6.「学生」②
「…長く生きているとね。時折考えることがあったの」
教室に荷物を運び終え、彼女は階段を上り始める。エレベーターを使わなかったのは人目を避けるためか‥もしくは人込みが嫌いなボクを気遣ってくれたのかもしれない。
「『どうして楽しい時は終わるんだろう』
『どうして長生きすればするほど人は苦しくなっていくんだろう』って…。
私たちは幸せになるために生まれてきたはずなのに…」
かれらが抱く〝幸せ〟とは優美で尊く、ありきたりにして時に残酷だ。
巨万の富も、穏やかな平凡も、一夜を過ごせるだけの衣食住も、当人にとっては等しく幸あるものなのだから。
「『生を謳歌する』。あの御方の言葉に私は救われた。
二度目の生なんて
初めてランドセルを背負ったようなワクワク、見えない明日を迎える怖い楽しさ―――胸の中の熱が再び燃え上がるのを感じたとき私は実感したの」
「生の謳歌をですか?」
いいえ、と彼女は首を振る。揺れた黄髪から僅かに洗料の香りが周囲に漂った。
「私が本当に求めるものとでも言うのかしら。若さとか情熱とか好奇心とか…そういうのを一括りにしたようなものでしょうね」
「‥ひとくくりに」
ボクは適当な言葉を繰り返す。
コミュニケーションはオウム返しと適切な表情変化で何とかなるものだ。
「ときに、貴方…恋をしたことはある?」
「それはボクには出来ない事だ」
唐突な問い掛けであったがボクは即答した。
誰かを愛すには、まず自身を愛する事を覚えなければならない。
「そう…達観しているのね。でも、これだけは覚えておいて‥」
屋上前の扉に差し掛かると彼女は振り返る。刹那、機会を窺っていた陽光が天窓から流れ落ち、陰陽の双光が彼女の黒帯を僅かに白く錯覚させた。
「頑張れるのは若いうちだけよ」
「‥‥
ボクは初めて彼女の顔を見つめ、それから落胆した。
「・・・飽きないのですか?」
再び黒帯を見つめてボクは尋ねた。嫌味たらしく首に手を当てようとしたが、そこまで自分を陥れる必要性はもはやない…。
「ええ、飽きないわ」
接吻でもするようにボクの顔を抑えて彼女は宣言した。
その指先は自然と両耳にあてがわれ、人差し指と中が両耳を挟むような形となる。指先の感触が心地悪くてボクはすぐさま離れようとしたが、彼女の目がそれを阻む。
繋がる視線の先———瞳孔と焦げ茶色の虹彩はボクに星を連想させる。
クレーターのある小さな星。そこに映る小さくて薄いボクは僅かに揺れているように思えた…。
「本当にもう行ってしまうの? せめて明日までいてくれたら…」
屋上に辿り着くとボクの身体が徐々に揺らめき始めていた。
…ボクの意志ではない。単に時間が来てしまっただけだろう。
「ボクは遊びに来たわけじゃないんだ」
「じゃあ、何しに来たの?」
「それは…」
少し返答に迷ってしまう。あの謎の声に導かれるままにボクはラプラスの海を渡っているだけで、別に確たる目的があるわけではない。
「‥‥頑張りたい、からでしょうか」
がんばる、も便宜な言葉だが流石に無理があった気がした。
「あははは! そっか。…じゃあ、そのまま頑張りなさい」
彼女は笑い、そして初めて会った時と同じように得意げな顔をして見せた。
屋外でみる彼女の黄髪はまるで夕暮れ時の小麦畑を想起させるような神々しさがあり、ボクは初めて彼女の髪を美しいと思えた。
「最後に、一つ良いですか」
「どうぞ」
「貴方は、この世界に満足していますか?」
旧き世界。新しき世界。
二つの世界を生き渡った彼女の言葉をボクは切に望んだ。
「———————ごめんなさい、
彼女は真摯に答えた。
いつかの少年には濁されてしまったが、彼女はありのままに答えてくれた。
「‥‥ありがとうございます。それだけでも十分です」
「本当にごめんなさい。…でも、ありがとう」
「?」
突然のお礼にボクは訳も分からず首を傾げた。
そんなボクを彼女は笑っていたが不思議と悪い気はしなかった。
「貴方のおかげで私も―――
便宜な言葉だ、とボクも笑い返した。
「それじゃあ、さようなら」
背泳ぎの水泳選手
「ええ、さよなら」
屋上から見送る彼女の声が聞こえ、ボクは目を閉じた…。
学び舎とは「自分」をつくる場所だ。心・知・体を育むなかで、人の情に触れて人を知り、時に自分探しをしている途中で自分を見失うこともある…。
個の自分、集団にある自分———様々な『自分』を体験することで、いつしか自己への〝気づき〟を得る。 時にそれは可能性や失望となり得るが、これらの凹凸が「自分」を知る事に繋がる。可能性は自らを広げ、失望は自らを固める。ただ失望による諦めや逃亡は悪ではない。無謀と無知と怠惰こそが最大の悪なのだ。
‥‥しかし、結局のところ学び舎とは小社会。人の世に出る修練場の様なものだ。
卒業と共に生徒等は本当の社会へと赴かなければならない。
「————でも、永遠を生きる『彼ら』に〝卒業〟の二文字は訪れない。
彼らが望んだのは終わらない【青春】の二文字だけなのだから‥‥」
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