7.「紫雲」①


目の前に一人の男がいた。

黒髪にスーツ姿‥と割と何処にでもいそうな平凡な装いであったが、容姿だけを観れば異性の目を引くレベルには充実している。


「‥‥」


髭はなく、髪は整髪料で丁寧にセットされ、肌のケアにも抜かりはない。

スーツ・ネクタイ、手首にはめられたリストバンド系端末など――よく見れば身に付けている物はどれも高級そうなものばかりで、足元に置かれた革製の靴やビジネスバックは新品同様の輝きを放っていた。


〈いってきます〉


そう言って、これから出社でもするような恰好で男は宙に浮いていた。

1mにも満たない小さなそらの上で男は静かに吊られていたのである。



「————直前まで絶食状態にするのがコツなんですよ」



‥ふと目に留まった美術品。

その周りを幾度も巡りながら一人で見続ける観客を〝ボク〟とするならば、

それを影から見守りながら「ここかな‥」とタイミングを計って現れた館長が〝彼〟であった‥。


「はぁ…」


酷く憎たらしいと感じたが、その一方でボクの中には懐かしさが芽生えていた。

「そうだ。オマエはそういう奴だったな」と、まるで同窓会で久しく再会を果たしたクラスメイト・・・・・・を前にしているような…そんな気分だ。


「こんにちは。…失礼、「おはようございます」でしたね」


 男——二十代前後――は空中ブランコをしている男と同じような背格好をしていた。唯一の違いがあるとすればスーツや白シャツが新しいものになっており、その証拠に白シャツにはタグが付いたままであった。


「‥‥」


教えてやろう。

微塵の親切心も無かったが、気が散りそうになったボクは自分の首を指差した。けれども僅かに爪先を掠めたあの感触にボクは舌を打っていた。


「おっと、これは失敬。ご指摘どうも。‥‥なるほど。君は赤帯でしたか。

 これは随分と古風なものを付けていらっしゃいますね」


「…その気持ち悪い敬語は止めて頂きたい」


羞恥と苛立ちがボクにこれを切り裂くよう促したが、ボクはそれを言葉の棘に変えることでどうにか踏み止まった。

…少年と彼女が、ボクを憐れんでくれなければ出来なかった芸当だ。


「すまないね。どうも仕事口調が抜けないんだ」

「…そうですか」


男の首元——白シャツと充実した顔のあいだに巻かれた一色——をボクは睨みつける。ラプラスシステムとデコイによる転身(または転生)によって、肉体年齢による上下関係が無くなった実力の世界で唯一つ人を測れるもの・・・・・・・——死んだ数を示す帯の色である。



 現在。帯は段階別に分けた五色に振り分けられている。

 

 一度目は「白」。二度目は「黄」。三度目は「緑」。四度目は「青」。

 五度目以降は「黒」。十度目以降になると…



「…「紫」の人でも口調なんて気にするのですね」


2555年より新生した日叛にほんにおける人間の肉体寿命は約一世紀。

そして、現在は西暦2621年。


…つまりは、そういうこと・・・・・・である。



              ・



 チュン‥チュン‥と早起き鳥のさえずりが閑散とした街並みに響く。

冷たく眠った家々を朝焼けが徐々に溶かし始め、早朝に目覚めた者たちは徐々に世へ解き放たれていく。


…誰もいない道ほど素晴らしいものはなく、雑踏とした道ほど悔やまれるものはない。


[春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて——]


――などと「朝焼け」によって連想された平安の随筆がボクの脳内に流れ始める。

当時と違って春は著しく短くなってしまったが、それも着実に時間を取り戻しつつあった。


「う~ん。やっぱり生まれたての朝は格別だな」


ボクの隣を歩く男は大きく伸びをした。無垢な赤子が口にした事ならば、ボクも猫なで声を出して「そうだろう」と応えていただろう。


「死にたて、の間違いでは?」


採れたて、搾りたて、生みたて…と「~たて」に連なる言葉にボクは比較的好印象を抱くほうだ。もしも「きたて」と聞いたのならば、ボクの鼻覚は苦味と渋みと香り高いブラックコーヒーを疑似的に再現してしまうだろう。


「死にたて、か。そう聞くと‥‥とても鮮度が良さそうに思えるね」


狂っている、とボクは再び舌を打つ。

彼らの常識はボクからすれば既に狂っているが、それでもこの男の嗜好しこうは異質であった。


「鮮度と言えば。君はカニバルという方々を知っているかい?」

「…瘡蓋を食べる物だと考えている連中ですよね」


「君は言葉にオブラートを被せるのが好きだね」

「…実際、あれらの起源きげんはそういったものでしょうから」


きっかけは誰にでもある。

かつては血縁者の死から「死」を学んでいたように…あり殺しから「死」を学ぶこともある。


「…きげん‥‥期限・・ね」


男はわざと言葉を繰り返し、それからボクに尋ねた。


「死ぬのって…やっぱり怖い?」


まるで寝たきりの御老人になった気分だったが、男の目を見据えてボクは答えた。


「死ではなく、人間が怖いのは〝終わる〟ことだ」

「俺は「君」に聞いているんだけど…」

「‥‥」


男の返しにボクは即座に肯定の意を示せなかった。

死を怖いと思った経験は確かにある。主観的ではあるけれど——ホラー映画を見終わった後の――得体の知れない何かに盗み見られているような感覚によって、ボクは眠れぬ幼少期・・・を過ごしていた。



ところがだ。

ある時を境に死を恐れる感情の類はボクから消え去っていた。

理由は分からない。

世界の終末を迎えるような日々に精神が参ってしまったのかもしれないし、

どこかで聞こえた歌のワンフレーズにさとされてしまったのかもしれない。


‥ただ、あれほど苦しめられた死への恐怖に代わってボクの中に芽生えた考えは「一つの感情に費やす時間を『勿体ない』と憂うこと」だった。


   だから要するに。男の求めるボクの「死」の恐怖というものは‥


「ワカラナイ」


‥これに尽きなかった。

情けなく答えたボクの脳裏を、屋上で揺れていた黄髪が流星の如く流れていく。


「‥‥君は見た目に反して随分と達観しているね。何歳なの?」

「17」


男を見上げることもなくボクは正直に答えた。


「ははは! だとしたら君は随分と勘違いされそうだな。

外見だけで言えば、君は6歳の男の子にしか見えない・・・・・・・・・・・・・・・のだから」



〈そんなこと、帯さえなければ分かりませんよ〉



…などとボクは絶対に口にはしない。

それは新世界を認める言葉。肉体ではなく帯――つまりは精神だけを見るようになってしまった世界を肯定する言葉だ。一度しか死ねないボクが、有限の身であるこのボクが、それを決して口にしてはいけない。


「そうですね——」


だから、あえてボクは男にこう返すのであった。

その幼い手を夜の暗さ残る暁の空に照らして‥。



「――早く、大人になりたいです」


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