17.「零の血雪」①

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「おかえり、少年」

あの・・声がした。かつての「ボク」を記憶の旅へといざない、導いた謎の声。いくつもの記憶を渡り、この黄金世界へ戻るのは久しかったはずだというのに、不思議と彼女の声は記憶になじんでいた。


「血戦嶽雪花菜」

形なき魂から仮想の肉体が形成され始める。

細く、白く、色つやのある肌。透明感のある爪。次に足の五指が形成され、脛・腿・臀部…と芽吹き育つ植物のように身体が形作られていく。


「———わっ」

魂が身体の外装を疑似的に作り上げるため、筋線維や臓器などのグロテスクなものは現れない。ただ、その下腹部が———正確には、おへそが見えた辺りでボクは背を向けた。


「…服を着てくれ」

不覚だった、というほかない。

身体の形成が物珍しくて・・・・・気づくのが遅れてしまった。


【——別にいいだろう。記憶を見られているのだから今さら裸など———】


肉声。それだけでボクは震撼した。

心にスッと入り込む優しさと心を鷲掴む激しさ。静と動を兼ね備えた声色は例えるならば水そのもの。いかようにも変わりゆくそれは一瞬でボクの心を掌握した。


【———どうということはない——】


反射的に振り返り、衝撃が奔る。

全裸に一枚布をかけただけ。それだけなのにこうも映えるのは、反則的だ。

袖のないワンピースに似た服を着た彼女はとても神々しいものに見えた。


‥それは海より生まれ出た絶世の美女。大きな一枚の貝殻に乗った全裸の美女を二人の神が楽園へと送り出し、それを刺繍入りの薄紅布を持った女が迎え入れる——「ヴィーナスの誕生」が浮かび上がる。


 そこから更にボクの想像力は妄想を含めた次の絵画を創り上げていく。


刺繍入りの薄紅布を新品の白布にすり替えて、ボクはそれを美女の身体に纏わせる。それから「少し待ってておくれ」とそれらしい台詞を述べて、美女をその場に置き去りにする。

美女を送り出した二人の神がその場を去った頃になると、美女は海へと戻っていく。理由は「もう一回貝殻に乗ってみようかしら」とか、そんなところで良い・・・・・・・・・

とにかく美女は誰もいなくなった海に戻り、自分が乗ってきた貝殻にもう一度足をかける。「わーすごい」なんて感想を漏らしながら美女を乗せた貝殻は海上を進み始める。あまり行き過ぎてしまうと先程の二人の神が戻って来てしまうから、彼らが来ない程度に楽園から離れた頃合いにしよう。


「ヴィーナスの誕生」というから時間帯でいえば朝。であれば、そこから海に移った自分の姿を眺めて、うっとりとしている間に昼になっているだろう。

空は薄い雲に覆われ、世界の明度が一段階落ちる。

そうしたころに美女は辺りを見回して「夜にでもなったのかしら?」と錯覚する。それから今まで海面に映っていた太陽を探して空を見上げた瞬間、雲間を突き抜けた光が一線、一筋、一束と徐々に膨れ上がり、美女に降り注ぐ。


そこで「まぶしい」と目を閉じた美女が顔をそむけた瞬間、ボクの絵は完成する。


 誰もいない海面にただ一人。貝殻に乗った美しき女。

 美女を包むのは一枚の純白。それを照らすのは頭上より降り落ちた金光の一束。

 黄金世界に花開いたそれを名づけるとすれば「女神ヴィーナスの覚醒」であった。


【———私の身体なぞ、気持ちが悪いだけだろうに———】


 覚醒。目覚めの時を迎えた美女。

血戦嶽雪花菜のまなこがボクを捉えていたが、まだボクの目は彼女の顔には至っていなかった。

 「かみ」「カミ」「上」「紙」「神」。

「髪」という概念を誤認させる罪深いほどに綺麗な髪。髪色は毛先から頭部にかけて徐々に白から茶へと変わっており、そのグラデーションの趣深さは乳を投じた紅茶を想起させた。


