2-2「刀匠を継ぐもの」

 翌日。

 平時の当院では、九時から十二時まではバイタルチェック、回診、保清の時間です。

 わたしは同期のメラニーと一緒に入浴介助服へ着替え、煤だらけのマヒトツさんを大浴場に連行しました。逃げようと暴れる風呂嫌いのマヒトツさんを、わたしは長い手足で難なく取り押さえ、アームロックで肩と肘を極めます。


 メラニーがニッカポッカを下着ごとスポンと脱がし、サラシを解きました。


「はいメラニー、わたしごとやっちゃってください」

「メラニーは最初からそのつもりです」


 すかさずメラニーが温水シャワーをたっぷりとマヒトツさんに浴びせます。わたしも浴びます。ああ、気持ちいい。わたしも昨晩の煙が髪やら肌やらに染みついていたんですよね。


「くそっ。針金のくせして馬鹿力め」

「ふふん。看護人形を舐めないでください。当院には代理兵士さんや警備人形さんだって入所するんですから。あなたみたいな引きこもりを押さえるのなんてお茶の子さいさいです」

「メラニーもそいつも、逮捕術、やってます。暴れないほうがいいです。関節、壊れます」

「物騒な病院だ」


 メラニーがシャンプーで橙色の髪をわしゃわしゃすると、煤やら泥汚れやら老廃物やら、もう落ちるわ落ちるわ。

 そしてシャンプーが、泡立たない。動かせども動かせども、メラニーの小さな手は乳化・分散して水と混ざり合った暗褐色の汚れを生み出すばかり。いつもはキッと釣り上がっているメラニーの目尻が、悲しげに垂れ下がります。


「おおう……」

「においから想像はついていましたが、相当ですね……」


 人形はヒトに比べて老廃物の排出量がかなり少なくなるよう設計されています。この汚れ方は一週間や二週間そこらのものではありません。


「マヒトツさん、最後にお風呂に入ったの、いつですか」

「誰が好き好んで風呂なんざ入るか」


 目まいを覚えます。当院にはバンシュー先生を含めて四人のヒトが暮らしています。わたしたち人形はおよそ感染症とは無縁ですが、先生たちを不潔の塊に近づけるわけにはいきません。


「三号庵で寝泊まりする許可が下りたとき、自分の面倒は自分で見るって約束しましたよね」

「風呂は手前ぇの面倒に入らねえだろ」

「ばかな」


 入浴がセルフケアのうちに入らないですって?

 マヒトツさんは作業場に入られることを嫌います。下手に入ろうとすれば金槌を投げつけられるので、戸口から様子を窺うに留めていました。ですが、まさか入浴さえしていなかっただなんて。


「入浴を約束しなかったハーロウの罰点だとメラニーは思います」

「え、メラニーもお風呂は嫌い派ですか?」

「んなわけねえです」


 メラニーはマヒトツさんの髪をわしゃわしゃしていた手をピッと振り、わたしの眼球一センチ手前に指を突き出しました。しぶきがわたしの瞳に飛びました。


「ああっシャンプーが目に!」

「痛え! 暴れんな針金娘!」

「清潔、消毒、殺菌は看護の原則。メラニーが今それを守れていないのは誰のせい?」

「マヒトツさんと入浴の約束をしなかったわたしのせいです! 謝りますから目を流してください!」


 などと、すったもんだの末。

 四度の洗浄とすすぎを経て、ようやくマヒトツさんが綺麗さっぱりになりました。

 服も、ひとまず院内に常備している薄水色の入院着に着替えてもらいました。左目には病院の眼帯を着けてもらいました。


「……落ち着かねえな」

「サラシとニッカポッカはまだ洗濯中です。明日には返しますから。あ、眼帯はどうしましょうか」

「先生に予備を預けてたはずだ」

「すぐに取り寄せますね」


 こうやってまともな服装をして身ぎれいにしている分には、可愛らしい元・家政人形なんですけどね。





 昼食を挟んだ昼下がり。

 患者さんたちはワークショップに参加したり、担当医と面談したり、孤独に何かの作業へ打ち込んだりします。


 バンシュー先生は面談の場所として、いつもの診察室ではなく、体育館を指定しました。

 体育館といっても、バスケットボールのコートをぎりぎり一面取れるくらいの小さな屋内運動場です。

 わたし、マヒトツさん、そしてどういうわけかアンナ看護長が、微妙な距離を保ってバンシュー先生を待っていました。わたし、アンナ看護長に叱られるようなこと、しましたっけ。


