泥酔夜間飛行

「確認しておくけれど、いいか?」


 ヴァイカーはナグルファリに視線を向けた。雷光のような緑の瞳が周囲を見回す。長い沈黙の後、不満を込めた低い声が返った。

「いいわ……その代わり、絶対に勝ってちょうだい」



 ヴァイカーは石を手に取った。

 ピクシーの通信を妨害する魔物の結晶は一見ただの小石と変わらないが、近づけた途端、身体が鉛のようになった。視界が霞み、ぐらついた頭を掌で支えるとティッキーが囁いた。


「ヤバいよね。竜騎兵になる前はその状態が普通だったのに、今じゃドン底みたいに感じる。竜の恩恵って怖いでしょ」


 ヴァイカーは額を強く擦る。冷静になれば、視力も身体の重みも馴染みのあるものだ。

 ––––寧ろ、これほど身体能力が向上してたことに気づかなかったのか。

「恐ろしいな」

 ヴァイカーは呟いてグラスを引き寄せた。



 全員が石を手にする中、ジャンユーだけは離れた席で古書の頁を弄んでいる。

「お前は?」

「やらねえよ」

「なら、審判だな」

 眉間に皺を寄せる彼の代わりに、リーミンが親指を立てた。


「お酒どれにする? これとか高そうだけど」

 トニが取り出した濁った黄金色の瓶には槍で串刺しにされる竜が描かれていた。


「嫌な名前ね」

 ナグルファリが顔を顰め、シャハリヤが微笑する。

「ドラゴンキラー、高級酒ですがラベルが微妙に違います。粗悪な混ぜ物ですね」

「竜に背いてやるにはちょうどいい酒だ。それで行こうぜ」

 ヴァイカーは煙草を空缶に放って火を消した。



 リーミンが瓶を掲げる。

「ヴァイカーの歓迎会も兼ねて、一杯飲んだら誰かにひとつ好きな質問をしていいってルールに変えないか? それならもっと話しやすいだろ」

「いいね、じゃあ最初は新入りだ」


 ティッキーが有無を言わさずグラスに並々と酒を注いだ。ナグルファリの視線を受けながら、ヴァイカーは一気に飲み干す。脳の芯を鉄の槍で貫かれたような強い酩酊が走った。

「廃油みてえな味がするぞ」

「飲んだことあるの?」

「ある」


 瓶が机の隅を叩く重い音がした。シャハリヤが濡れたグラスを置く。

「いつの間に……」

 彼女は顔色ひとつ変えずにままヴァイカーを見た。

「何故廃油を?」

「なに?」

「王都空軍黎明期の英雄が何故廃油を飲まされたんです? 誰に?」

「飲まされたんじゃねえよ。スラムにいたとき、ギルドで酒入りのグラスのひとつに同じ色の廃油を入れて、全員で一気に呑むっていう馬鹿遊びがあっただけだ」

「運がないんですね」

 シャハリヤはもう一杯酒を煽る。


「ギルドでは……」

「まだ俺が質問してねえぞ」

 ヴァイカーは手を振って遮った。周りから漏れた忍び笑いに舌打ちする。

「じゃあ、シャハリヤ。コロッサスを討伐したって聞いた。どうやった?」

「よく聞いてくれました。コロッサスは巨大な城塞型の魔物ですから、攻城戦の手順を使えば難しくありません。まず対空地上支援の兵を配備し……」



 シャハリヤの滔々と流れる武勇伝が途切れると、ティッキーが手を打ち鳴らした。

「歓迎会なのにふたりの世界に入るなよ。酒の席ぐらい仕事のことは忘れようぜ」

 シャハリヤが不満気に肩を竦める。卓を囲む戦士たちに鋭い視線を向け続けていたナグルファリは微かに笑みを浮かべた。


「じゃあ、次はおれの番」

 リーミンが空の杯を傾けた。

「ティッキー、何でいつもチョーカーを付けてるんだ? 空に出たとき苦しいだろ?」

「あー、これね」

 ティッキーは首を覆う黒いチョーカーを摩った。

「俺の親父は傭兵だったって話したろ。仕事が正規軍に取られてから酒乱でさ。酔って家でナイフ振り回して、近くにいた俺の首にザクッとね。汚い傷だから隠してんだ」

「ご、ごめん。知らなくて……」


 慌てて俯いたリーミンの肩を叩き、ティッキーは酒を煽った。

「今度は俺だな。ジャンユー教官!」

 ジャンユーが本から視線を動かし、眉を顰めた。

「やらねえって言っただろうが」

「ここに座っててそれは通用しないぜ。何でそんなに付き合い悪いの?」

 トニが小さく噴き出す。ジャンユーは深い溜息をついた。

「……持病がある。大したもんじゃねえが、竜との契約で抑えてるんだ。だから、酒は呑めない」

「何だよ、暗い話題続きだな」

「面白い話ができるひとはいないんですか」

「シャハリヤの無茶振りが出たよ。勇者の再来は傲慢だな」


 シャハリヤがティッキーを睨んだとき、トニが酒瓶を掲げた。

「あたしがしてあげる!」

 トニの顔は真っ赤で、酒瓶の半分が空になっていた。ヴァイカーは目を剥く。

「いつの間にそんなに呑んだんだよ」

「あたしが持ってきたお酒だからいいでしょ! 話はねえ、あたし、一国の王女様に会ったことあるの。スラムにいた頃、やけに品のいい子がいると思って、お金持ってるかなあって話しかけたら……」


