地を這う神、天縛る女神
地上に降り立つと全身を緩やかに圧迫していた空気圧が解け、草と夜露の匂いが広がった。
「イフリートの乗り心地はどうでしたか?」
「貴重な経験だった。ありがとうな」
「それは何より……もう行くんですか?」
「ああ、ナグルファリを回収しねえと」
「そうですか……」
「まだ何かあるのか?」
シャハリヤは竜の手綱を握ったまま黙り込んだ。
永い沈黙の後、彼女は顔を上げた。
「ヴァイカー、勝負しませんか?」
「何?」
シャハリヤは急に手首を振って何かを投げつけた。ヴァイカーが受け取ると、掌に龍鱗に似た小さな蜜色の石のようなものが転がった。
「何だこれ」
「ピクシーの体液の結晶です。琥珀に近いですね。私の家は宝石商も兼ねていたのでこういうものがあるんです。これは声を届けることはできませんが、簡単な音くらいならピクシーよりも遠距離の通信ができます」
「それで……?」
「撃墜記録。私は単独任務が多く、ピクシーでの通信ができません。ですから、これで魔物を何体倒したか勝負しませんか?」
ヴァイカーは微かに輝く結晶石を見下ろし、口角を上げた。
「シャハリヤ・トゥランドットに挑まれるとはな」
「光栄でしょう?」
「誤魔化しは効かねえぞ」
「そちらこそ」
シャハリヤは赤水晶のような目を細めて微笑んだ。
「ありがとうございました。飲み会に誘ってくれて。これから荷が重い用事があるので、気が晴れました」
「あんな馬鹿騒ぎでよければいくらでも」
シャハリヤは背を向けて歩き出した。
濁った風が吹く庭でシャハリヤは一度振り返り、ヴァイカーの背を見送った。
駐屯所の廊下は暗く、静まり返っていた。
食堂の喧騒もここまでは届かない。シャハリヤは談話室の前で足を止めて、重い息を吐いてからドアノブに手をかけた。
「モル・コーニス様」
暗闇に慣れた目を刺すような明かりの中に車椅子の女が座っていた。
長く垂れる亜麻色の髪とレースのドレスが隠す肌は無数の傷に覆われていた。彼女が微笑むと眼帯の下、引き攣れた火傷の痕が歪む。
「シャハリヤ、来てくれたのね。私の勇者」
「こんなところまで態々お越しにならなくても……」
「出資者が資金の巡りを確認しに来るのは当然でしょう?」
「失礼しました」
「畏まらなくていいのよ。ペガサス騎兵じゃなくなった私が軍の役に立てるのはお金だけだもの。昔はお父様の七光りだと言われて嫌な思いもしたけど、今は伯爵令嬢の立場に感謝してるわ。だって、勇者の後ろ盾になれたのだものね」
甘い声にシャハリヤは目を伏せる。
モル・コーニス。王都空軍黎明期ではマキア・ニューポール、ヴァイカー・アトキンスに並ぶ英雄だった。
空戦で撃墜され、半身不随になった今、竜騎兵部隊の出資者として未だに軍に根を張っている。
「暗い目ね、シャハリヤ。私を軽蔑している?」
「まさか。私が前例のない三首竜の騎兵として戦えているのは貴女の後ろ盾があってこそです」
「いいのよ。わかるから。あのヴァイカーが竜騎兵になったのでしょう。昔は同じ空を飛んでいたのに。彼は今も輝ける戦士で、私は堕ちた鳥の死骸みたい。感謝は得られても尊敬が得られるはずはない」
シャハリヤは車椅子の前に跪き、モルの肩に上着をかけた。
「寒いと考えが暗くなります。軽蔑なんて貴女の妄想ですよ」
モルはまた火傷痕を歪めて笑った。彼女の冷え切った指がシャハリヤの頬を包む。
「いいのよ。地上に堕ちたことは後悔してないわ。貴女が代わりに飛んでくれているんだもの。これからもっと勝って、人類を守って、私にできなかったことをしてね?」
シャハリヤは膝をついたまま瞑目した。
***
三首を持った山のような竜が飛翔していた。
若い準竜種兵は竜の尾の形に土が削れた庭に立ち、上空を見上げた。
「すげえ……真下で見たの初めてだ……」
各々が独立した生物のように動く首も、夜空を裂く赤の眼光もこの世のものとは思えない。
