貧民街王都間護送作戦
竜の花婿
蟻の巣穴のようなスラム街のバラックが遠ざかる。
ヴァイカーはここに来た日の朝のことを思い出した。
王都の近くまで侵攻したドラゴンの炎で朝焼けの空が焦げついたように燻っていた。避難してきた民衆と同じ色の外套を纏って歩く地面は、石や割れたガラスの破片が足の裏に噛みつくようだった。
今、ヴァイカーの隣には勇者の竜がいる。手を伸ばせば触れられる距離で、人類最強を謳われるドラゴンライダーが歩いている。また空に行ける。
スラムの隅の焼け落ちた教会の前でシャハリヤが足を止めた。
「私は先に王都に戻ります。貴方たちの護送はこれから来る男性隊員が行います」
「護衛なんていらないわ」
ナグルファリが不服そうに呟いた。
「いいですか、男性の竜騎兵ですよ」
「だから何だよ。女のがいいって言うと思ったか。もうこいつで充分……」
ナグルファリがこの上なく満足げに頷く。
「持て余してる」
ヴァイカーはシャハリヤにだけ聞こえるように囁いた。
「まあ、頑張ってください。“彼”は善良な方ですよ。竜騎兵は際物揃いですから」
シャハリヤは含みのある笑みを残して、踵で地面を蹴った。
彼女の身体が宙に浮く。次の瞬間、黄金のつむじ風が起こった。
骨組みだけを残して崩れ落ちた教会の影から、金の竜が山のような体躯を現し、風が瓦礫や燃え尽きた木材を巻き上げる。
風圧にヴァイカーが顔を覆う間に、シャハリヤは飛翔した竜に乗って飛び立った。
辺りには残響だけが残っていた。
見上げると、青空に
首ひとつを手懐ける間に残りのふたつに食い殺されると言われた、竜種の中で最も凶暴な種族だ。
「勇者の再来か……」
ヴァイカーは眩しさに鈍痛が走った頭を振り、スラムの最果てを歩き出した。
傍に視線をやると、ナグルファリが微笑んだ。ヴェールに似た白い前髪は左目を覆い隠すように垂れている。
「そっちの目どうかしたのか」
彼女は表情を曇らせ、髪の下に手をやった。
「古い傷よ。醜いから隠しているの」
勇者なら何と答えるだろうか。
「気にしねえよ」
ナグルファリは花が開くような笑みを見せた。
「ええ、知っているわ。私が嫌なの。勇者の隣に立つんだもの」
ヴァイカーはそれ以上何も言わなかった。
荒れ果てた街並みの向こうに王都の防壁が見えた。
かつては通商用の大通りに設けられていた関門を、堅牢な柵で覆い、上空からの敵を監視する見張り台の代わりになった壁だ。
ナグルファリの緑の瞳孔が細くなる。
「何か来てるわ」
視線の先を眺めると、空の雲を凝固させたような白い竜がこちらへ向かっていた。
竜というより蛇に似た長い喉と胴が陽光を映して煌めく。
陽に透けて薄い青に見える鱗の竜からひとの影が覗いた。
「お待たせ! 迎えに来たぜ。ヴァイカーと“錆の爪”だろ?」
変声期を迎えていないようなよく通る高い声だ。
ヴァイカーは手で庇を作って目を凝らした。
––––何が男性隊員だ。
王都竜騎兵隊の武骨なジャケットの上からでもわかる細い肩、猫のように横長の大きな眼、丸みが残る顔。どう見てもまだ幼さが残る女だった。
「本当にヒト型なんだな。初めて見た」
少年のような黒い短髪の竜騎兵は地上に降り立つなり声を上げた。
「しかも、すごい美人だ」
ナグルファリが喪服の裾をつまんで一礼する。
「そりゃどうも」
ヴァイカーが言葉を続ける前に、竜が鼻先で騎兵の頭を押した。若い客に声をかける露店の店主を隣の女房が肘で小突くような仕草だった。
「うわ、悪かったって。心配しなくてもお前が一番綺麗だよ」
騎兵はのしかかる竜を宥めながら、その鼻先に唇をつける。竜が赤い舌を出して騎兵の頰を舐めた。
「何を見せられてんだ……」
ヴァイカーが隣を見るとナグルファリはかすかに頰を赤くして俯いた。
「紹介がまだだった。おれは王都竜騎兵隊のドン・リーミン。こっちが嫁の“白雨夫人”シャンシー」
リーミンは頷いて竜の喉を抱いた。ガラスのような鱗の首がするりと巻きつく。
「嫁だって?」
「そう、夫婦で軍に所属してるのはおれたちだけ」
「今は竜と人間が結婚できるの?」
ナグルファリが目を輝かせた。ヴァイカーは舌打ちで牽制したが、リーミンが気づいた様子はない。
「王都じゃ流石に認められてないけどさ。一応うちの家は公認だ」
「正気かよ……」
かぶりを振ったヴァイカーの腕をナグルファリがそっと叩く。
「大丈夫よ、すぐにじゃないわ。戦いが終わるまで勇者はみんなの勇者だものね」
深淵のような彼女の瞳が見つめていた。
「あぁ、そうだな……」
リーミンは屈託なく笑ってから手を叩いた。
