2
*
逆風でも笑うお前の横顔に憧れた。
孤独の中でも強く羽ばたく、お前のような人に。
お前は「僕なんか」と言うけれど。
どうか、お前の隣にいさせておくれ。
*
清人がまともに動けるようになったのは、千景に拾われてから数日後のことだった。
千景が繕ってくれていた軍服に袖を通す。これだけは、と常に傍らに置いていた刀を手に取る。すうっと気が引き締まった。
そうしていると、朝日差す縁側に小柄な影が歩いてきた。
「失礼するよ」
朝食を手に障子を開けた千景が、おや、という顔をする。
「もう出かけるのかい」
「ああ。小隊長に報告しに行く」
先日、千景も言った通り、あやびとは二人一組や4人の分隊で動く。
その分隊の上にはいくつかの小隊があり、それぞれ管轄と役割がある。だが、清人が出入りしている小隊はそれらを持たずに遊撃を主とし、現場で臨機応変に対応するための権限を持っている。
この小隊長というのもなかなかに
「なら、僕もお供させてもらいたいな」
それには一も二もなくうなずく。
朝食を口にしながら千景は様々な話をしてくれる。
千景は長く人間界に溶け込んで住んでいるらしく、家事にも人間や妖怪の情勢にも通じている。ちなみに世を忍ぶ姿は小説家なのだそうだ。
決して口数が多いわけでも、品のないおしゃべりでもない。的確にこちらが知りたい情報だけを話してくれる。
それがどうしてか少し寂しくて。
幾ばくかの寂寥を胸の奥にしまい込んで「ご馳走様」を言う。と、図らずもふたりの声が揃って千景がくすくす笑う。
取り繕うようにひとつ咳払いをすると、清人は片付けを申し出るが例のごとく千景にやんわりと断られる。このやりとりまでがここ数日の慣例だった。
目覚めだした帝都を歩く。遠くのほうで蒸気機関車の汽笛が鳴った。
石畳を踏む革靴の感触を楽しむように、ひとつに結った黒髪とマントが揺れている。
「楽しそうだな」
思わず隣に声をかけると、千景は恥じ入るように笑みを浮かべた。
「実のところ、こうして街を歩くのは久しぶりでね。いつもは夕暮れ時、鳥に紛れて見下ろしているばかりだから」
清人を見つけたのもそうした夕方の散策の途中だったのだという。
「……散策を邪魔してすまなかった」
今のところ、傷の手当も養生中の住まいも、何もかも借りっぱなしで返せていない。
自分が情けない顔をしていることを自覚した清人は軍帽を深くかぶって顔を隠す。
数歩先を歩いていた千景が振り返って、殊勝な清人にびっくりしたように足を止めた。
「いやいや。付き合わせてくれと無理を言ったのは僕だし」
それに、と言葉を継いだ千景は少し目を伏せていた。
「誰も助けてくれない辛さは、身をもって知っているから。僕だけでも、誰かを助けたいと思っただけさ」
この翼で飛んでいける範囲であるなら猶更のこと、と。
取り繕うように眼鏡をかけ直した千景は清人に向き直って首をかしげた。
「それで、あやびとの本部ってどこにあるんだい?」
「皇宮の方面だ。行こう」
皇宮。それは皇居とも呼ばれる大正天皇が
見えてきた、鉄骨レンガ造りの堅牢な建物が密集した区域。
そこまでくると和装の人々よりも、カーキや黒の軍服に身を包んだ者を多く見かけるようになってくる。
帝国軍の駐屯地。その入口から奥まった場所から伸びる桜の並木道。あやびとの本部がある場所は自然を好む妖怪にも配慮してか、心なしか周りの施設よりも緑が多い。
少し古びたレンガ造りの建物に入ると、軍人から女学生風の少女や巫女服の女性、警官の姿もある。
千景は珍しそうに視線を巡らせている。彼の目には狐の耳や犬の尻尾などが透けて見えているからだろう。
他にも、様々な妖怪や人間と妖怪の合いの子である半妖たちが人間と同じ姿をして談笑し、または書類を手に行き交っていた。
「いいね、ここは」
