カリガリ要塞奪還作戦
鬼教官ドッグファイト
明け方の王都には朝靄と水蒸気が混じった白い霧がかかり、昇り出した赤い陽光を屈折させていた。
ヴァイカーは隊舎の庭で煙草を深く吸い、白い煙を吐き出した。
「煙草を吸うところ、初めて見たわ」
いつの間にか隣にいたナグルファリが見上げていた。
「ああ……」
王都に戻ったせいだとヴァイカーは思う。
空中騎兵隊にいた頃は、体重の管理と出撃時に胃の中身を戻すことがないよう食事を制限していた分、口寂しさからか煙草に頼っていた。
一日で一箱空けることも多かったが、スラムに行ってからはほとんど吸わなかった。煙の匂いはいつも届かない戦場の記憶を蘇らせた。
「嫌か?」
「いいえ、嬉しいわ。煙を吐いていると貴方も竜になったみたい」
ナグルファリはヴァイカーの胸にそっと手を当てた。
「私と同じ炎がこの奥にあるようだわ。体温も心音も、全部埋もれた炎が生み出しているの」
冷たく細い金属じみた指の感触は、心臓をそのまま握られるようだった。
ヴァイカーは上から手を重ねて、その指を剥がした。
「何か用があってきたんだろ」
ナグルファリは目を細める。
「ええ、竜種学者が呼んでいたわ」
「すみません、早朝から……」
廊下の片隅で紙筒を胸に抱いていたコレスタフが会釈した。いつ見ても参謀らしさの欠片もない印象は変わらない。
「ひとつは
まだ夜の色が残る青白い廊下を進みながら彼は紙面を広げる。
「主成分はメタンガス、死体から発生する毒気に近いですね。炎を吐かない竜種もいますがこれは初めてです。それから、強い酸も兼ね揃えていて、これも珍しいです。人間も酸毒症といって、血液中の酸性が多くなることで様々な疾患を起こす病があるんですが、それを自力でやっている感じで……あ、わかりにくいですか?」
「要は竜なのに人間の身体で起こるようなことを体内でやってるってことか?」
「あ、それです。その通りです」
コレスタフは眼鏡を押し上げる。
「本来、
「あんなものと一緒にしないで」
ナグルファリが牙を剥き出し、学者は身を竦めた。
「まあ、その、準竜種といって
コレスタフが足を止め、廊下の途中の扉を開け放つ。
吹き込んだ風が膨らみ、藍色の空に雲よりも早く輪郭の濃い無数の影が広がった。
「準竜種は兵站や急降下爆撃に使う火薬の運搬、偵察など、様々な戦闘行為に従事しています。今はその訓練ですね」
ヴァイカーは空を見上げた。
隊舎の庭を小型の竜たちが飛び交っている。
隊列を組んで規則正しく飛ぶ様は、塔と塔の間に張り巡らせた糸に繋げた旗が風にそよぐようだった。
––––たった数年で航空技術はここまで飛躍したのか。
ヴァイカーは唇を噛む。
––––だから、どうした。直接戦うのは俺だろ。非戦闘要員まで羨むのはもうやめだ。
「ヴァイカー君にも今日から訓練に参加してもらいます」
「私が見つかるのは明日のはずじゃなかったかしら」
ナグルファリの詰るような目にコレスタフが俯く。
「ふたつ目の要件というのが、その、教官に見つかりまして……」
「教官?」
「すぐわかりますよ。とにかく黒くて大きくて怖い……」
竜たちが天蓋を作る青空を地上から見上げる短髪の男がいた。
なめし皮のような黒い肌をした体格のいい男は、太陽を恨んでいるように吊り気味の目で上空を睨んでいる。
規則正しい隊列の中、一頭の竜がそれを乱した。騎乗する兵士が何度も手綱を引くのに構わず、竜は身をよじり、背泳ぎするように逆さまに地上へ近づいていく。
男が動いた。
地面に触れる寸前の竜の尾を男が掴み、腕力だけで回転させる。竜は布切れが落ちるようにうつ伏せに着地した。
「あいつ、今素手で竜ひっくり返したぞ」
口を開けたヴァイカーの前で、竜をクッション代わりに座り込んだまま呆然とする兵士を男の拳が殴りつけた。
「何やってんだ!」
銃声に似た声だった。
「あの男も竜なの?」
ナグルファリの問いにコレスタフが首を振る。
「生身の人間です」
「でも、
「あれは彼の地声です」
