1-4「OCEプロトコルの例外・四〇三の八」
「どうして?」
「どうして、って……だって、旦那さんの体調が良くなったらきっと、もっと仲良しな夫婦になれるじゃないですか」
わたしは未熟者でした。
傷病に倒れた人が快復すれば、関係者も幸福になる。看護人形として当たり前の価値観を、患者さんも持っているものだと思い込んでいました。
「いいえ。いいえ。良くなっては駄目よ」
「え……」
一手の遅れは、二手、三手の遅れに繋がります。
「体調が良くなったら、セリアンはまた私の愛を信じられなくなる。だから私は――」
不意に、わたしのナースキャップに隠れたアンテナがチリチリとむず痒さを訴え始めました。
ガラティアさんの黒い帽子に隠れたアンテナから、何か、電波が。
ここ、止まり木の療養所では
ですが、人形同士がごく近距離で直接通信することはできます。
それこそ、今のわたしとガラティアさんのように頬が触れるほどの近さともなれば。
物事は往々にして、気づいたときには手遅れです。
ガラティアさんのアンテナから漏れ出ていたのは、彼女が今まさに想起している記憶でした。
「――やめてください、ガラティアさん! わたしに記憶を見せないで……!」
当院に勤める看護人形の中でも、わたしとメラニーの二体だけが持つ機能、介入共感機関。
人形の精神状態を無制限に走査し、解析し、わたしに共感させる機能。誰にも知られたくない感情さえ暴き出す、銃よりも暴力的な解析機関。
介入共感機関は本来、拘束を解除することで初めて人形の精神状態を食えるようになります。ですが、餌が眼前に差し出されるのなら、話は別です。
ガラティアさんから漏れる
「く、うっ……」
意識が曖昧になる中、わたしはせめて、感情共感と身体共感だけは拘束して――
***
マホガニーの調度が揃う、私たち夫妻の寝室。
粘っこい、古びた血漿のにおいが満ちている。
自在調光ガラスは黒ずんで、外部からの光を遮断している。照明も、ベッドと、彼の輪郭がぼんやりと分かる程度。
私の足音を聞いた彼が身を起こそうとして、全身をさいなむ痛みと倦怠感にうめき声をあげる。粘っこい、血漿のにおいが満ちている。
白鳥の首のようにいびつに変形した手指が、弱々しく持ち上げられる。
私は彼の手を取って、そっとさすってあげる。冷たい手。私の頬に押し当てる。わずかに指先が動いて、私の頬を感じようとする。
「動かないで、セリアン。あなたは動かなくていいの。私が全部やってあげるから」
「僕は、自分が恥ずかしい。僕は、君に、あんなにひどい仕打ちをしたのに」
たったそれだけのことを言うのにも、彼は息を切らしてしまう。
「どうか、許してほしい、ガラティア」
「心配しないで、セリアン。その言葉だけで、私は満たされます」
彼は涙を流す。
「ありがとう……愛しているよ、ガラティア」
私も涙を流す。
「私もですよ、セリアン。あの時から、私はずっとあなただけを愛しています」
「すまない……君を疑って、本当にすまない……」
声を出すだけでも疲れきってしまう彼にとっては、まぶたさえ重い。私の姿を見失うのが怖いのか、目を閉じるとき、私の頬に当てた手を弱々しく押しつけた。
母にしがみつく赤子のように。
私はいつものように、輸液バッグへサイトカインカクテルを注入した。
――不意に、誰かの気配を感じた。
私とセリアンだけの寝室に、誰かがいる。
部屋を見回す。
目に留まったのは、黒ずんだ自在調光ガラスに映った私の顔。
微笑みの感情を貼り付けた、見るも無惨な花嫁人形。
同時に、誰かが私の中にいる。
探す。誰だ。お前は誰だ。
瞳だ。真っ黒なはずの、私の瞳。
今は、琥珀色だった。
「――見たな」
***
ぷっつりと、介入共感機関が停止しました。
「――がふっ!」
意識を取り戻したわたしは、強烈な目まいと嘔吐感に襲われました。他者の感覚を強引に自身へ投影したことによる副作用、共感酔いです。自分のものではない感覚を受け取ったわたしの模倣脳が「こいつは毒物か何かを飲んだ」と誤認し、吐かせようとしているのです。
「――すか、ハーロウさん! 大丈夫ですか、ハーロウさん!」
誰かが遠くで叫んでいる。そのことしかわたしには分かりませんでした。
朦朧とする意識の中で鮮明にフラッシュバックするのは、ごく小さな注射器。
「サイトカイン、カクテル」
「――っ⁉ どうして、あなたがそれを」
サイトカインとは、主にヒトの免疫系に関与する数百種類もの生理活性物質群です。かつては、一部の悪性腫瘍に対して、ごく数種類のサイトカインを投与することで、ある程度の治療効果を期待できました。一方、免疫系に「人体に異常あり」と知らせることにもなるため、高熱や吐き気、脱毛、全身の倦怠感や関節痛といった、重い副作用ももたらしました。