千景の口からそんな言葉が零れ落ちた。非常に素直な感嘆の言葉だった。
確かに、人の世に紛れ、天狗の目から隠れるように暮らしてきた千景にとっては驚嘆に値する光景であるだろう。
妖怪たちが分け隔てなく人と寄り添い、自由に笑い合うこの光景は。
「ああ。自分も好きな光景だ」
だからこそ、この秩序と安寧を守らねばならないと思う。
千景はまっすぐにそう言う清人の横顔に目を細めて、そうだね、と静かにうなずいた。
小隊長が詰めている部屋の扉を叩くと、中からすぐに返事が返ってきた。
失礼、と重厚な戸を開ける。
中で待っていたのは、まだ年若い男性だった。詰襟の軍服に細く引き締まった身を包み、精悍だが優しげな顔立ちをした小隊長は入ってきた清人とその半歩後ろにいた千景を見て、はたと動きを止めた。
齢25にして、あやびと麒麟小隊の隊長の任を預けられた俊才だ。海外で勲章を授けられたとの逸話もあり、その沈着冷静で快活な性格から多くの庶民と隊員にも好かれている。
だから、そんな西が一瞬だけ驚愕の色を見せたのが清人には少し意外だった。
「ひとまず、清人さん。ご無事で何よりです。ここ数日、連絡が取れずにみんな焦っていました」
「すまない。鬼と遭遇し、痛手を
「そのことについては後で報告を。……後ろの彼は?」
おそらく、西が一番聞きたかったのは千景のことだろう。
ひとりを常とする清人が誰かを伴っていること自体が驚くべきことなのだろうか。事実、あやびと本部に入ってきてから意外そうな視線を向けられていたのだが、清人はそんなことに頓着しない性質だった。
「羽織千景。恩人だ」
言葉少なだが、それなりに付き合いの長い小隊長には充分通じたようだ。西は朗らかな笑みを浮かべて立ち上がり、千景に向かって丁寧に頭をさげた。
「ありがとう、千景くん。清人さんを救ってくれて」
「そ、そんな大層なことは何も。僕はただ、助けたいと思ったから助けただけで」
まっすぐな感謝の念に慣れていないのか、千景は目を白黒させたあと、照れ隠しのようにはにかんだ。
「大層なことですよ。清人さんが貴方を伴っていること自体が、清人さんが示しうる最大の信頼の証です」
「おい」
成り行きを見守っていた清人だったが、いきなり話を向けられて思わず突っ込みを入れてしまった。
ほら、本気にした千景が「そうなのかい?」と小首をかしげているではないか。
確かに千景は命の恩人でその大きすぎる借りを返せていないこともあるし、清人ひとりではこなせない仕事の手伝いを申し出てくれた。鬼の情報を持っているかもしれない。それに――。
「いや、自分のことはいい」
報告を、と清人が言うと、西は応接用の長椅子に移動して仕事の顔になった。清人と千景も西に習って本革の長椅子に腰を据えた。
清人は、大きな純白の翼と虎のような牙を持つ人型の鬼を追っていた。ただ人型とわかるだけでもはや性別もわからないほどの闇に呑まれていた。
何かを探し回っていたその鬼を、清人も充分に警戒した上で強襲するはずだった。
だが、翼の根本を斬りつけたはずの刀の切っ先は無防備な背中に弾かれ、清人がそれを分析する一瞬の間に配下の烏天狗を召喚された。まるで皮膚自体が鎧になったかのような感触だった。
そのまま鬼の風の刃に腕と脇腹を斬り裂かれ、戦線を離脱せざるを得なかった。
そして、千景と出会った。
「なるほど」
西が真剣な表情で相槌を打った。顎を指でつまみ、今までの鬼と該当箇所を照らし合わせながら分析している。西の時折の質問に清人が答える。
そんなふたりの傍らで、千景は硬い表情をしていた。
「千景」
その様子に気付いた清人が声をかけた。我に返った千景は、なんだい、と首をかしげる。
「お前はこの鬼の正体を知っているか?」
千景の右腕の傷はすでに古いものだった。また、清人の傷と同じ形ということは、同じ攻撃で受けたものに違いない。