 約束の時間から十五分は経過したでしょうか。

 ようやくバンシュー先生が体育館へ現れました。


「やあやあ、待たせたね。マヒトツさん、しばらくぶり。元気そうで何より」

「お待たせいたしました、皆様」

「メラニー、到着しました」


 どういうわけか、エリザベスさんとメラニーを連れて。エリザベスさんは何やら単子葉植物の茎を堅く巻いて筒状にしたものを両脇に抱え、背には木製の台を背負っていました。メラニーは、わたしのお腹の高さくらいまである細身の筒を肩にかけていました。


「メラニーはともかく、どうしてエリザベスさんが?」

「ああ、荷物があってね。彼女に運んでもらったんだ」


 立っているものは患者さんでも使うのがバンシュー先生です。


「こちらでよろしいので?」

「うん。組み立て方はマヒトツさんが教えてくれるだろうからね」


 マヒトツさんを見やると、いつも険しい表情が、いっそう険しくなっていました。


「先生。巻藁なんざ持ってきて、何のつもりだい」

「あなたのことをうちの看護人形たちは知らないな、と思ってね」

「それで試し斬りかい」


 マヒトツさんは左目を覆う眼帯を指でトントンと叩きました。


「オレはだからな。振れねえぞ。先生がやるのかい」


 あはは、とバンシュー先生は楽しげに笑います。


「そういえば刀なんて握ったことないなあ。試しにやってみようかな」


 うーん。話の流れが見えません。

 わたしが首を傾げた様子を見て、バンシュー先生がにやりと嫌らしく笑いました。


「マヒトツさん、巻藁をエリザベスさんに組んでもらって。僕も詳しくは知らないからさ」

「まあ、いいけどよ」


 マヒトツさんが顎をしゃくり、エリザベスさんを促しました。草を堅く巻いた束、巻藁とやらを組み立て始めます。


「さてと。看護A班の諸君。改めて、君たちはマヒトツさんについてどれくらいのことを知っているかな?」


 アンナ看護長とメラニーの視線がわたしに向きます。まあ、主担当ですからね。


「ええと……シティ・カシマ出身。技能人形マイスターの一体、刀鍛冶という職能の修行に励んでいる、元・家政人形さん、ですよね。アンナ看護長、メラニー」


 二体とも頷きました。


 現代の科学技術でも再現が困難な、属人的な技術というものは存在します。

 例えばへら絞りという金属加工技術。例えばヴァイオリン職人。例えば革細工職人。

 職人技と呼ばれる技術のほとんどは、複雑なシステムをヒトが経験と勘に基づいて操ることで成果物を生み出します。


 複雑系は、解析と予測が事実上不可能です。バタフライ効果エフェクトってご存じでしょうか? 南米を飛ぶ蝶の羽ばたきで生まれた気流が、北米で竜巻を引き起こしうる、というお話です。

 竜巻のような気象現象は、大気を構成する分子が相互作用することで発生します。ですが、仮に大気中の分子を全て精密に再現してシミュレーションしたとしても、ほんの少し現実との誤差があるだけで結果が大きく変わります。それこそ、蝶の羽ばたき程度の誤差であっても。


 ヒトもまた、細胞が相互作用することで機能する複雑系です。職人技の世界においては、ヒトと複雑な工程、二つの複雑系が相互作用することで成果物を創発するわけですから、職人技を解析・再現することは、事実上不可能でした。

 かかる事情によって職人技は後継者不足に悩んでいたのですが、人形の実用化によってひとまず息継ぎできるようになりました。人形は、ヒトとほぼ同等の機能を備えているからです。