「じゃあ、おれが先導するからさ。ここからは空路で行こうぜ。竜騎兵らしく」
空に出ると、荒涼とした不毛地帯の先に黒い木々の密集した林があった。距離はそう遠くないはずだが、スラム街からはその影すら見えたことがなかった。
先行して飛ぶ竜、シャンシーが大きく翼を傾けた。揚力を増大させて高度を上げる動作だとヴァイカーは思う。
予測した通りシャンシーの身体が舞い上がった。
翼弦線と翼が受ける気流とが成す角を大きくすれば高度は上がるが、やりすぎると上面を覆う気流が剥離する上空気抵抗も大きくなり、高さも速さも失う羽目になる。
シャンシーにその予兆はない。
––––リーミンって奴、イカれてるが腕は確かだな。
ヴァイカーの脚の間で、化石じみた竜の胴が震えた。
ナグルファリが同じように翼を傾けた。
急に高度が上がり、浮力に襲われたヴァイカーの身体が宙に投げ出されかけた。
リーミンの笑い声が聞こえた。
「シャンシーが張り合ってる。おれが美人って言ったの根に持ってるみたいだ」
「いい迷惑だ」
ヴァイカーは吐き捨てる。
「男性隊員が来るって言われたんだが、その通りだったな」
リーミンが振り返り、困ったように眉を下げて人差し指を唇に当てた。ヴァイカーは肩をすくめた。
「竜と結婚してる奴とは思わなかった」
「本当は別の奴が来るはずだったんだけど、アイツすぐおかしな宗教の勧誘始めるから、止めて代わりにおれが来たんだ」
「お前がまだマシな方とはな」
黒く艶のある短髪が風にそよいでいた。
「東方の出身だよな。名前と見た目でわかる」
「あぁ、リアン山国の生まれだよ。竜騎兵隊にはいろんなとこから来てる奴がいる。もうない国からもな」
魔物の侵攻で人類の生存圏が減少してから、生き残った者は国の中心へと逃げ込んだ。
最後の砦となった王都には、広げた地図を端から畳んだように本来会うはずのない北から南までの人間が集結しているのだろう。
「おれの国は山に囲まれてるから、昔からそこに住むドラゴンとの関わりがあってさ。
リーミンは竜の後頭部を撫で、彼方の雲海を眺めた。
「シャンシーは契約の条件が特殊な
リーミンは目を伏せて首を振った。
「だから、お前が男で婿で龍騎兵って訳か」
ドラゴンライダーは皆、求められる虚像を演じていると、シャハリヤは言った。
「そっちの話も聞かせてくれよ」
リーミンが首を伸ばして問いかける。
「珍しいこともねえよ。魔物に村が焼かれて、親が死んで、孤児院で誰かのお恵みを待ってるより手前で稼ぎたいから軍に入った」
「それから?」
ヴァイカーは口を噤む。代わりにナグルファリが割り込んだ。
「それからの冒険は三日三晩では語り終わらないものね?」
「あぁ、そうだな」
ヴァイカーはナグルファリの脊骨の感触を確かめた。
リーミンが言いづらそうに口を動かした。
「あのさ、あんまり何でも否定しないでいると、たまにとんでもないことになったりするぜ」
「心配すんな、もうとっくになってる」
苦笑したリーミンがすぐに表情を打ち消した。シャンシーが前進をやめ、翼を上下させてその場に滞空する。
黒い林から一筋の細い煙が上がっていた。
木の幹の隙間に荷馬車が腹を見せて倒れている。
目を凝らすと、何人かの女が馬車の周りに見えた。
「隊商が襲われて、女子どもから逃してるのか? でも……」
困惑するリーミンにヴァイカーは地上を顎で指した。
「違うな。人間の女じゃねえぞ」
横転した馬車に群がる女の肩から先は腕ではなく羽毛に覆われた翼が生えていた。
「ハーピーか!」
ヴァイカーが頷く。
「ヴァイカー、助けよう」
「俺はまだ王都軍人じゃねえぞ」
「入隊のときの心象もよくなるって」
答えを待たず、リーミンはシャンシーを蹴立てて林の方へ急進した。
空に溶け込む薄青色の竜が遠ざかる。
「どうしたの、行きましょう」
ナグルファリの声が響く。煙の方をヴァイカーは睨んだ。
––––俺はまだ軍人じゃない。もうギルドの冒険者でもない。助けたところで金も名誉ももらえるわけじゃない。
「軍なんて関係ないわ。貴方は勇者だもの」
––––冗談じゃねえ。ただ、できないから助けなかったと思われるのはもっと冗談じゃない。俺ならできる。
「そうだな、あの馬鹿夫婦に遅れはとれねえ。こっちも見せてやろうぜ」
嘶くようにナグルファリの胴が震えた。
周囲の雲と木々が高速で後ろに流れ、薄青色の竜と一条の煙が目の前に迫った。
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