目を奪われていた兵士の足元で仔犬が鳴いた。
白い柔らかな毛並みの雑種犬は、彼が隊舎で隠れて飼っている小さな友人だった。
「何だよ、腹減ったのか? そろそろ帰ろうか」
兵士が仔犬を抱き上げると、背後で足音が響いた。
硬質な軍靴ではなく、濡れた芝を踏み締める湿った響きだった。
ジャンユー教官に軍規違反を見つかったらタダでは済まない。兵士は仔犬を上着に隠して恐る恐る振り返った。
「違うんです、こいつはペットじゃなく……」
立っていたのは、見たこともない男だった。
肌も髪も血の代わりに氷河が流れているように蒼白だ。
鯨骨のバレッタで留めた銀髪は竜騎兵にしては長く、空気抵抗を考慮していない黒の長コートを羽織っている。裸足の爪先の芝生を掴む立ち方は、地上に着地した竜を思わせた。
彼は戸惑う兵士の手から仔犬を取り上げて、微笑んだ。
「では、食用かい?」
「何ですか……?」
「愛玩用ではないなら家畜では?」
「違います」
兵士は青ざめて仔犬を奪い返した。犬は震えながら兵士に縋りつく。男が触れていた部分の毛は氷を当てたように冷え切っていた。
銀髪の男は長身を屈めて、兵士と仔犬を覗き込んだ。
「なるほど、確かに犬は成長にかかる時間とコストが高い割に可食部が少ないから、畜産ではなく愛玩を目的にするのは合理的だね。しかし、寿命や耐久性の観点から見れば心許無くはないかな? 戦時下の心の拠り所として適切なのは、より強大な存在、即ち神だと思うんだ。私の故郷はそれで成り立っていてね。君、信仰は持っているかな」
「ルキヤーノ君!」
兵士が思わず後退ったとき、遠くから上ずった声が聞こえた。
竜種学者のコレスタフが紙袋を抱え、金髪を振り乱しながら駆けつける。
「任務が終わったならまず帰還報告をしてください! また靴を脱いで!」
「靴が苦手なんだ。空を飛ぶときは竜鱗を地肌で感じて竜と一体化しないと」
「君の独特の感性を語らないでください。ひとつも共感できないんです」
コレスタフと男を見比べて、兵士は呟いた。
「ルキヤーノ……
「知っているのかな? その通り。私はルキヤーノ・ユーソフ。王都の防壁の凍結要塞は私が造っているんだ」
コレスタフはルキヤーノを押し退けて、兵士に囁いた。
「驚いたでしょう……?」
「はい、王都の防衛の要を努めてるのに名誉も地位も求めない聖人君子だと聞いていたのに……」
「実態は自分を聖人だと思い込んでいる奇人です。僕たちも持て余してるんですよ」
唖然とする兵士の肩を叩き、コレスタフは首を振った。
「その犬のことは秘密にしますから。もう行ってください」
兵士が慌てて走り去ると、コレスタフは溜息をついた。
「まったく……またジャンユー教官に叱られますよ」
「嬉しいな。彼はいつも無表情で無口だから、私と話すと元気が出るみたいで張り合いがあるよ」
「何も伝わってないんですね……」
コレスタフは汚れた眼鏡を押し上げ、紙袋からパンを出した。
「それは?」
「竜騎兵の間で酒宴があったんです。僕は参加しませんでしたが、食料はたくさんもらいました。要りますか?」
「いや、私はいいよ。それより、皆が無事でよかった」
「何かあったんですか?」
ルキヤーノは目を細め、夜空を見上げた。
「魔物が急速に進化している。人語を介するものや、人間に擬態するものまで。正当な進化にしては段階を飛ばし過ぎているかな。何者かが介入しているかもしれない」
コレスタフは口に詰めたパンを溢した。
「人間側が魔物に協力しているということですか?」
「どうかな……卵が先か、鶏が先か……」
「わかるように言ってください」
「まだ疑心の段階だよ。共有するような事実はない。大丈夫、人類は私が守ってあげるから」
ルキヤーノは氷の微笑を浮かべた。
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