雨と毒ガス

 ––––くそったれ。



 地上が近づくにつれて、騒乱の全貌が見えてくる。

 逃げる人間たちを追って木々の間を飛び交うハーピーの数はヴァイカーの想像より多い。


 黒い枝葉の隙間から乾いた木の皮に似た羽根の残像が見えた。ハーピーは群れで行動する魔物だ。これから更に増えるかもしれない。



「蛆みてえに死体に群がりやがって……」

 呻いたヴァイカーにナグルファリが咎めるような吐息を漏らした。

「勇者、貴方らしくない言葉だわ。それに私がいれば数など問題じゃないでしょう?」

「あぁ、そうだな……」


 ––––冗談じゃねえ。

 ヴァイカーは言葉と裏腹に舌打ちする。


 空中戦で敵に囲まれたときの最適解は戦域からの離脱だ。

 敵に旋回の余地を与えないため、向き合う形ですぐ近くを交差するように飛び、一気に加速して離脱。

 ナグルファリの速さなら不可能ではないが、森は遮蔽物が多すぎる。これ以上ハーピーが増えればどの個体と対抗するか決めかねているうちに背後を取られるだろう。



 ヴァイカーは横目で少し前方を飛ぶリーミンを盗み見た。

「勝算はあるんだろうな。逃げる人間ごと皆殺しって訳にはいかねえだろ」

「もちろんある」

 リーミンは竜の流線型の背に口付けた。

「行こう、シャンシー」



 薄青色の竜が加速した。

 直線の軌道に二匹のハーピーがいる。

「シャンシー、かませ! 咆弾ブレスだ」


 リーミンの声に竜が長い喉を反らせた。周囲に見えるか見えないかの薄い霧が立ち込め、大気がガラスを踏み砕くのに似た音を立てる。


 ハーピーたちが怒り狂った女のような顔を向けた瞬間、竜が咆哮を上げた。

 空中に現れた無数の白い棘が直進する矢となって魔物を引き裂く。豪速で放たれた華奢な水の刃は、ハーピーを紙吹雪と見分けがつかない残骸に変えた。



「炎ではなく水の散弾……凍竜ニーズヘッグのようだわ」

 ナグルファリが目を細めた。

「違う、シャンシーはおれの国にしかいないジャオって種族だ」

 リーミンが振り返って勝ち誇るように口角を上げる。


「液冷か空冷……咆弾ブレスに使うはずの熱を急激に冷やしたエネルギーで水の結晶を放ってる。連射式の猟銃を束ねたようなもんか」

 ヴァイカーが問うとリーミンが指を鳴らした。


「正解! おれの嫁さんはすごいぜ、最大で毎分四百発。連射でも毎分四十発はいける」

 リーミンは笑みを残したまま、竜ごと背面飛行で宙返りした。



 交錯する軌道で迫っていたハーピーを交わし、雨の散弾で撃ち落とす。首の長さを物ともせずシャンシーは木々の間を自在に駆け抜け、的確に敵を射撃していく。


「ヴァイカー、前に出てくれないか! お前が司令塔でおれは攻撃に専念、どうだ?」

 梢の中でリーミンの声がこだました。同意する代わりにヴァイカーは一気に加速してリーミンの竜を追い抜き、斜め前の位置を占拠した。


 駆け抜けた風圧で木々が傾ぐ。

「勇者、あいつ貴方に命令したわ」

 ヴァイカーはナグルファリの首の付け根を叩いていなす。


「構わねえよ、今から俺が命令する番だ。リーミン! 四時の方角に一匹、五時から指一本分六時の方角に二匹だ!」

 ハーピーの悲鳴と氷の刃が砕けて肉を裂く音が代わりに答え、背後から水蒸気がたなびいた。



「すごい正確だった。初めて組む相手じゃないみたいだ。おれたち相性いいかもな!」

「阿呆か、俺が合わせてんだよ」

 こだまする声に悪態をつきながらヴァイカーは乾いた唇を舐める。



 ハーピーの数が増えている。ドラゴンより小回りが利く魔物だ。連携を取られれば毎分四十発の連射程度では防ぎきれない。

 ––––数だけならそこまで問題じゃねえ。問題なのは地上だ。


 ナグルファリに高度を下げさせると、濡れて黒々とした地面と隆起する木の根が近づいた。

 そして、頰や肩に血糊を貼りつけて人間の顔。


 荷馬車を捨てて逃げ出した隊商の商人たちは、傷口を抑えながら上空で格闘する竜騎兵たちを見上げている。

 助かる期待と、彼らが撃墜される不安が入り混じった目だ。ヴァイカーが空にいた頃の純粋な信頼の眼差しに比べて、地上の人間たちは随分卑屈になったものだと思った。


 ハーピーだけならば森一帯をナグルファリが毒ガスで満たせば済むことだ。だが、命令できる訳がない。

 彼女はそうするのは勇者でないとわかった男を背から振り落とした後だ。

 ––––軍人だったんだ。死ぬ覚悟くらいできてる。だが、また墜ちるのだけは耐えられない。



「十時の方向に一匹、距離詰められてんぞ!」

 後方に怒鳴ると、少し遅れて砲丸のように飛ばされたハーピーがヴァイカーの横を飛び越え、木に激突した。

 丸く抉れた幹と落下する魔物を見比べながら、咆弾ブレスが間に合わずシャンシーの爪で直接攻撃したのだろうと思った。



 旋回半径ではドラゴンよりハーピーの方が有利だ。森の中で囲まれれば徐々に追い詰められる。

 ヴァイカーは後ろを顧みた。リーミンの表情に焦りの色が伺える。


「まるであっちの方が主役のようだわ。こちらは囮みたい」

