■■■ 断章:「零」/後編③ ■■■


 それから西暦2555年。

 一つの知らせが黄金世界に引き籠っていた私の元へと届く。


「 きらずちゃん おちついてきいて アタリさんが———タオレタ 」


絶望した明日歩の顔を見て、私は一度「これは夢なのだ」と現実逃避した。

何も考えられず、何も言葉を返せなかった。頭の中が真っ白になって、心の真にあった支えが無残に砕け散っていく。


「お父様…」


身体を乗っ取った過去の自分が私の口を動かした。「アクセイシュヨウ」「マッキ」というアスボの言葉が私の耳を通り過ぎる中、一つの熱い衝撃が私を現実世界へと引き戻す。


「行くんだよ! 雪花菜ちゃん!」


頬を抑えながら私は歩に連れられて部屋を飛び出した。「どうして、こんなに頬が熱いのだろう」と、通りがかりに見かけた鏡を見ると、私の頬は少しだけ赤く腫れあがっていた。


——————これが痛みか。

生まれて初めて感じた真っ当な痛みが、不思議と私を奮い立たせた。

生きなくてはならない。現実に立ち向かわなくてはならない。

その時が来たのだと身体が、心が。今まで出会った記憶達が叫んでいる気がした。



                  9


「よぉ~」

アタリが言葉を発したのは私とアスボが病院に急行してから10日後のこと。

一緒に見舞いに来ていたシーラが席を外した時であった。


「ヒトシーが見えたぜ」

酸素マスク越しに聞こえた男の声は台詞に似合わず弱々しいものであった。


「‥元気にしていたか?」

「あ~今の俺よか元気そうだったな」

薬で消えない痛みが痒みとして現れるのか。咫狸は無意識に首元へと手を当てるが手に装着されたミトンがそれを阻み、不快そうな声を漏らす。


「首か?」

「ああ。すげぇ痒いんだ。瘡蓋ができたみてえにな」

保湿クリームを首元に塗りながら私は咫狸の生を実感する。


————思えば、今までアタリとこうして触れあったことは無かったな。


父と母、シーラとアタリ、アスボとアキト。

談笑し、笑い合う彼らの姿を私は忘れないようにと何度も思い出し続けてきた。他のいかなる記憶を忘れようとも、この記憶だけは決して忘れないようにと何度も頭の中で繰り返してきた。


 遠い記憶だ、と思うと同時に年をとったのだなと私は痛感する。


「よくアタリには頭を撫でられたな」

乱雑に、と意図せず自分の口から出た言葉に私は驚き、反射的に口元を手で覆っていた。昔の記憶を思い出したせいか。感傷とノスタルジーが私の心を幼くさせていた。


「こたえは出たのか?」

私を見上げるアタリの目は焦点が合っていなかった。私よりもその先にある天井を見上げているような遠くに行ってしまいそうな目をしていた。



「—————私は‥‥どうすればいい?」


そんなアタリを引き留めるように少女の私は咫狸の腕を握り、項垂れた。

私の過ごした五年は完全なる徒労だった。逃げた先の、問題を先延ばしにした後の答えを私はとうとう見つける事は出来なかった。


「わたしはみんなと一緒にいたいだけなのに…」


掲げた「永遠」なぞ私のエゴだ。

ただ私が愛し、私を愛してくれる皆を失うのが怖くて言い出した子どもの我が儘だ。

誰も失いたくなくて/独りになりたくなくて。ずっと停滞を望んだ怠惰な私の欲望だ。


「でも、私がおくびょうなせいで…皆が消えていく」


欲望だらけの「永遠」を前にした私は、自分が為そうとする事の重大さに気づいた。事の始まりは、あの天才たちが創り上げたラプラスシステム。私の想像が現実となることへの恐怖だった。

