勇者の竜と墓暴き

 鉄錆の味となめくじのようなぬるりとした感覚が喉奥から這い上がってくる。


 ヴァイカーは血を吐いて膝から崩れた。舌を出してえずく。鼻からも生温かい液体が伝い落ちた。

 手のひらに溜まった血が黒い。消化器が傷ついたサインだと騎兵の頃に教わった。



 火薬が爆ぜる音がして瓦礫の破片が散った。

 団長が煙が尾を引く銃を下ろし、ヴァイカーに駆け寄った。

「敵は……どうなってる……」

「もう喋るな、止血する」

 腹を抑える手の重圧にまた吐き気と痛みがせり上がった。


「嘘だろ、ヴァイカー! 何で……」

 ナットの悲鳴じみた声に団長が短く答える。

「俺たちを庇った」


 冗談じゃない。ヴァイカーはそう絞り出したが細い息が漏れただけだった。

 まずふたりを突き飛ばし、自分の攻撃範囲から弾き出す。剣を抜き、捻った半身を戻す勢いを刃に乗せる。反応する暇を与えない一撃が、俺ならできたはずだった。



 闇を塗り替える白煙が立ち込める。

 砂埃に悲鳴と肉を砕ける水音が混じって響く。

 団長がヴァイカーの腹を抑えながら、片手で射撃した。石壁に跳弾する音に舌打ちが次ぐ。

「待ってろ、すぐ戻る」

 腹が軽くなり、銃声が二度聞こえた。


 霞む視界で白煙に火薬の光が明滅する。陽光の白と炎の赤。あのときと同じだ。


「邪魔をするなよ」

 喧騒の中で男の声がする。

「竜は魔物だ。人間の勇者の乗るべきじゃない、魔物の中の英雄にこそ相応しい」



「くそったれ……」

 ヴァイカーは目の前にあった突起に縋って身を起こした。冷たい側面を手でなぞり、腕力だけで這い上がる。

 ぐらついてもたげた頭の真下に白い肌がある。

 棺を覗き込む形になったヴァイカーの血が一筋伝い落ちた。



「勇、者……?」

 銀を打ち鳴らしたような高く細い声がした。

 血に塗れたヴァイカーの頰を冷たい指が撫でる。

 髪も肌も服も真っ白な女の唇だけが赤い。


 女は唇を濡らした血を舐めて婉然と微笑むと、ヴァイカーの首を引き寄せた。前髪で隠れた女の左目から光が漏れる。

「信じていたわ、私の勇者。貴方が死ぬはずがないもの。ずっと私と一緒だと約束したものね……」



 朦朧とする意識の中で、緑色に輝く眼光だけが鮮やかだった。

 ヴァイカーは煙幕の向こうを睨む。

 男の姿をした魔物はまだ気づいていない。

「あいつが、勇者でたまるか……」


 喉に血が張りついて声が出ない。ヴァイカーは吐き気を堪えて血ごと唾を飲む。

 震える手で首筋に回された女の腕に触れた。

「あぁ、迎えに来た……」

 ––––この竜の名はもう知っている。


「ナグルファリ、俺が勇者だ……また力を貸してくれ」

 視界が爆ぜた。




 広がる白は太陽でも炎でもない。巨大な化石の骨組みに透き通る薄い皮と膜を張ったような奇怪な竜だった。

 竜は翼を地に触れせ、身を屈めてヴァイカーに傅く。

「さあ、私の勇者。昔のように命令を」


 激痛と嘔気が消えていた。

 鮮明になった視界で、遺跡の至る所に飛び散った血肉と武器の破片が輪郭を帯びてくる。

 煙の先にナットを吊り上げて鉤爪を構えた男の姿があった。


「ナグルファリ、あいつを外まで弾き出せ!」

 ヴァイカーが地を蹴って背に飛び乗った瞬間、竜が加速した。



 月が近い。

 夜闇が周囲を染め、冷えた空気が全身に貼りついた血糊から水分を奪う。


 耳元で劈くような鳴き声が響いた。

 ヴァイカーを乗せて一瞬で壁を突き破り、遺跡の外へと飛翔した竜が、ひび割れた砂色の翼の魔物を鼻先で空へと押し上げていた。


 竜は速度と高度を上げ続ける。

 魔物が鋭く叫び、翼の両端の鉤爪を構えた。


「一旦離れろ、来るぞ!」

 ヴァイカーの声に竜が首を振るい、空中に投げ出された魔物の爪が頰を掠めた。


 急に半円を描く旋回をした反動で竜の身体が軋む。錐揉み状態に耐えようとする振動だ。

 竜の横顔が張り詰めて見える。ヴァイカーは首に回した手を軽く叩いた。


「無理に戻ろうとするな、速度を落として上下に飛行しろ。そのまま全円を描いた旋回に移る」

 覗いた牙が口の中に仕舞われる。はにかむ仕草だとわかった。


 竜が速度を落とし、緩やかで小刻みな上昇と下降を繰り返す。錐揉みの危険を打ち消すための動作だ。

 船乗りの櫂の動きを想像しろ、と軍でよく言われた。



 視界の隅に影が映る。邪魔者を排除して軌道を確保するのが騎兵の仕事だ。

 右斜め後ろから追い上げてくる魔物との距離を目視で測る。届くと思った瞬間、ヴァイカーは腰に帯びた剣を投げた。

 銀の光が斜めの直線を描き、鋭い悲鳴が上がった。



「流石ね、私の勇者。昔と変わらない」

 竜の喉から笑みを含んだ女の声がする。