 ナグルファリだけが鷹揚に不平を漏らしていた。

 ––––囮か。



「リーミン、森の向こうの地形はどうなってる!」

「渓谷だ!」

「民家や河川は?」

「ない、昔は平地だったのを魔物がざっくり削ってヒビを入れたんだ。野良犬一匹寄り付かない! 」

 リーミンが荒い息の代わりに白い湯気を噴き上げる竜の背を撫でる。

「開けたところに出れば機動は楽になるけど、シャンシーの弾が届きにくくなる……」



 ヴァイカーは同じようにナグルファリの背に触れた。

「隊商の奴らを度外視すれば簡単に勝てる。でも、それは違うだろ?」

 愛おしげに押し付けられた首の浮き出た頚椎が硬い。

「ナグルファリ、無理をさせる。行けるか?」

「無理でもやるわ。勝つだけの戦いじゃない。勇者の戦いだもの」


 燃える緑の瞳が歪む。痛々しいほどの信頼を寄せる笑顔が浮かんだ。

 ––––こいつを騙した罪悪感は後でいくらでも苛まれればいい。



「渓谷まで突っ切るぞ!俺が囮をやる。リーミン、追ってくる奴を弾いてくれ!」

 ヴァイカーは風圧に耐え得るよう、身を屈めて竜の背にぴったりと腹をつけた。


 ナグルファリが加速する。木々の残像が目の前に飛び出しては消える。黒い枝葉の先が爪のように頰を掻いた。

 リーミンの返答は聞こえなかったが、風の重みに耐えながら見遣った視界の端で透明な弾丸に撃ち抜かれたハーピーが血を噴き上げながら墜落していった。



 木々の間から垂れる光の雨のような木漏れ日が徐々に広がる。森の端が近い。

 ヴァイカーは更に重心を低くし、眩しさに耐えられるよう目を薄く開ける。

 身体が軽くなり、膨大な光と空気の膜が襲った。


 森を突出したヴァイカーとナグルファリの前に、空と大地に黒線を引いたような亀裂が広がっていた。

 ヴァイカーは目視でその深度を測る。



 頭上に暗い影がよぎり、鉄を弾くような音二発でハーピーが撃ち落とされた。

「ヴァイカー、どうする?」

 リーミンが肘で汗を拭いながら聞く。ヴァイカーは短く答えた。

「対岸まで逃げろ。全力で」



 ヴァイカーはナグルファリと視線を交わした。

 空気と光景が尖形に歪み、光が遠ざかる。

 奈落に向かって放たれた矢のように、竜と騎兵は大地の裂け目へと落ちた。



 幾重もの地層が剥き出しになり、惨劇の爪痕を語る渓谷が上へと流れていく。

 地下深くへと突き進むヴァイカーとナグルファリの頭上でけたたましい鳥の囀りが聞こえた。


 ヴァイカーは重力に耐えながら頭上を見上げる。

 無数の魔物の影と光が遠ざかる。太陽が完全に見えなくなったら、それが合図だ。


「まだ潜るの?」

 ナグルファリが気遣うようにヴァイカーを見た。

 その眼差しに不安はあるが不信はない。せめてもの償いだとヴァイカーは英雄らしく笑った。

「勇者は最後に派手に決めないとな」


 光が消えた。

 鼓膜をざらつかせる囀りと羽ばたきだけの闇のせかいだ。

 ヴァイカーは深く息を吸った。

咆弾ブレスだ、ナグルファリ!」



 地平の裂け目にヴァイカーの声が反響する。その響きを咆哮が掻き消した。

 両脇の崖が振動で砂礫を落とし、致死の毒霧が闇を薄汚れた白で塗り潰していく。


 ヴァイカーは肺に残った空気を絞り出す。

「よし、急上昇で離脱しろ!」

 全身を押し潰すような重力が襲った。


 闇の中を全力でナグルファリが駆ける。風圧に耐える鱗が逆立ち震えるのがわかる。ヴァイカーは竜の首に回した手に力を込めた。


 細い光の裂け目が近づく。

 風の防壁を貫き、竜が太陽の元に飛翔した。

 全身がバラバラになるような圧力が消え、渓谷から白いガスがふたりを追うように伸びる。

 谷底に毒霧に巻かれた魔物たちだけを残し、ヴァイカーとナグルファリは空に戻った。



 対岸に降り立ったヴァイカーの肩を、岸壁で待ち構えていたリーミンが強く叩いた。

「めちゃくちゃやるな、お前!」

 屈託のない笑みにヴァイカーは肩を竦める。


 白い羽が消え、喪服のドレスの裾を広げてナグルファリが地面に倒れた。

「ナグルファリ!」

 駆け寄って抱き起こし、脈拍と心音を確かめる。

「ガス欠だ。シャンシーもたまにそうなる」

 リーミンが頷いた。

 ヴァイカーは息をついて、地面にナグルファリを寝かせた。



「もうすぐ王都の兵士が隊商の奴らの救助に来るはずだ」

 リーミンは対岸を眺めてから目を伏せた。

「彼女さ、お前のこと勇者だって……」

 ヴァイカーは首肯を返した。

「ああ、そう騙してる」


 白髪と純白のドレスが土煙に汚れて広がる地面に視線を落とす。断続的な寝息が聞こえた。

 リーミンが息を漏らすように笑った。

「じゃあ、おれと一緒かな」

 ヴァイカーは弾かれたように顔を上げた。


 少年のように髪を切り詰めた華奢な騎兵が手を差し出した。

「戦争が終わったら一緒に酷い目に遭おうぜ」

 ヴァイカーは口角を上げて、その手を握らず爪の先でリーミンの手の平を弾いた。

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