偽の勇者

 竜が地上に降り立つ。

 広がった白い翼が風にはためき、喪服のドレスの長い裾に変わった。



 ヴァイカーの足が大地を踏んだとき、脇腹の激痛が蘇った。

「勇者、私の勇者」

 真っ白な女が崩れ落ちるヴァイカーの肩を抱いた。


 ヴァイカーは自分の脇腹に触れる。新しい血が染み出していた。意識を手放しそうになる。

「ナグルファリ……」

 緑の瞳が月のような輝きでヴァイカーを見つめていた。

「もうすぐ軍が来るはずだ……誰か来たら、遺跡の中に怪我人がいるって……」

 仰いだ夜空に流星に似た赤い光が走るのが見えた。翼の先から三又に分かれた長い首の影が月に黒点を作る。三首の竜が飛んでいる。ヴァイカーの意識はそこで途切れた。




 死人の手が額に載っていると思った。

 ヴァイカーが目を開くと、白く細い幾重にも連なった帳が胸の上に垂れていた。

 太陽でも月でもない緑の光球。

 ヴァイカーの額に手を当て、覗き込んでいたナグルファリの長い白髪に触れる。陶磁器のような頰に微笑が浮かんだ。

「生きてると信じていたわ。私の勇者だもの」

「そうだな……」


 硬い寝台から身を起こすと、腐りかけた木板を継ぎ接ぎしたドーム状の屋根から雨漏りが滴っていた。

 枕元の銀の容器に血まみれの包帯と古びた鉗子がある。野戦病院を改造したスラムの隅の療養施設だと思った。



「二日眠っていました。彼女を離そうとすると暴れるので貴方だけ個室に」

 声がした方に振り向くと、廊下から染み出す闇の中に女が立っていた。


「治療費はご心配なく。私が払っておきましたから」

 女が指先でくゆらせる煙草の煙が流れてくる。ナグルファリが犬歯を剥き出した。


 誰かと問う前に、女が歩み寄ってきた。闇から褐色の肌が抜け出し、顎の辺りで切り揃えた金髪が揺れた。

 その女を知らない者はいない。

「ドラゴンライダー……シャハリヤ・トゥランドット……」

 女は義務的に微笑むと、枕元の銀の容器で吸殻を潰した。


「病院だぞ」

「肺のご病気でしたか?」

 ヴァイカーは首を横に振る。

「なら、問題ありませんね」

 シャハリヤは赤い瞳を細めた。南国の宝石商の娘だった彼女の目を、熱砂の秘宝と謳う歌をギルドの酒場で聴かない夜はない。


「貴方とふたりでお話したいのですが、可能ですか?」

「私の勇者よ」

 ナグルファリの瞳孔が鋭くなる。

「金だ地位だ汚い話になる。俺の竜に聞かせたくない」

 ヴァイカーが言うとナグルファリは愛おしげに微笑んだ。

「清廉なひと。わかったわ」

 長い喪服の裾と白髪が宙を泳ぎ、ナグルファリは部屋を後にした。



 ヴァイカーは包帯と鉗子に埋もれる吸殻に視線を落とした。

「巷の噂と印象が違うな。勇者の再来なんだろ」

 シャハリヤが肩を竦める。


「覚えがめでたいようで光栄ですね」

「あんたが空から見下ろして顔も知らない連中も皆、あんたを見上げてる。慣れっこだろ」

「私も貴方を知っていますよ。元空中騎兵第六分隊の精鋭、ヴァイカー・アトキンス。グリフォン乗りの英雄が、盗賊まがいの冒険者とは知りませんでしたが」

 ヴァイカーは息を呑んだ。


「最後の出陣は五年前、アルトゥール砂漠の空だったのでは?」

「何で知ってる……」

「貴方は知らなくて当然です。あの頃は私が見上げる側でしたから」

 シャハリヤは目に垂れた髪を払った。


「あの日、無敗のヴァイカーが墜ちた砂漠のすぐそばに私の故郷のカラフ小国があった。今ではそこももう砂漠と見分けがつきませんが」

「……俺の犠牲者ってことか」

「魔物と時代の、ですよ」

 滑らかな褐色の肌と金の髪に、昔上空から見下ろした砂漠の丘陵と芽生え始めた新緑がせめぎ合う色が浮かぶ。



「俺はどうなる。どうすればいい……」

「人類の兵力は常に不足しています」

 シャハリヤが吐いた煙が低い天井へ上っていく。

「私の権限で貴方を王都竜騎兵隊に推薦します。もう一度空を飛んでください」

「俺にはもう無理だと言ったら?」

「“錆の爪”の竜墓で人骨を見ましたか?」


 ヴァイカーは口を噤んだ。

「私欲のため勇者の竜を起こそうとした者は今までにもいました。彼らの末路がそれです。貴方はひとのために戦ったから“錆の爪”が認めた。傷が治っているでしょう?」


 シャハリヤは布団の下のヴァイカーの脇腹を指した。服の裾から手を入れて確かめると、内臓まで到達した傷が小さなかさぶたしか残っていない。


「ドラゴンライダーは契約した竜の魔力によって病や傷を治癒できます。上空の寒さや酸素の薄さや重力に耐えられるのも常に竜から力を分けられているからですよ」

「竜の恩恵、か」

「代償だと言う者もいますね。役立たずな脆い人間の身体を最強の竜種に乗せる代わりに、竜に相応しい戦士として作り変える。本当に使役されているのは人間と竜どちらか、などと」