西が一瞬だけ驚いたような表情をしたあと、冷静な光を帯びた瞳で千景を見た。
「……知っているとも」
逡巡していた千景は意を決して口を開く。
「彼は小さな山を統べる天狗だった」
地元の人々だけが知る名もなき小山。
そこに住むとある女天狗が山に漆黒の翼を持つ子どもを連れて帰ってきた。
まだ羽根も生え揃っていなかった子どもは烏天狗とともに育てられ、天狗の呪法などを授けられた。
しかし、とある日、他の山から力を持つ純白の翼の天狗がその小山を支配した。同じ色の翼を持っていた女天狗を娶りに来たのだった。
そのときだ。子どもが天狗ではなく燕であることが発覚したのは。
他の天狗よりも能力に秀でていたその燕を「天狗の伝統を盗みに来た」「漆黒の翼は異端である」と純白の翼の天狗は断罪しようとした。
だが、女天狗が燕をかばって命を落とし、燕も致命の傷を追って姿を消した。
妻である女天狗を失った純白の翼の天狗のもとに、燕が人里で生きているとの報が届いたのもいけなかったのだろう。
純白の翼の天狗は怒りの矛先を燕に向け、失意と憤怒に呑まれた彼は鬼に堕ちた。
「鬼の目的は僕を殺すこと。君たちを利用するような形になって申し訳ない」
身の上を語ったあと、そう言った黒縁眼鏡の奥の瞳はひどく凪いでいた。
――ああ、この瞳は。
清人は知っている。
――これは、自分と同じ
周りからの期待も、周りへの期待も、すべて諦めた目。
孤独の中、誰かに手を伸ばすことも止めてしまった目。
なまじ自分ひとりですべてをこなせてしまうものだから、理解してくれない者の手など煩わしいだけ。
それなら、相棒なんていらない。
だから清人はひとりで行動してきたし、それがより一層、周りとの溝を深めていることを理解しながら。
だが。
『僕も連れて行ってくれないだろうか』
あのときの千景の目は必死だった。
きっと、あの鬼に
そんな死地に飛び込もうとしている清人の手を、寸でのところで
それを“利用”などとは言わない。
「確かに、鬼の標的はお前かもしれない。だが」
清人は膝の上で拳を握る。静かに目を閉じて、開く。
「お前にはきちんと反論する義務がある」
まっすぐな視線に射貫かれた千景が少したじろぐ。
「反論……?」
「ああ。お前はちゃんと『違う』と言っていいんだ」
「……!」
千景はそっと息をのみ、何かためらうように目を閉じた。
「そう、だね。でも僕は……」
黙り込んでしまった千景と清人を交互に見つつ、西はひそかにため息をついていた。
さて、と西が空気を変えるように明るい口調で言った。
「清人さん、報告ありがとうございました。いい時間ですし、今日のところは解散ということで」
「……まあ、そうしようか」
これ以上の話は千景自身がどうにかするしかない。
横目で千景を確認する前に彼自身が、清人にふわりと微笑んでみせた。
「このあたりを案内してくれないか?」
悩み事よりも小説家としての知的好奇心を優先したらしい。清人は、もちろんだ、とうなずいた。
あやびと本部から辞し、皇居のほとりまで歩いてきた。水面に浮かぶ蓮の葉が揺れ、道沿いの深緑を宿した桜の木が心地の良い影を石畳に落とす。
「ここは気持ちがいいね」
「この自然を求めて、市民に混じって妖怪たちも訪れるらしい」
なるほど、と千景は感慨深げにうなずいて、ふたりは並んで清廉な空気の中を歩いていく。
「……さっきの話、だけれど」
しばし葉がそよぐ音を聞いていた千景が唐突に口を開いた。清人は静かに相槌を打ち、話の先を促した。
「生き残ってしまった僕は、ひとりで生きることを自分に
それが僕のできる唯一の贖罪だった、と。
贖罪とはきっと、千景を救った女天狗と白い翼の天狗に対しての。
「でも、君に……反論する義務があると言われて、とても驚いた」