ましてや、様々なサイトカインを
「ガラティア、さん……」
天地さえ定かでない視界の中で、わたしは黒づくめの花嫁人形を探します。
エワルド氏が患っていたのは、自己免疫疾患。自己免疫疾患とは、免疫系のバランスが崩れ、自分自身の正常な細胞を攻撃してしまう病気の総称です。
かつては難病とされていた自己免疫疾患ですが、現在では
もちろん、意図的に免疫系のバランスを崩すような働きかけが無ければ、の話です。
ぐにゃぐにゃと曲がっていた視界が、ようやく落ち着きました。
青空を背に、顔面蒼白になったガラティアさんがわたしを覗き込んでいました。
わたしは椅子から転がり落ちて、仰向けに倒れてしまっていたようです。
「ガラティアさん。あなたは、旦那さんに――」
それきり、わたしはうまく言葉を繋げられませんでした。見たままのものしか言葉にできませんでした。
「ああ――あなた、知っていたのね」
違うのに。
わたしはほんの断片を見ただけです。
わたしはまだ、あなたのことを何も分かっていません。
どうか、わたしの言葉の欠片だけで、わたしがあなたをどう理解したのか判断しないで。
そう言いたいのに、共感に酔ったわたしの言語野は、うまい言葉を選んでくれません。
「……ねえ、看護人形さん。セリアンは元気かしら?」
「……お答え、できません」
「そう。そうなのね。シティが面倒を見ていて、容態が安定しているって、そういうことだったのね」
どうしてバンシュー先生は、わたしに重大な秘密を明かしたんでしょう。人形は嘘をつくのが苦手だって、分かっているくせに。
「だとしたら。夫を、セリアンを殺したのは、私です」
すっきりとした、晴れやかな声。
声とは裏腹に、涙に濡れた笑顔。
二年と半年しか生きていないわたしでも知っています。
あれは、諦念です。
適切な言葉を選べないわたしは、せめてガラティアさんの言葉を否定しようと、首を横に振りました。
「ありがとう。優しい看護人形さん」
違うのに。気休めや、慰めではないのに。
ガラティアさんがわたしの視界から消えました。
こつこつと、足音が遠ざかっていきます。
うまく言葉を選べなかった自分に腹が立ちます。
とっとと立ち上がらなければ。追わなければ。
気持ちは急くのに、共感酔いは
わたしは唇を噛みました。ぎり、と顎に力を込めると、生ぬるい循環液が染み出てきました。
わたしが平衡感覚を取り戻して、
庭園に植わった木々は、相変わらず海風に吹かれてさらさらと葉を鳴らしています。
まるで、さっきまでの出来事が白昼夢か何かだったのだと言わんばかりに。
庭園を巡回していたメスキューくんが、起き上がれずにいるわたしを見つけました。四本脚をかがめ、丸みを帯びた箱形の筐体の前面下側にくっついたマルチセンサーでわたしを観測します。
「やあやあハーロウくん、お昼寝? アンナ看護長に叱られるよ?」
子供のような甲高い声。
「……お昼寝、ですか。夢だったら、良かったんですけどね」
彼らの模倣人格は、あらゆる物事をポジティブに解釈する傾向を持っています。
「メスキューくん、
「あいあいさー」
無かったことになんて、させるもんですか。
ハーロウ:@アンナ 緊急事態。ガラティアさんが失踪。捜索を要請します。
アンナ:了解。看護人形九体と全てのメスキューに捜索を命じます。ステータスコードを。
ハーロウ:OCEプロトコルの例外・四〇三の八と判断します。
OCEプロトコルとは、
例外・四〇三の八は、患者さんの意思によるコミュニケーションの拒否を意味します。
アンナ:
ハーロウ:やっと対話の手がかりを掴んだだけです。四〇四は認めません。
アンナ:よろしい。必ず探し出しましょう。
ハーロウ:ありがとうございます。
いつもは厳しくて恐ろしいアンナ看護長ですが、緊急時の判断は冷静かつ迅速で、けれど優しさに満ちています。
まだ喉の奥に残っている吐き気を飲み下して、立ち上がります。
ここは、人形たちのサナトリウム。外界から隔絶された療養所。
敷地の広さはたかだか半径二キロメートル。外に出ることは物理的に不可能です。
こんな狭いところで、ずっと隠れ続けることなんてできません。
ガラティアさんは、誰とも顔を合わせたくないだけで、どこかをさまよっているはずです。
だって、彼女は、さようならとは言いませんでしたから。
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