいな、反響する音で空間を把握するなんてことが出来るくらいには。


 成長して10歳を過ぎる頃には"凄く耳が良い"程度になって、記憶にある前世の最後あたりではもう"普通に耳がいい"くらいに収まってしまっていた。


 いまの身体(アリス)なら、耳の良さを活かして近いことができそうな気がする。


 集中しろ、集中して……。


「……?」

「本気でやるんだな? 謝っても痛いじゃすまねぇぞ」

「はっ、上等にゃ」

「いもーとには触らせない!」


 奇妙な音が近づいているのに気づいた。空気の流れを遮る程度には大きな音の気配が、恐ろしいほど静かにこっちに近づいてきている。


 ネズミじゃない、こんなに大きくないし静かでもない。


 照明の向こう側に向けて目を細める、むしろ明かりが邪魔でよく見てないその先で大きな黒い影がうごめくのが見えた。


 ここまで近くでも、驚くほどに音が静かで。集中していないと連中とノーチェたちのやり取りにかき消されてしまう。


 だけど、確かにそいつはそこにいる。近づいてくる。


 照明の届く端、壁を作っていた男たちの背中から、ぬっと頭をのぞかせた。


「ガキ相手に雁首揃えて! なさけな……」


 冷静さを失わせるためか、挑発していたノーチェの言葉が止まる。


 大きな鼬だった。照明を全て吸い込むような真っ黒い毛並みで、瞳と口だけが異様に赤い鼬の顔。


 写真で見たことがあるような可愛らしいものとは全く違う、しわくちゃで、口は耳元まで裂けている不気味な容貌。眼は爛々と光り、まるでニタニタと笑っているように口元を歪め男たちを睥睨していた。


「あん? なんだ急に、今更になってビビっちまったか?」


 ノーチェもスフィも、尻尾の毛を逆立たせている。たぶん、ぼくも一緒だろう。


 アレは違う、アレはだめ。


 前世では、保護されてる施設の関係で色んな人間の音を聞いていた。頭の良いエリート様に、どうしようもないおバカさん。世界有数の権力者に、様々な事情で処刑場に送られた人たち。