【———意外と君はウブなのだな 】


 そして、今ようやくボクの視線は彼女の顔をとらえた。

深く刈り上げられた左のこめかみ。根本になるほど毛は黒くなり、刈られた一面の黒が妙に視線を惹きつける。アシンメトリによるズレと色のグラデーションが為す流麗さによって、(きっと視覚がバカ・・になったのかもしれないが)神聖さすら感じられた。


【 ん? 聞いているか、少年? 】


 黄昏時のような寂しくも暖かな瞳がボクを見つめた。

ピンと張ったまつ毛に覆われたそれは燦然さんぜんと輝く宝玉。何ものにも侵されない強く真っすぐな魔力を秘めた眼球。そこに宿る光は鋭く猛りながらも穏やかにすべてを見透かしたような余裕があり、静かに力を放つそれはまさに泰然自若たるもの。大いなる自然を相手にしているかのようであった。


「・・・ああ、聞いているとも」


 訂正しよう。ボクはきっと物珍しかったわけじゃない。

 ただ一目、彼女を見た瞬間からボクの心は奪われていた。


性だとか、欲だとか。恋だとか、愛だとか。惚れた腫れたのたぐいではない。ボクは血戦嶽雪花菜をいと尊きものだと、…信仰すらしてしまうほどにときめいた・・・・・のだ。


【 「 こんにちは  」 】


どちらからというわけでもなく、ボクと彼女は互いに息を合わせたように同じ言葉を告げていた。記憶の中の彼らが教えてくれたように、ボクらは初めて挨拶を交わしたのであった。


                   ・


 初めて彼と出会ったのは、偶然にも、私が羊水世界に足を踏み入れた時のことだ。

100年と生きてきて、私以外の誰かがこの羊水世界に現れるなど今まで一度もなかった。ようやく私の理解者が現れてくれたのだと、久しく忘れていた人間らしい歓喜が胸を満たしてくれた。さらには初めて羊水世界のことを母に話した記憶が蘇って、その時に求めていた共有を得られる相手の存在に過去の私が救われたようだった。


 ただ次に感じたものが私に満ちていた歓喜を全て葬り去る。

アスボに話した羊水世界の話の中で、今日こんにちにいたるまで全く真意を見せなかったあの・・存在が少年に牙を剥いていた。

大量の記憶を流し込んで少年の魂を風船のように膨らませ、破裂。穴から噴き出るよりも早く記憶を流し込み、再び破裂。膨張と破裂を繰り返してボロボロにされた少年の魂が、ようやく解放されたかと思えば、あれは少年の魂を粘土のように乱雑にこねて復元させたのである。


—————やめなさい。


少年には悪いが私は試行することにした。

今までにない行動を起こしたあれが、私の意志を汲むものか否か。かつてアスボが予期していたような悪しきものであるかどうかを。


〈——爆竹——蝦蟇——〉

‥代わりに聞こえたのは少年の声だった。なぜそのワードだけが聞こえたのかは分からなかったが、面白い言葉選びに私は思わず言葉を返していた。


「爆竹蝦蟇とは、何とも古風な言い回しだね。他のラプラスに当てられたせいかな」

その直後、あの存在——ラプラスの悪魔は消えた。去り際に少年からコピーした記憶を私に見せつけて…。


「‥‥やられたな・・・・・

私はただ一言。小さく言葉を述べた。


                  ・


「これまでの旅はどうだった。少年」


 まさにラスボスに相応しい台詞だった。

木剣とわずかな資金から始まった主人公が幾多の冒険を経て辿り着いたのは魔王の城。すべてを経験した勇者と、勇者となる主人公を見続けてきた魔王。その関係性はまるで親子関係のようであり「見続ける」が「見守る」であったとしても何ら支障はない。

王の間において相対する両者。善と悪ではなく在るのは二つの義。勝者のみが正しき義。一度も死なない、という縛りプレイによって初めて現れる特殊演出は、魔王から贈られるただ一つの問いだった。