 ティッキーがヴァイカーの耳に口元を寄せた。

「トニの十八番だよ。酔うといつもこの話するんだ」

「いつもの虚言か?」

「たぶんね」



 酔った兵士たちの熱気が狭い食堂に立ち込め、溢れた酒がテーブルから流れ落ちる。

 話の途中で突っ伏したトニの肩をリーミンが揺すった。

「飲み過ぎだって。やめとけよ。質問もしてないしさ」

「質問? じゃあ、ヴァイカー!王都の英雄だった頃ってモテた? 何人と付き合った?」

「酔っ払いに付き合う気はねえぞ」

「ルール違反だ! ずるい! ちゃんと答えてよ!」



 そのとき、竜騎兵の制服の間に純白のドレスが割り込んだ。ナグルファリはトニの手から酒瓶を奪い取り、喉を天に向けて一気に煽った。

 唖然とする一同を尻目に、ナグルファリは空の瓶を机に叩きつける。

「……ナグルファリ、大丈夫か?」

「私の勇者が……私以外となんて……」


 濁った緑の目がぐるりと回転し、ナグルファリは机に倒れ込んだ。

 ヴァイカーは駆け寄って、彼女の肩を揺する。微かないびきが聞こえてきた。

「酔って寝てる」

「人騒がせですね」



 シャハリヤは溜息混じりに立ち上がると、ヴァイカーに視線で合図した。

「少し出ませんか。酔い覚ましです」

「コイツを置いて?」

三首竜ヒドラに乗ってみたくないですか。彼女がいたらできないでしょう」

 ヴァイカーは逡巡してから、ナグルファリの肩に上着をかけて食堂を後にした。



 結晶石を捨てると、全身に回った酔いが急に覚め、視界が覚醒する。

 冴えた冷気の中、夜空に散らばる鉄屑のような星のひとつひとつまでが目視できた。


 シャハリヤについて庭に出ると、山のような檜皮色の巨体が芝生の上に伏していた。

「三条紅イフリート……」

「近くで見るのは初めてですか?」

 人類に騎乗不可能と言われた竜は、棘のような角に覆われた三つ首で一斉にシャハリヤを見た。夜露と蒸気に濡れた竜鱗が闇を反射する。


 シャハリヤは事もなさげに竜に跨り、後ろをヴァイカーに示した。

 ヴァイカーが竜の腹を跨ぐと、六つの赤い目が爛々と輝いた。



 予備動作もなく翼がはためき、庭を両断するほどの巨体が浮かび上がる。

 空気抵抗を感じた瞬間、視界が歪み、王都の防壁が既に目下にあった。


 王都の夜光を絶えず噴き上がる水蒸気が乱反射させ、鈍く光る煙の中に地を這う蛇のような蒸気機関路面汽車が渡るのが見える。


 ヴァイカーは竜鱗の突起を掴んで都を見下ろす。昔見た都の夜は闇に沈んでいた。竜が人間の手中にある時代など想定しなかった。

「何もかも違うよな……」

 ヴァイカーの呟きに、シャハリヤが振り向いた。

「昔見た都とは大違いだって話だ。夜も明かりが灯って、人類に扱えないはずの竜が飛んでる。俺だけが時代に取り残されたみたいだ」

「黎明期の英雄が随分弱気ですね」

「何だかんだ言って過去の遺物だからな。そうならないように肩肘張ってるが」

「過去の遺物でも、現代に残したものが未来を繋ぐんですよ」


 シャハリヤは小さく息を漏らした。褐色の肌は夜光で銅のように輝いた。


「私が竜騎兵を目指したのは、幼い頃会った空の英雄の影響です。見たのは一度きりで、向こうは私など有象無象のひとりでしょうが、忘れられなかった。私が故郷で花火を見上げていた夜空を見下ろして飛ぶ、彼の視界をこの目で見たかったんです」

「そいつがいなきゃ勇者の再来は生まれなかったって訳か。間接的に人類を救ったな。もうそいつはくたばったか退役しただろうが」

「そんなことありませんよ」

「黎明期にいた奴らなんか殆どが殉職か退職だぜ」


 ヴァイカーはそう言いかけて口を噤んだ。シャハリヤの眼差しは空の遥か上を眺めていた。

「……グリフォン騎兵時代の教官に言われた。『終わりは近い。でも、今じゃない』ってな。未だ俺たちが戦えばいずれ堕ちてもまた次に飛ぶ奴が出る」

「その通りになりましたね」

「俺もまだ飛んでるよ」


 シャハリヤの小さな微笑みは竜翼が立てる風に掻き消された。

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