 その中に時折交じる、どす黒い悪意の音を持つ人間がいた。他者を傷つけ、尊厳を貶め、命を踏みにじることを至上の喜びと捉えるそんな奴ら。


 あの鼬からは、そんな人間の出す音とよく似た音がしていた。


 そこから悪意と害意だけを抜き出して、煮詰めて固めて獣の皮をかぶせた異形。


 こわい。恐怖に全身が震える。


 "やばいもの"には、アンノウンで慣れてる。


 中にはぼくに対しても別け隔てなく害意を向けてくる奴だって居た。こいつから感じるのは、それとまったく同じ気配だ。


 これが魔物、純粋な化物。


 昔だったなら平静を保てた状況も、今は護衛も助けてくれる味方もいない。


 無防備で受ける悪意が、こんなに恐ろしいものだなんて知らなかった。


「……ま、仕事が楽な分にはいいけどよ。お前ら、捕まえろ」


 道を塞いでいた男たちが、背後に迫るものに気づきもせずにあるき出す。


 その一番うしろで、化物の巨体から伸びた悪魔のような腕が2本、一瞬出遅れた男の二の腕を掴んだ。


「うわっ!? なにすん……」


 驚きの声をあげた男が振り返るなり、固まった。釣られて、とうとうその場の全員が化物の存在を認識する。


「う、うわぁぁぁぁぁぁ!?」

「何だこの化物!?」

「げ、ゲド、お前なにしてんだ!」


 全体はわからないけれど、頭部の位置からして男たちよりも頭ひとつぶんくらいは高さがある。


 揺れる照明の中で、悲鳴をあげるつかまった男の腕に黒い獣の指が食い込んでいくのが見える。


「い……いでぇぇぇ! 誰か、誰か助けてくれぇ!」


 ミシリ、ミシリと音がする。もともと歪んでいた鼬の化物の顔が、隠しきれない喜悦で大きく歪む。


 その場の全員が恐慌状態になるのに、時間は必要なかった。


「ひぃぃぃぃ!」

「ゲドォ! くそ、離しやがれ!」

「お、お前らどけ!」


 照明を揺らしながら悲鳴をあげて逃げ出そうとする少年に、助けようと棒で化物に殴りかかる他の男達。だけど化物はビクともしない。


「死ねや、『スラッシュ』!」


 淡い赤光をまとった剣の一撃が化物の身体に迫り――ゴツリと重い音を立てて表面で止まった。


「がっ……くそッ」


 手首を押さえながらよろめいた男を、化物が横目で見やる。悔しがる男を観察するように、新しい腕が暗闇から出てきた。


 1本、2本、3本、4本、合わせて6本。


 そのうちの2本が、捕まっている男の顎を掴む。それからゆっくりと、本当に少しずつ男の頭を上へ傾けていく。


 化物の視線は、剣を持つ男に釘付けだ。


「フィリア……フィリア! ノーチェ、スフィも! いまのうちに横を抜けて走り抜けて」

「え、で、でも」

「いける、やれる! ノーチェ! スフィ!」


 がたがた震えているフィリアに声をかけて、肩を叩いて促す。


 足を止めて震えていたら確実にやられる。動きでわかった、あいつの目的は嬲ることだ。


 剣も通らない身体で、ここに居る人間を警戒する意味はない。なのにまるで逃げている人間を眺めて楽しんでいるかのように、ひとりを捕まえて痛めつけている。


 今なら、今この瞬間なら見逃される可能性が高い。


「ノーチェ! スフィ!」

「ッ、にゃ」

「あ、アリス」

「走って! 横を抜けて、今ならいける! げほっ」


 むせるのも構わず大声を出す。おかげで多少は気を持ち直してくれたみたいだ。


 正直いちかばちかだ、でも可能性が高いのがこれだ。


 迷うな、考えるな、時間が惜しい。


「げほっ、こほっ、走っ……てぇ!」

「くそがぁぁ! 『パワースラッシュ』!」


 短い剣を両手持ちにした男が、先程よりやや強い赤光をまとわせた剣を振り下ろす。


 見るからに先ほどとは速度も重さも段違いな一撃。切っ先が魔物の身体に埋まり、軋む音を立てて刀身が割れた。


 愕然とする剣の男の前に、化物は捕まえていたもうひとりを見せつけるように差し出す。顔にニタニタとした笑いを貼り付けながら。


「ゴレンさん、た、たすけてくれぇ!」

「あ、あぁ……」


 後じさりする剣の男の前で、化物の腕が動く。男の首からミヂミヂと嫌な音がし始めた。


「ぐぶっ、いや、いやだ、いやだいやだいやだ……死にたく、な゛」


 仲間の死を見せつける魔物の背後を、フィリアが凄い速さで駆け抜けていく。ノーチェとスフィもそのすぐ後に続いたのが気配でわかった。


 さすがは獣人の脚力、乾いた地面ということもあってあっという間に現場から離れていく。


「な、なんにゃ、何にゃあれ!?」

「こわ、こわか……ったっ!」

「いそいで、できるだけ、距離を」


 姿は見えないけどちゃんとついてきてくれてるノーチェとスフィの声に安堵をしながら、今のうちに距離を取ってほしいと改めて声に出す。


「わかってるから! 静かにしてて!」


 だけど完全に余裕を失ったフィリアに怒られて、ぼくは黙りながら背後の音に意識を集中することにした。


 聞こえてくる悲鳴と断末魔の声。それがひとつずつ、鈍くなって消えていく。


 厄介な敵が消えて、もっと厄介な敵が現れた。事態はいまだ最悪のままだった。

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