 シャハリヤは微笑した。


「“錆の爪”に殺されないように、貴方自身を勇者だと思い込ませてください。彼女は人類の切り札になる。戦い続ければ本物の英雄になれるかも」

「望まれるまま勇者を演じろってか?」

「全てのドラゴンライダーがやっていることですよ。ヴァイカー」



 紫煙だけを残してシャハリヤは去っていった。

 ヴァイカーが寝台から這い出し、壁伝いで進むと、廊下にいたナグルファリが目を輝かせた。

「終わったのね。王国に戻るのでしょう。凱旋パレードはするの? 皆貴方を見たがるわ」

「今は国が貧しいからパレードはなしだとさ」

「私たちが救った国が何て有様なの」

 ナグルファリは肩を落とす。



 廊下の向こうから足音が聞こえた。三角巾で片腕を吊った団長が部屋の前で立ち止まった。

「お前だけ個室で美人の看病付きか」

 ナグルファリが怪訝な視線を向ける。

「このひとは誰?」

「こっちで世話になってた」


 ヴァイカーは団長の前に進み出た。鼻の一筋だけでなく、全身に真新しい傷がある。

「団長……」

「まどろっこしい話はナシだ。軍に戻るんだろ」

 彼は遮るように負傷していない方の手を振った。

「あの英雄からうちに話をつけに来た。酒場の看板に『シャハリヤも常連』って書き加えておくか」

 ヴァイカーは俯いた。


「団長、休職にしといてくれないか。今までの借りはそのとき返す」

「馬鹿言え、追放処分で除名だ」


 団長は鼻の古傷を擦る。

「うちは王都に竜の死骸を降ろしてんだぞ。ギルド『傷の大鷲』って言えば墓暴きもやる山賊集団だって名乗るようなもんだろ。文字通りお前の経歴に傷がつく。野良の魔物狩りでもやってたことにしとけ」


 ヴァイカーは深く息を吐き、表情を作った。

「泣いて逃げ帰る場所はねえってことか」

「当たり前だろ。お前が帰るときは空の魔物が根絶されたときだ。そうしたら、俺たちの仕事もねえよ」

 団長がヴァイカーの肩を強く叩いた。


「ナットにだけは声かけてやれ。奥の病室で寝てる」

 ヴァイカーは一礼してその背中を見送ってから廊下を歩き出した。



 寝台が四つずつ並ぶ病室には血膿と薬品の匂いが立ち込めていた。

 窓際の寝台で寝ていた青年が身を起こし、火傷痕が残る顔で笑う。


 ヴァイカーは彼の右脇にあった椅子に腰を下ろした。

「ヴァイカー、王都に行くんだよね」

「ああ、お別れだ」

「もう戻ってこないの?」

 青痣が残るナットの左目の純粋な眼差しからヴァイカーは目を逸らす。


「王都に戻るんだよ。いつまでも地べた這いずってるつもりは元々なかった」

「うん、ヴァイカーはこんなとこにいる奴じゃないってずっと思ってたよ」

 ナットは屈託なく笑う。


「竜騎兵になるんだよね。すごいな。きっと本物の勇者みたいになれるよ」

 空にいた頃、こんな視線を数え切れないほど受けてきた。届かない空に行く者への憧れを込めた無邪気な感情に、ヴァイカーは舌打ちした。


「俺は空にいるのが好きだし、得意だからやってただけだ。魔物がムカつくから殺してる。弱い奴らを助けたいとかひとのためになることをしたいとかそんなのは欠片も思ってねえ。あるのは技術とプライドだけだ。勇者なんて冗談じゃねえ」


「そんなことないよ」

 ナットは言った。

「ヴァイカーはいつも僕の右側を歩いてくれてたじゃないか。技術とかじゃない。そういうところだよ」

 ナットは潰れて白濁した右目を歪めて微笑んだ。


 ヴァイカーは布団の下のナットの腹を押した。

「うえっ」と、間の抜けた悲鳴に呆れて笑う。

「とっとと治せ。お前が餌やってる酒場の裏の猫が飢え死にするぞ」

「バレてた?」



 ヴァイカーは立ち上がり、寝台の間を抜けて病室を出た。

 扉の木枠に手を触れたとき、ナットの小さな声が背中にかかった。

「死なないでね」

 振り向かずに手を振る。

「誰が死ぬか。せいぜい空でも見とけ」



 病人や怪我人の呻き声と薬の匂いが漂う廊下を抜け、出入り口の扉を押す。


 夜明け前のスラム街は灯りが何もなく、黒から藍色に変わり始めた空の端に崩れかけたバラックの輪郭がぼやけて見えた。


「行くのね、私の勇者?」

 冷えた夜風の中でより冷たく見える真っ白なナグルファリがヴァイカーを見る。

「ああ、王都に行く。人類を救うためにな」

「やっぱり貴方が本物の勇者だわ」


 鋼のように熱のない腕がヴァイカーに絡みついた。

「今まで貴方を騙る奴らがたくさん来たのよ。全部殺してきたわ。嘘だってわかるもの。今まで貴方はどこで何をしていたの」

 白い指先の爪だけが錆のように黒い。今までどれほどの俺の同類がこの爪に裂かれてきたのだろうと、ヴァイカーは思う。


「ずっとお前を探してたんだよ」

 緑の瞳が歓喜で歪む。この竜の炎のような輝きはないが、自分の目も緑だったとヴァイカーは思い出す。

 空中騎兵隊を辞めてから無意識に鏡や水面に映る自分の顔から目を背けてきた。



「ねえ、勇者。ごめんなさい。長く眠り過ぎていたせいだわ。貴方の名前が思い出せないの」

 ヴァイカーはナグルファリに絡みつかれたまま一歩足を進めた。

「ヴァイカー、ヴァイカー・アトキンス」


 地平線から昇り出した太陽が、空とバラックを焼き払うような灼熱の赤で輝いた。

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