男は吹っ飛んだ兵士の胸ぐらを掴んで立ち上がらせる。
「失速状態で翼の迎え角を下げなければ体勢変化や錐揉みが起こる、実戦なら死んでたぞ!」
男は兵士を投げ捨てるとヴァイカーに視線を向けた。
「ヴァイカー・アトキンスだな」
長身の男が目の前に立つと、影にすっぽりと埋もれる形になる。ナグルファリが警戒の目を向けた。
「シア・ジャンユー。西の人間に名字は発音できないだろうから下の名前でいい。空中格闘術教官だ。期待の新人らしいな。新種の竜を連れてきた。何せ明日にならないと発見されない種族だ」
ジャンユーの鋭い視線からコレスタフが顔を背けた。
「世話になります」
「竜騎兵に序列はない。敬語も使うな。歴で言えば俺たちの先達だろ」
地上に降りた兵士たちの注目が集まる。ヴァイカーは舌打ちした。
「功績には敬意を表す。だが、ドラゴンは他の魔物と違う。昔の技術が通用すると思うな」
「言われねえでも知ってるよ。グリフォンは……」
竜に負けた。たったそれだけの言葉が出なかった。口の中が乾いて舌が張く。
ジャンユーはヴァイカーを見下ろした。
「そうだ。小型の魔物は旋回半径や旋回率では竜を上回るが簡単な機動力で劣るため、追尾ができない。それが致命的だった」
兵士の視線が背中に突き刺さる。ナグルファリが気遣うようにヴァイカーを見た。
「図らずも座学の時間になったが、再び実技に戻る。ロジャー、竜を貸せ!」
先頭の兵士が慌てて竜の手綱と鞍を外す。
「何を始める気だよ」
「基礎を教える必要はないらしいな。後は身体で覚えるのが一番早い」
ジャンユーは黒革の手袋をはめ、腿に巻いたベルトを引き締めた。
「空中格闘術の祖は、有利に
手綱と鞍を装着し直された竜が、声に呼応して赤い口腔も露わに吼えた。
「ドラゴン・ドッグファイト」
ヴァイカーは支給された上着を羽織り、脚にベルトを巻いた。
空中での機動は騎乗兵に激しい重力加速度がかかる。血液が身体の下方に偏り脳貧血を起こすのを防ぐため、両脚や下腹部を締め上げる装備は欠かせない。
懐かしい束縛を確かめ、視線で準備が終わったことを示す。
「俺は
ジャンユーはすれ違いざま、ヴァイカーにだけ聞こえるよう囁いた。
「勇者の竜を奪ったんだろ。勇者以上の真価を示してみろ」
ナグルファリが竜に姿を変えて言う。
「あの男、気に入らないわ。見せつけてやりましょう」
「ああ、そうだな」
ヴァイカーは脊椎の隆起した背中に飛び乗った。
竜の飛翔に遅れて空気の抵抗がふわりと身体にまとわりつく。
垂直に舞い上がったナグルファリの背から見下ろすと、訓練兵たちの顔が小さな花のようにまとまって見えた。
次いで、ジャンユーの竜が上昇する。ナグルファリの全長の半分しかない。
––––出力はこっちのが上だが、旋回率と旋回半径じゃ負ける。短期決戦だな。
真上に来た太陽の光が剣のように注いだ。目を細めながらヴァイカーは、早くも相手が後方を占拠するために旋回を始めたのを見た。
「敵との進路が交差する角がデカい。距離を詰めるが追い越すなよ」
答える代わりにナグルファリが加速した。
進路に先回りする軌道など、教官なら読むのは容易いだろう。裏を読み合う泥仕合になる前に単純な速度で先攻するのが狙いだった。
ジャンユーの竜が大きく旋回し、牽制するようにヴァイカーの上方を占めた。
––––俺たちより遅い分、追い越す心配をしないで済むって訳か。
逆光で更に黒く見える顔を睨んで、ヴァイカーは乾いた唇を湿らせる。
旋回の機会のたび、ほぼ並走するようなジャンユーの竜が進路を塞いではまた逸れる。有利なはずの出力がまるで活かせない。何度目かの交錯。
––––実戦だったらもう火筒の数発は当てられてる。
「速度上げろ、一旦距離を取る!」
ヴァイカーの苛立ちが伝わったのか、竜の逆立った鱗が肌に刺さった。
ナグルファリの腹が小刻みに震えるのを腿で抑える。
加速しすぎて空気抵抗も増大している証拠だ。これ以上はかえって失速する。
ナグルファリの機動が精彩を欠いている。
––––今までと何が違う?