「あ…お前は、ボクの母親のつもりか」

貴方、と呼びそうになる口を抑えながらボクは少し乱暴な返事をする。

すると、意外にも彼女は「‥‥確かに」と儚げな表情を見せた。


「…悪くはなかったよ」


初めは成り行きだった。

気づいたら知らない海にいて、「行ってきなよ」と知らない誰かに背を押されて、海に突き落とされるように始まった航海。


 子ども、女学生、男、少女、女、AI。

訪れた島で出会った住人たちは、無限の生を与えられた世界で確かに生きていた。


 目的、生き方、意義、欲、停滞、継続。

各々の本能と理性に向き合いながらも営みを続ける「かれら」とボクは、やはり違う。無限と有限という区切りは変わらず、彼ら・・には生きる上での「終わり」を意識することはない。しかも労働なき世界であれば、この死生観の違いは一つの余裕となってくる。要はゲームの無敵アイテムを使ったようなものだ。自信ありげな彼らは——美しさはどうであれ———きっと輝いて見えるだろう。


 ‥‥けれど彼らとボクが全く違う、というわけでもないらしい。


輝かしい青春を求めた女学生と怠惰な女が教えてくれたように、生きていく上でも「飽き」が生まれる。初めは傲慢だと感じたけれど、それが彼らにある余裕の弱点でもあり、ボクにもあるのかもしれない生の飽和だ。「かもしれない」というのだから、きっとそれは確定したものではないけれど、ボクとの共通点があるという可能性は確かにあった。


 同じ人間なのに違う生物のように感じた「かれら」。

 彼らをそのように軽蔑していたかつての「ボク」。


分かり合えない、通じ合えないと差別されて、自己嫌悪し続けたボク。

まるで自分が人間ではないようで、人間の皮を被った別の生物で、もしくは流転するボクの魂が「人間」を経験するのが初めてで‥‥とかく、様々な理由をつけなければ形容しがたいほどにボクは人間達が嫌いで、恐ろしくて、怖くて、臆病だった。


「知りたいとか、頑張ろうとか、分かり合えないとか、間違えたとか、面倒だとか、気持ち悪いとか…色々ありすぎて一言では言い表せないけれど…」


でも、と息継ぎをしてボクは魔王——先代の旅人を見つめる。


「いい経験にはなった…と思う」


なんだそれは、と返されても仕方のない答えだ。

けれど、魔王が勇者を知っていたように勇者も魔王を知っている。

異なる正義であろうとも互いが歩んだ道に共通するものは確かにあって、きっとこれだけの言葉で理解してくれると、ボクは彼女を信じたのだ。


「そんな風に見つめられると…恥ずかしいな」

ハハハ、と妙に貫禄のある声を上げた。

いかにも笑い慣れていないような笑い声。もしくは心から笑ったことが少ないのか‥。


「でも、そうか。「いい経験」か。学べる何かがあったのならば私も君を送り出した甲斐があったというものだ。私が初めての旅を終えたころには「共有」できる者がいなかったから…君の感想は純粋に嬉しい」


 ところで、と宙にもたれながら彼女は、もう一つの問いを唱えた。


【 私の世界を‥‥その、どう思う? 】


「ああ‥」

嗚呼と、つい声に出してしまえるほどに彼女の問いは切実なるものだった。


さっきの問いは前座で、本命はこちらだ。

そもそも彼女がボクを送り出したのは、ボクが彼女と同じラプラスの海の特異点であり、遅延成長体であり、精神と体で異なる時計を持っているからで、彼女が本当の意味でボクに求めたのは、自らと同一になりえる存在からの言葉。


 自らの母に、誰かに「共有」を求めた少女。

 自らの愛するものを失わないために「永遠」を求めた少女。

 自らのエゴを理解しながらも「永遠」を完成させた少女。


それら少女の果て。一世紀を生きた神人かみびと(ボクが勝手にそう名付けた)が求めたのは、信じてくれたのはボクだった。

光栄なことに、残念なことに、それは「ボク」だったのだ。


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