クズとハッタリ

 空は葡萄酒を零したような色だ。

 時間が止まって見えるほど連綿と続く空で、風をなぞる雲だけが動いている。



 ヴァイカーは風を頬に受けながら、自らが騎乗する竜を見下ろした。

「もう動いて平気なのか」

 ナグルファリは目を細めた。

「優しいひと。ええ、もちろんよ」

 悠々と茜空を飛行する翼には何の傷もない。


「見えてきたぜ、あそこが王都だ」

 背後のリーミンの声にヴァイカーは顔を上げた。

 夕焼けを突くように折り重なったいくつもの尖塔がそびえている。

 赤い光に染まった堅牢な城壁は上空からの敵に備えて築き上げられたものだ。



「あの塔、王都の竜が防衛戦をやるのにも不利じゃねえか?」

「そう思うだろ?」

 いつのまにかヴァイカーの隣に進み出たリーミンが歯を見せる。

「あれの何棟かは凍竜ニーズヘッグ使いが造った氷の防壁なんだ。有事には他の竜が炎で溶かしてすぐ滑走路や足場に変えられる」

「どこまでも竜頼みか」


 リーミンは眉を下げた。

凍竜ニーズヘッグ乗りのルキヤーノは優秀なんだけど、あんまり王都にいないからなあ。そろそろまた造り直してもらわないと」

「冷気の咆弾ブレスは他の竜と相性が悪いからか」

「それもあるけど基本的に団体行動ができない奴なんだよ。命令違反も多いしさ。裸足で竜に乗るし、手綱や鞍を勝手に投げ捨てるし、変な宗教の勧誘もする」

「そいつかよ。奴が俺の迎えに来る予定だったのか」



 ナグルファリが小さく吠え、白濁した鱗が震えた。

「他の竜騎兵の話なんていいわ。もうすぐ貴方の都よ。みんな勇者の帰還を待ってる」


 尖塔が近づき、刻一刻と視界に映る都が大きくなっていく。

 ––––この壁を越えれば、二度と引き戻れなくなる。

 ヴァイカーは竜の牙と顎門に似た城壁を睨んだ。

 ––––迷うな、俺が戻る場所は地上じゃなく空だ。



 防壁の上部に取り付けられた鉄の扉が湯気を噴き上げ、ひとりでに開く。

 ヴァイカーが背を軽く叩くとナグルファリが加速し、一瞬で光の穴を潜り抜けた。



 風の匂いが変わった。

 眼下に無数の小さな箱を並べたような市場が広がっている。行き交うひとびとは竜に慣れているのか、皆一瞬視線をやって再び歩き出した。

 ひとりひとりの顔は見えない。懐かしい光景だとヴァイカーは思う。


 色とりどりの屋根の隙間から橙色の光と水蒸気が立ち上るのが見えた。

「蒸気機関、見たことないだろ? ドラゴンが咆弾ブレスの原理を使って、熱と水をエネルギーにしてるんだ。まだ実験段階だから王都にしかない」

 リーミンが誇らしげに指をさす。


「で、最先端の実験所が軍って訳だ。隊舎は向こうにある」

「知ってるよ」

 ヴァイカーはリーミンの誘導を待たずに、東へ向けて竜を進ませた。



 立ち込める蒸気の量が増え、上空まで熱気と水の匂いが漂ってきた。

 霞む視界の先に見張り台があり、前に進み出たリーミンが衛兵に何かを合図する。衛兵に促されて水蒸気の膜を突破すると、草原のように広大な庭が広がった。



 ナグルファリを着地させ、ヴァイカーは背中から降りる。流れてくる湯気のせいか草はしっとりと湿っていた。

「詰所にうちの竜種学者がいるんだ。まずそいつに会ってくれ」

 遅れて着地したリーミンがヴァイカーの肩を叩いた。

「シャハリヤが推薦状を届けてある。滅多にないことだぜ」



「可愛いひと、緊張しているのね。勇者の帰還を拒む者なんていないわ」

 ナグルファリの瞳に映る自分を確かめ、ヴァイカーは口元を引き締めた。



 守衛が守る真鍮の扉を潜り、燻んだ白の廊下をヴァイカーは進む。一歩歩むごとに隣を歩くナグルファリの喪服の裾が宙を泳いだ。

 ––––俺の武器はグリフォン騎兵の頃の技術と、勇者の竜だけだ。前者は真実だが、そんなものは求められてない。後者は人類全員の求めるものだが、ハッタリだ。


 最奥の部屋の扉の前で脚を止め、息を吸う。

 ––––偽物の方が求められてるなら、やってやる。ハッタリでできたクズの塊がお望み通りの勇者なんだろう。

 ヴァイカーは手の甲で二度ノックした。



「あっ、どうぞ。散らかっていますが……」

「おう」でも「入れ」でもない。奥から響いた声は軍人らしさの欠片もなく、知人のようにヴァイカーを促した。


 書物が積み上がった部屋に細長い男がいた。

 乾いた麦の穂のような荒れた金髪を束ね、指紋で汚れた眼鏡を掛けている。

「あ……僕は竜種学者のパーヴェル・コレスタフと申します。一応、竜騎兵隊の参謀をやっています」

「コレスタフ……これが本物か」

「え、偽物がいるんですか?」

 ヴァイカーの脳裏に竜墓で見た蒼白な男の顔が浮かぶ。眼鏡を押し上げようとしてレンズに触れ、慌てて拭く様は、魔物が装った姿と似ても似つかない。



「何でもない、忘れてくれ。シャハリヤ・トゥランドットから推薦状が来てるとか」

 コレスタフは床にまで広がった資料の山から封を破った手紙を抜き出した。

「貴方がヴァイカー・アトキンス君ですね。聞いてます。で、竜は中庭ですか?」


 ヴァイカーは首を振り、左隣を指した。ナグルファリがレースの飾りで覆われた喪服の胸を張る。

「喜びなさい。勇者とその竜が戻ったのよ」

 学術はヴァイカーとナグルファリを交互に見比べ、しばらく閉口してから手紙に視線を落とした。



「ええっと……そちらが人間に変身できる竜ってことですか。いや、そんな上位種、勇者伝説くらいにしか……」

 コレスタフは弾かれたように顔を上げた。

「あっ、勇者の竜って、まさか腐竜アジ・ダカーハですか? “錆の爪”ナグルファリ? 実在が確認されてるのは一体だけですもんね。 じゃあ、最も有害な竜と言われた……」