視線を上げると、ジャンユーが無表情に見下ろしていた。眼光にあの日の太陽が浮かぶ。
「陽光か!」
夜の遺跡と遮蔽物の多い森での戦闘では意識しなかった。基本的なことだ。陽光が強いほど竜は眩しさで敵を視認し辛くなる。
進路を塞ぐだけでなく、太陽に向けて飛ぶよう誘導されていた。
「くそっ……」
ばつん、と音がしてヴァイカーの腿のベルトが弾けた。支給されたのは新品のはずだ。宙に散った金具が脆く酸化していた。
「ナグルファリ?」
骨の竜が荒く息を吐く。呼気が心なしか濁って見えた。
下方で兵士たちがざわついている。
ナグルファリが急上昇し、庭を隔てる隊舎に羽が触れそうな距離で旋回した。
風が通った瞬間、壁にかかる配管が筆で掃いたように黒を帯びた。
「中止! 中止です!」
コレスタフの上ずった叫びが聞こえた。咳で途切れ途切れの掠れた声が風に掻き消される。
「
仕切りに手を振るコレスタフが小さく見えた。
「聞こえたか。中止だ」
ヴァイカーの声に応えず、竜は弧を描いて飛ぶ。視界が反転し、太陽が回る。
「落ち着け、ナグルファリ!」
再び反転。ジャンユーと騎乗する竜が目の隅で揺れた。
ナグルファリは後方を狙うどころか、敵の正面に向かって吼えた。
「もうやめだ、これは実戦じゃない」
「勇者を馬鹿にした男よ、骨まで溶かさなければ」
骨が覆う喉が熱を帯びる。
「駄目だ、全員退避しろ!」
ヴァイカーが叫んだとき、目の前のジャンユーが消えた。頭上に暗い影が過ぎる。
直上に竜がいた。何かが風を切る音がし、黒い鋭角のものが視野に入る。
軍靴の先端だとわかるより早く、ヴァイカーのこめかみに衝撃が走り、世界が暗転した。
ジャンユーの蹴撃を頭部に食らったヴァイカーが宙に放り出される。
「勇者!」
背中の重量を失ったナグルファリが身を反転させた。
「お前……」
剥き出した牙の間から緑の閃光が迸る。
「お前の主を受け止めろ! 死ぬぞ!」
ジャンユーの怒声が
ナグルファリの胴が翻り、落下するヴァイカーの着地点に向けて白い翼を広げる。
ヴァイカーは骸骨の手に抱かれるように羽の中に落ちた。
ジャンユーが着地し、竜から降りる。
訓練兵は既に退避していた。庭にひとり残っていたコレスタフはおずおずと言った。
「いや、どうしましょう。思ってたよりマズイですよね。これ、軍用とか無理なんじゃ……」
「普通ならな」
頭を抑えて呻いた主に縋りつくナグルファリを横目に、ジャンユーは溜息をついた。
「ティッキーとトニを呼べ」
「教官、それは……」
コレスタフは何度も首を振った。
「駄目ですよ。だって、あのふたりはただでさえ問題だらけじゃないですか! 竜騎兵隊で最悪の部隊ですよ?」
「毒には毒を、だ。こいつの初陣は
そびえる隊舎の壁には、錆びた爪で引き裂かれたような黒い筋が幾重にも走っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます