8.「紫雲」②


駅の改札を抜けて、男とボクは電車に乗った。

初めての無賃乗車がこんな形で叶うとは、思いも寄らなかったが、それを咎める駅員がいないのだから仕方がない。


「———どうして死ぬのですか」


電車が動き出した所で男に尋ねる。電車内には男とボク以外に誰もおらず、ほぼ無人の空箱を無機質なアナウンスが通り過ぎていく。


「生きるためだよ」


‥どこか齟齬そごがあるように感じたため、ボクは言葉を変えて尋ね直す。


「貴方は…死にたいのですか?」

「ううん。俺が死ぬのは「生きるため」だよ」


けれど、男は不思議そうな顔で同じ言葉を繰り返すだけで、

どうして同じことを聞くのかと、そんな具合に首を傾げていた。


「…訳が分かりません」

心からの言葉であった。


「‥そうだな。言い換えるならば「より良い生」のためだね」

「より良い生?」


彼女の言った『生の謳歌』に近しいものかと思い、ボクは言葉を繰り返した。


「そう。例えば‥‥より良い食を迎えるには空腹であることが必須だろう?

だから、より良い生を迎えるためには【より良い死】が必要なんだ」


さらに、男は話を続ける。


「初めて死んだとき――ああ、これは単なる事故だけど――朝日が綺麗だったんだよ。今まで何度も見てきて、飽きすらも感じなくなった朝日に俺は心底感動したんだ。快眠した朝よりも開放的で、セックスを終えた朝よりも快感的な…そんな朝だったな――――――・・」



‥‥暫くして、勇者は初めての冒険をこのような形で締めくくる。



「・・—————飽和した世界の全てが素晴らしいものに思えたあの瞬間、俺は初めて自分が生まれたことを実感したんだ」


それから気恥ずかしそうに数回咳払いをした後、

男は「…とにかく。俺が死ぬのは生を再確認するためなんだよ」と言葉を零したが、既にボクの興味は失せてしまっていた。


…食欲を溜め込むことは出来ても、せいを留めることは出来ない。


「‥‥それなら、良い方法がありますよ」

「本当かい? ぜひ聞かせてくれ」


暗いボクの声とは対照的に男は活気に満ちた声でボクに問い詰める。

…これではどちらが年上・・なのか分かりもしない。


「———自らのデコイを破棄することですよ」


簡単なことだ。

本物の【死】に触れたいのならば、死に近しい状態に戻ってしまえば良い。

ボクは大そうな笑顔を浮かべて男に教えてあげた。

容姿通りの明るい声を喉から絞り出して‥。


「な———」


男が初めて表情を崩し、新たな興味がボクを高揚させる。

普段余裕ぶっているかれらが見せる本性こそ彼らに残った〝人間性〟とも呼ぶべきモノ。彼らと「ボク」との数少ない共通点だ。

…ボクだって、共通のものが話題に上がれば、聞き耳を立て、浮足立ち、期待もする。


 だけど。ボクは知っているのだ。

 身勝手な期待ほど救いようのない我が儘はない。

 「ボク」をすくえるのは「ボク」だけしかいないのだ。



「———何を馬鹿なことを。そんなことしたら、もう死ねないじゃないか・・・・・・・・・・・



時が静止する。

男の放った言葉が空間すらも凍てつかせたのか、車内には冷たい沈黙が充満し始めていた。


〈———次は———駅〉

それに耐えかねたのか、塞き止めていたものを吐き出すように乗車口が開き、アナウンスは無機質に駅名を告げた。


「‥時間か」

小さく呟くと、ボクは男を横切って乗車口へと向かう。

…終礼の鐘が鳴れば、生徒は決まって帰宅するものだ。


「‥‥何か答えてくれよ」

男が言葉を求めた。「待ってよ」とお菓子売り場に置き去りにされた男の子が連想され、ボクは足を止めていた。


「‥‥」

ホームに踏み出した足を戻し、ボクは男の方へと振り返る。

その一秒にも満たない刹那、ボクの中には様々な感情が渦巻いていたが、最後にチラついた「紫」によって、ボクの出した答えは至極単純なものとなってしまう‥。



「…貴方は、死にたがり・・・・・なだけなんだな」



侮蔑ぶべつ。それのみである。


「さようなら」

ホームに降り立つと同時に扉は閉じ、男を乗せた電車は遠い所へと行ってしまった…。


               ・


コツリ‥コツリ‥と。

大きな足音を立てながらボクはホーム内を徘徊する。依然として人の姿はない。

「~♪」

ようやく見つけた階段を鼻歌まじりに上っていき、大きく伸びをしながら改札口をすり抜ける。改札口正面には南北に分かれた通路があり、駅の反対側へと通じる北側の通路へと進むことにした。


「眩し…」

少し進んで、線路上にある通路にまで差し掛かると、通路の右側――東側の窓から突然光が差し込み、ボクは足を止めた。それほど強い光線ではなかったので、細めた目をゆっくり開いていくと、


「‥‥あ」


思わず声がこぼれていた。

視線の先には、西から東へと連なる線路の、

そのまた先にある山々から現れた小さな日の出。

‥その光景を目にしたボクの口は、先刻に続く春の文を読み上げていた。




「————紫だちたる 雲のほそく たなびきたる―――」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る