 マヒトツさんも、そういった職人技を継承するためにされた技能人形です。


「ちょっとだけ違うんだな」

「どこが違うんですか?」

「修行に励んでいる、ってところ。ま、見た方が早いよ。メラニー、例のものを」

「はい」


 メラニーは筒にかけられていた錠に鍵を突っ込み、解錠しました。筒の上端をひねって開け、取り出したのは、紫色の布に包まれた棒状の何か。若干湾曲しています。

 メラニーが紫色の布を取り去ると、黒い鞘に収まった一振りの刀が現れました。


「これはね、マヒトツさんが打った一振りだよ」


 言いつつ、バンシュー先生は刀を鞘からゆっくりと抜きました。


「う、わ……!」


 わたしは日本刀について何一つ知識を持っていませんが、その刀はとても綺麗でした。刃は銀色に冴えて、やや黒い峰との間にゆったりと波模様を描いています。反りはまるで三日月のよう。命を取るための道具なのに、こんなにも美しいなんて。


「ええと、握りはこう……でいいのかな?」


 小太りなバンシュー先生が刀を構え、素振りをしてみせます。


「あー……先生は駄目だ。それじゃ刃が欠けちまう」

「やっぱり? じゃあエリザベスさん、持ってみない?」

「わたくし、でございますか。よろしゅうございますが」

「ハ。女中が試し斬りか。振ったことあんのかい」

「振ったことはございません。ですがご心配なく。わたくしは雑用女中ジェネラル。できないことなどございません」


 バンシュー先生から刀を受け取ったエリザベスさんは、しばらくじっと刀を見つめていました。それから無造作に振り回しました。ぴゅう、ぴゅう、と振るたびに甲高い音が鳴ります。両手で振ってみたり、片手で振ってみたり。

 メイドさんが刀を振っているというのは、変な組み合わせですね。


「フムン……なるほど。では、握りはこう、構えはこう、でよろしゅうございますね?」


 左手はお腹の中ほど。右手は軽く添えて、刀の先は喉よりやや低い位置に下げていました。

 背筋は天井から吊られているかのようにぴんと伸ばし、左足に七割、右足に三割、体重をかけています。

 バンシュー先生が握ったときに比べると、何と言いますか、風格があります。


「……おでれぇた。様になってやがる」

「わたくしも道具。この刀も道具。扱い方は逆算できます。あの巻藁とやらは、どう斬ればよろしいので?」

「袈裟に……要するに斜めに斬ってみろ。藁は肉、中の竹は骨だ」


 物騒な代物があったものです。


「承知いたしました。で挑みます」


 刀を構えたエリザベスさんが、垂直に立てられた巻藁にすり足で近づきます。

 一歩踏み込めば先端が届く間合い。


「――ふっ!」


 振り上げと同時にすり足が前方へ送られ、直後に一閃。白い軌跡が残ります。

 遅れて、ざん、という音。

 見れば、巻藁には斜めに線が入っていました。

 失敗? と思った瞬間。ずっ、と巻藁の上部がずれ落ち、体育館の床へと転がりました。

 手品を見ているみたいでした。


「――返します」


 振り下ろされた剣先がひるがえり、真横に一閃。

 半分になっていた巻藁の上部がぽとんと落ちます。

 残っていた巻藁の下部がさらに短くなりました。


「へえ。返しで横一文字までやるたあな。てぇしたもんじゃねえか」

「お粗末様でございます。素晴らしい切れ味でございますね。。日本刀の現物はいくつか見たことがございますが、この一振りは格別のように感じます」


 口を開けば毒舌と皮肉のエリザベスさんが、手放しで賞賛するなんて。


「そりゃあそうだよ。その刀は、マヒトツさんに技を教えていた名だたる刀匠たちが、声を揃えて自らの作品を超える逸品と認めたものだからね」


 自らの作品を超える……?

 それは、つまり。


「分かるかい? マヒトツさんは、修行しているんじゃないんだ。刀鍛冶という技能の継承を終えたんだよ」


 バンシュー先生がそう言ったとき、マヒトツさんはいつも不機嫌そうな表情を、いっそう不機嫌に歪めていました。まるで、泣き出すのをこらえているかのような。

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