3
夜に沈みゆく通りを
冷ややかな風が夕闇に溶ける千景の髪を揺らしていく。やはり、この時間帯の街は美しい。
自らの翼で飛び回れないのが少し残念ではあるけれど、天狗の鬼――清人と西はそれを『
自宅の屋根の上に腰をおろし、千景は輝く街を眺めながら自分の首の包帯に手をやった。
あの天狗は鬼と成ったとき、理性とともに本来の名前を失った。
そして千景は死にかけたとき、自らに『羽織千景』という名を付け、人の中で生きることを決めた。自らの出自も能力も正体もすべて隠して。
――僕は、清人の隣にいていいのだろうか。
純白鬼と関わりが深すぎる千景が、彼と戦えるかどうか。
「戦わなきゃ、いけないんだよね」
――怖い。
憎しみに満ちた目が。喪失を嘆くあの目が、ひどく怖い。
暮れゆく街の風が打ち据える。その冷たさに身震いして、自分の翼で自分を包んだ。
ふと、清人の横顔を思い出す。愚直なほどに何物からも視線を逸らさぬ、あの横顔。
「……もし、清人と出会わなければ」
千景は古妖怪の尽きぬ命を孤独に暮らし、清人はあの裏路地で死んでいた。
別れの寂しさなんて、この何百年で幾度も経験してきたというのに。
初めて千景をまっすぐに見てくれた清人を失うのが、恐ろしくてたまらない。
だけれど。
『俺のために生きてくれ』
そう告げたあの真面目な表情を思い出す度、どうしてか胸の奥に灯火が生まれて暖かくなる。
それはきっと、清人の瞳の奥に宿る孤独を垣間見てしまったから。
自分と同じ、独りの影を抱える姿。
ここで別れてしまったら、もう二度と出会えないであろう相手。
「でも、『抱え込むな』っていうのは君もだよ」
一度言い出したら譲らないような頑なな言葉を思い出して、思わず笑みが零れてしまう。西が清人のこの性格に悩まされているのが手に取るようにわかる。
すると、近くの路地から薄青の着流しに無地の羽織を合わせた清人が顔を覗かせた。そのまま千景の家の門に向かっているようだ。その手には明かりと手土産の酒瓶。
また頬が緩んでしまう。
状況は予断を許さないのに。こうした日常が千景に泡沫の夢を見せる。
玄関の瓦の上で清人を出迎えたら驚くだろうか。そう考えながら翼を広げた。
「お前は、人間のことをどう思う」
小ぶりな盃を傾けながら、清人が唐突にそう言った。
清人が上等な日本酒を、千景がつまみを用意し、日の入りから始まった小さな酒会。ふたりで分け合った一升の酒瓶の中身が半ばほどを下回ったときのことだった。
「随分と曖昧な質問だ」
くすくすと小さく笑えば、清人は少し間が悪そうに咳ばらいをして一口酒を飲んだ。
「長く人の世を見てきたんだろう? それこそ、人と妖怪が争っていた時代から、彼らが溶けあう過渡期も」
「そうだね。特にここ数十年――大正に入ってからは人も妖怪も大きく変わったよ」
人は妖怪の存在を認知し、妖怪は人に化ける術を手に入れて人と同じ定命の者になった。
等しく定命となれば人と妖怪の間で愛を育む者たちも出てくる。そうして、半妖という存在が多く生まれ落ちた。
「僕はその変化が好ましい」
天高く散らばる星に視線を向けて千景は言う。
「だって、変化がない世界は停滞して淀み、膿む。変化し続ける世界はとても綺麗だ。僕はその綺麗なものをずっと見ていたいと思う」
古い妖怪たちは滞りを是とするけれど、人間や定命の妖怪はそうではない。彼らは常に前を向いて道を切り開いていく。
限りのある命を儚む古妖怪もいるだろうが、期限があるからこそ――。
「守りたい、と思う」
間をおかずに飲んでいるために早く酔いが回ってしまったのだろうか。そんなことを宣言してしまった。
清人がじっとこちらを見つめているのが手に取るようにわかる。頬が熱い。
照れをごまかすように盃を空ければ、無言で清人が酒瓶を差し出してきた。それに盃をもって応える。清らかに透き通ったかぐわしい酒が注がれる。
「お前は『あやびと』に向いているな」
清人はそんなことをつぶやいてふっと笑った。とても柔らかくて優しい笑みだ。
ここで意味するのは清人が所属する機関の呼称ではない。
鬼が引き起こす事件を解決するために戦う者、という意味。
こんな笑顔もできるのか、と少しの驚きとどこか心地よさを感じながら千景は口を開いた。
「清人だってそうだろう?」
だが、返ってきたのは。
「……どう、だろうな」
行き先を失った旅人のような声だった。
「お前に『俺のために生きろ』なんて言っておきながら、実際の自分はまだまだなんだ」
自信なさげに清人の目が揺れる。わずかに酒気を帯びたその目は潤んでいるようにも見えた。
長い研鑽の果てに汗も涙も体や手に滲んだ血さえも絞り尽くして傷だらけなのに、それでも道の先に何かを見出そうとしている言葉だった。
もうすでに清人の才能と実力は誰の手にも届かない領域であることに気付いているのか、いないのか。それに他人が付いて来れないことを知っているから、清人は相棒を作らなかったのだろう。
「千景の前では、自信のある自分でいたかったんだが」
どうにも情けない、と独り
もっと俗に言えば、格好をつけたかった。
それはつまり、少しでも千景に認めてもらいたいという願望の裏返しで。
口に出してしまえば簡単で子どもの言い分の如く聞こえただろう。
けれど。
「……僕が『あやびと』らしいのであれば」
ふっと目元を和ませて、千景は硝子の瓶を持ち上げて清人に差し出す。だいぶ少なくなってきた透明な日本酒に仄白い月が映り込んでいた。
千景の過去ともいうべき鬼と共に立ち合い、生きていいのだと――生きてほしいのだ、と力の限り叫んでくれた清人は。
「君は至極『人間』らしい」
清人が柔らかく微笑む。照れくさそうな、誇らしそうな笑顔だ。
新しく注がれた酒を彼は実にうまそうに飲み干した。
冷たさを増してきた秋の風が、ふたりの頬を撫でていった。
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