 ナグルファリは目を伏せ、わずかに唇を噛んでいる。

 ヴァイカーはその肩を軽く叩いて宥めながら、学者の表情を盗み見た。

「そんな、腐竜アジ・ダカーハが生きていたなんて、じゃあ……」


 ––––ひとと魔物の区別なく滞留して、地上の全てを襲う致死の毒ガスを吐く竜。軍で持て余すどころか、人類の脅威であることは明確。こいつの危険性を上回る有用性を示さなきゃ終わりだ。



 コレスタフは分厚い眼鏡の底の瞳を震わせた。

「論文を書き直さなきゃいけないじゃないですか!」

 ヴァイカーはナグルファリと顔を見合わせる。


「困りますよ、明後日もう王都の学会に提出なんですよ? 腐竜アジ・ダカーハはもう死んだって前提で仮説を立ててるんです。ナグルファリってすごい大きさですよね? 竜種の体長や体重の平均値も中央値も変わってくるじゃないですか。何でせめて、二週間前に言ってくれないんですか!」

 彼は金髪を掻き乱して叫んだ後、呆然とするヴァイカーを見た。


「彼女が見つかったの、明後日以降ってことにしたら駄目ですか……?」

「何言ってんだ、てめえ……」

 コレスタフは卑屈な笑みを浮かべる。


「学会発表の後に発見されたってことにすれば論文を修正しなくて済むんです!」

「その前に運用の許可は? こいつ竜種の中で一番危険視されてるんだろ?」

「そこは別にいいんです! 伝説の竜、すごいじゃないですか。危険性を上回る有用性は知ってますから。シャハリヤさんからの推薦ですしね。大丈夫です。それより、明後日以降ってことでいいですね? それまで隊舎でゆっくりしてて構いませんから」


 コレスタフは何かの書類に素早くペンを走らせた。

「じゃあ、採用です。これからよろしくお願いします」

 ナグルファリは半分口を開けたまま、答えに求めるようにヴァイカーを見た。

「俺が言えた義理じゃねえが、すげえクズだな……」



 そのとき、ノックの音がした。

「推薦状は役に立ちましたか?」

 開いた扉の前に立つシャハリヤが真紅の瞳を歪めて微笑んだ。ナグルファリが口を閉じ、不満げな視線をやる。

「あぁ……学会発表が役立ったみてえだ」

 ヴァイカーが答えると、シャハリヤは怪訝に眉をひそめた。

「いや、勿論、推薦ありきですよ。そう言いましたよね? 言ってませんでした?」

 コレスタフはずり落ちた眼鏡を上げた。



「まあ、何でも結構。これで正式に私たちの仲間入りですね。貴方の指導に着くジャンユー教官は優秀です。すぐ実戦に出られるようになるでしょう」

 シャハリヤは褐色の頬に笑みを浮かべて手を差し伸べた。

「お互い人類のために検討しましょう」

 ヴァイカーは少し躊躇してからその手を握る。細い指からは想像できない、血豆が潰れた手の皮の硬さが伝わった。



 ヴァイカーとナグルファリが退出したのを見届けてから、コレスタフは溜息をついた。

「いいんですか?」

「何が?」

 シャハリヤはまだ扉を見つめて直立している。

「いえ、ジャンユー教官はとにかく怖くて厳しいじゃないですか。彼は経験もありますし……カイル君のような人当たりのいいひとに見てもらって、軽く実習を終えてから実戦でも充分では?」

「駄目ですよ」


 シャハリヤの口角がわずかに上がった。

「彼の経験はグリフォン乗りの経験、竜騎兵のそれとは違います。一度木っ端微塵に叩き潰して、ドラゴンライダーとしての基礎を叩き込まなければ。そうでなければ、ちゃんとした勝負になりません」


「珍しいですね……」

 コレスタフは気弱そうに笑う。

「貴女が誰かに張り合ったりしてるのは初めて見るので……」

「そう見えますか」

 窓の外から夕陽が射し、中庭が黄金に輝き出す。その草の上に黒髪の男と喪服の女が伸びるのをシャハリヤは見下ろした。



 ヴァイカーは冷え始めた空気を吸い、深く息を吐いた。

「言ったでしょう、勇者を拒む者などいないと」

「そうだな……」


「また人類を救う戦いが始まるのね」

 微笑むナグルファリの白い全身は、夕陽に侵食されて茜色に染まっている。

「いつでも貴方はそうだわ。何の見返りも求めず世界のために戦うの。高潔なひと、何故そこまでできるのかしら」


 そんなもの俺が聞きたい、と言いかけてやめた。

 ––––こいつはもう勇者の幻影しか見ちゃいない。空に出たいだけの俺と同じだ。罪悪感なんか覚える必要はねえ。これはクズどうしのハッタリの聞かせ合いだ。


 そう言い聞かせて、ヴァイカーはナグルファリに笑い返そうとする。

 頰が引きつり、湖面のような緑の瞳を直視することができなかった。

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