‥ただ懸命に走り続けてきた道が実は全く間違った道ではなかったのか。

そう思って今までの歩いてきた道を見渡すと、それは真っ暗な荒野であった。

陽の光も星の光もない真っ暗な道。未知に満ちた道を私は無謀に走り続けていた事に気づく。


「だから私は…私は…」


暗い夜道を一人で歩くことは出来ない。

きっとそうなってしまえば私は孤独に殺されてしまうから。


「でも…でも…それは悪いことだから」


 自らの身体を犠牲とする。

稀有な身体を持つ私からすれば、それは恐ろしい事であった。

私にはそれが出来ない・・・・・・・・・・からこそ、それを人類に強制させることに私は強い反発を覚えた。神がかった力をもった英雄の如く我先にと戦場を突き進み、兵士を導く存在であったならばこれほどの悩みはない。だけど、少女の皮を被った私が「おねがい」のために兵士たちを死地へと向かわせるのは横暴で、愚かで、とても卑しい行為で…端的に言えば、ずるいのだ。私は。


「誰が決めた。そんなこと」


鋭い声。次に手を引かれた感覚があり、身体が僅かに浮く。驚いた私は目を瞑り、そして気がつけば私は咫狸の胸の中にいた。

「げほ…!」

変な体勢から無理やり引っ張ったせいか咫狸は激しく咳き込んでいた。


「咫狸…」

「いいか。よく聞け。血戦嶽雪花菜」

酸素マスクもミトンも外して、髪をかき上げた咫狸。

その目には惨めに涙をこぼす私の姿がはっきりと映り込んでいた。


「俺は…良くも悪くも自分の力ってのを理解してる。自分のできる・できないってのが何となくわかるんだよな。結婚なんてとうの昔に諦めてたし、子どもの面倒を見るなんて人生で一度もぇと思ってた…まあ、まさか義娘を持つことになるとは思いもしなかったな。ガキの御守をするなんて微塵も想像してこなかったからな。」


 ハハ、と男は力なく笑う。

有頂天はずれ。会ったのは一度だけであったが、真の通った娘であったことはよく覚えている。


「俺は何かを生み出せる人間じゃねえ。自分を託せる奴に尽くしてきただけだ。

初めはアキトーと二人で「日本を変えよう」だなんて言い合っていたし、ヒトシーが作りたかった世界——「希望ある新世界」も…まあ、それも夢半ばに終わっちまったが、それでも俺は楽しかった。俺には出来ない事をやろうとする奴を見て、一緒に何かをやれる。ただの自己満足かもしれねぇが、それでも俺は「面白れぇ」と思えれば何でもよかったん—————げほっ!げほ!」


痰が絡まったような激しい咳をする咫狸。

薬液と患者衣から香る洗剤に混じった血の臭いが私の鼻腔をビクつかせた。


「難しいこたぁ言わねぇ。ただ…好きにやれ。すぅ~…恐れるな、怯えるな、やりてぇことを腐らせるくらいなら早くやっちまえ。はぁはぁ…それが悪いか善いかなんて誰にも決められやしないし、何もしなかった奴に決める権利はねぇよ。よくも悪くもこの世の大体はやったもん勝ちさ。それに…よ、エゴで何が悪い…自分勝手で何が悪い。全を活かすために個を殺すなら、全を変えるために個を‥‥貫き通せ。立ち止まったとき、困ったとき‥‥いまみたいにどうしようもならなくなったらよ‥‥」


瞳の私が揺れ、世界の均衡は崩れ始める。

計器の音が鳴り響き、いつの間にか戻っていたシーラが「有頂天咫狸!」と叫ぶのが聞こえ、振り返ると明日歩や秋人、母の姿があった。


「そのときは…?」

きっと誰もが咫狸の名を呼んでいたのだろう。

けれど、不思議なことに私の耳は、目は、意識全てが咫狸の一挙一動を捉え、行動の全てがスローモーションに映っていた。


これが最期の言葉だ、と魂が分かっていたようだった。


「あいつらの‥‥曲でも…聞いとけば————いいんじゃねぇ‥かな」



               ——・——



 西暦2555年。有頂天咫狸、死去。享年78歳。

血戦嶽仁の秘書として長年付き添い、新世界日叛にほんの礎たるAI社会を築いた影の仕事人。AI技術省の初代大臣として明日あすすわるを推薦し、その息子明日歩の天才ぶりを世に知らしめた男。そして、血戦嶽雪花菜の日叛新生に大きく貢献した偉人として後世に語り継がれている。


・・・なお、彼がプロデュースしたAI/Doll’sは脅威的な人気を誇り、現在の2621年まで活動中。四年後にはデビュー100周年を迎える。


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