 風の重圧を全身に感じた。乾いていく血が熱を奪ってさらに冷えたが不快ではない。

 あの頃と同じ重さと温度だ。



 ヴァイカーは後方を垣間見て、竜に旋回を命じた。

 砂色の魔物が羽ばたくのが見える。

「石に近い材質の翼と鋭い鉤爪、ガーゴイルだな」

「ええ、人間に擬態できるのは知らなかったけれど」

 竜が楽しげに言った。

「どちらにせよ、私たちの敵ではないでしょう?」


 懐かしい言葉だ。ヴァイカーは雑念を振り払う。

 今、身体の下にあるのは柔らかな獣の腹ではない。硬い骨の凹凸を伝える竜の背だ。

「当たり前だろ」



 敵は前方との距離は三千フィート。グリフォンのフットの幅から名付けられたこの単位を思い出すのも久しぶりだった。

「私の方がずっと速いし大きい。このまま堕としてしまいましょう」

「駄目だ」

 竜が不満げに喉を鳴らす。


「何故?」

「俺たちの方が強いからだ。接近して捉える寸前で防御のために急旋回されたら奴の軌道から大きくはみ出すかもしれない。奴の方が小回りが効く分、背後を取られると形成逆転が難しい」

「では、どうする気?」

「上から行く」


 ヴァイカーの声に竜が上昇した。風圧には竜にぴったりと身を寄せて耐える。

 ガーゴイルがこちらの挙動に気づいて速度を上げた。


「焦るな、ナグルファリ。まだ奴の旋回軌道の範疇だ。背面姿勢で追尾するぞ」

 竜を宥めながらヴァイカーは思考を巡らせる。

 腐竜アジ・ダカーハは炎ではなく、毒ガスを吐く。地上に滞留したガスはまだナットたちが残る遺跡にも届くだろう。

 ––––できるだけ引き剥がす。



 ヴァイカーの思考を読んだようにガーゴイルが方向を変え、遺跡の方を目指して飛び始めた。

「くそったれ」

「あなたらしくないわ、勇者」

 毒づいたヴァイカーを竜が諌める。聞こえないように舌打ちしてから敵を睨んだ。



 ガーゴイルの尾が遺跡の壁を掠めて石つぶてが散る。

 目潰しか、人質の場所を示す牽制のつもりだったのだろう。

 ヴァイカーは割れた石壁の間から突き出す細い棒を見留めた。


「野郎、墓穴堀やがったな」

 ヴァイカーは口角を吊り上げた。

「ナグルファリ、遺跡に近づくとき一瞬速度を落としてくれ。やれるか?」

「ええ、従うわ。私の勇者はいつも正しいもの」

 竜は身体を翻し、遺跡の壁に触れそうなほど近くを飛ぶ。


 ––––まさか、間違ってばっかりだ。

 壁の裂け目が近づく。手を伸ばす。

 通り過ぎる一瞬でヴァイカーは瓦礫に埋もれていたマスケット銃を掴み取った。火薬の袋と銃を点検する。幸い故障はない。



 ガーゴイルは低く這うような飛行を続けていた。

「よし、速度を上げろ」

 ヴァイカーに答えて竜が加速する。砂で固めたような翼が徐々に近づく。


 ––––奴は遮蔽物の多い森には入れない。木々を焼き払える咆弾ブレスを持つ俺たちが圧倒的に有利になるからだ。奴は必ず森の直前で切り返す。



 ヴァイカーはマスケット銃に弾と点火薬を装填した。

「ナグルファリ、俺が合図したら咆弾ブレスを頼む」

「よろしいの? 貴方はひとを巻き込むのを怖がっていたでしょう」

 ––––勇者ってのは本当に善良だったのか。

「あぁ、信じろ」

「信じるわ。私の勇者だもの」


 手が震える。

 ––––こいつはいい。俺を勇者だと思い込んでいる。俺はどうだ。俺を信じられるか?


 闇が一層濃くなり、森が近づいている。

 ––––間違えたら遺跡に残した奴らが死ぬ。チャンスは一瞬だ。


 前方のガーゴイルとの距離は二千フィート。飛行する敵の尾がかすかに跳ねた。旋回の予兆だ。


「ナグルファリ、今だ!」

 答えの代わりに天地を揺らす咆哮が響き渡った。

 地面をめくり上げるような勢いで発された白煙が全てを塗り潰し始める。

 無数のガスの手がガーゴイルを捉える。ヴァイカーは銃を構えた。

 ––––俺なら、できる。

 引き金を引いた。



 赤い火の粉が細い線を描いた。

 次の瞬間、炎が炸裂した。


 爆風と爆炎が木々を薙ぎ倒す。根こそぎ千切られた木々に混じって、炎に巻き取られるガーゴイルの姿が見えた。

 ガスが滞留して遺跡に流れる前に全て燃焼させてしまえばいい。


 強烈な白と赤が広がっていた。あの日とは違う。

 ––––光と炎はもう、俺の味方だ。



 白い竜が歓喜を表すように翼をさらに広げた。

「倒したわ、私の勇者」

 ヴァイカーはその首に回す腕に力を込めた。

「言ったろ、俺たちの敵じゃない」


 ナグルファリが上昇する。

 月が、近かった。

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