「お前のしていることは、思考停止にも等しいと思ったからな」
「手厳しいね。でも、その通りだ」
千景は苦笑いを浮かべたあと、本当に、と吐息のような言葉をつなげた。
物事をそのまま受け入れることも時には必要だ。しかし、千景は白い翼の天狗に対して何かしらの声をあげるべきだった。少なくとも清人にはそう感じた。
だから。
「お前自身の言葉を、あの天狗に突きつけに行こう」
鬼に、とは言わなかった。
なぜなら、あやびとの仕事は鬼を打ち倒すことでない。
浄化し、魂を救うこと。
魂が救われたのなら、対話の余地もできるだろう。
真面目な顔で言う清人に、千景は小さく笑みを零した。
「……君は面白いことを言うね」
そうして千景が言葉を繋げようとしたとき。
かあ、と
そのひと声で周囲の空気が一変する。
どす黒い空気に木々がざわめき、水面に波紋が広がる。ふたりはどろどろした突風の中に閉じ込められた。
その中に幾筋の白が差し込む。
法衣を着、背中に翼を備えた烏頭の人型。白い烏天狗が三羽。
以前、清人を追い詰めた配下と同じ姿だが色が違う。天狗の鬼が白と言えば配下の烏天狗も白くなるということか。
清人は半歩、千景の前に出る。軍刀の柄を握って鯉口を切る。
「いけるな?」
「……やってみるよ」
少々頼りない返事ではあるが、もしものときは清人が援護すればいい。
ばさりと黒い翼が強く羽ばたく。自らの羽根を一枚抜き取り、人差し指と中指の間に挟んで口の中で呪文を唱える。
と、烏天狗の一羽が突如何もない空間に現れた黒い羽根の刃に貫かれて叫び声をあげる間もなく霧散し、白い羽根に姿を変えてぼっと燃え上がった。
それを横目で見つつ、清人は一息のうちに烏天狗たちとの間合いを詰め、一羽を居合の構えから両断する。
残り一羽。清人が刀を構え直した、そのとき。
闇の中から差し出された両手が千景の首に伸び、次の瞬間には千景の首を強く強く締め上げる白い鬼の姿があった。
白く流麗だったはずの髪は艶を失ってざんばらに乱れ、異様に白い肌に秀麗な顔立ちの面影だけ残して虎の牙を剝き出しにしていた。ただ、雪白の烏の翼だけが美しく怒りに震えていた。一目見ただけで、その力が増していることに気が付いた。
鬼の爪が千景の喉を裂かんばかりに食い込んでいる。
「なぜオマエが生きている!」
声が聞こえた。大きすぎる負の感情に吞み込まれ、ひび割れた鬼の声だ。
「なぜオマエだけが生きている!」
鬼の目から黒い涙があふれだす。それは悲しみのものか、憤怒のそれか。
「……僕も、そう思うよ」
こんな僕が生きているだけで、誰かが悲しむのなら。
そのように千景の口が動いたような気がして。
千景の腕が、抵抗を止める。
それを見た瞬間、清人の中に言い知れぬ強い感情が生まれた。
「千景――!」
気付かぬうちに力の限りで彼の名前を呼んでいた。
ここまで感情的になったのはいつ振りだろうか。
はっ、と千景が息を呑み、その瞳に光が戻った。苦しみに潤んだ漆黒の目がこちらを見た。
清人と千景の視線が交わる。
その一瞬だけで、互いの意図が通じ合った。
千景は自らの首を締めている腕を
「きよ、ひと……!」
喉を押さえて崩れ落ちる千景がこちらを呼ぶ。
それに導かれるように、烏天狗の脇を駆け抜けた清人の刃が煌めき――右の純白の翼を斬り落とした。
地に落ちた翼は白い炎となって燃え上がった。
鳥が騒ぐような叫び声をあげ、鬼は右肩を押さえる。一瞬、突風の結界が緩む。
その隙に清人は千景を担ぎ上げ、風の隙間から脱出した。
ぎゃあぎゃあ、と烏が鳴く。
それが遠のくと同時に、深淵の色をした風も夢のように消えていった。
あの突風の中にいるときだけ、時間が止まっていたようだ。一陣の清廉な風が鬼の気配を流し去る。
けほけほ咳き込む声がする。
千景を地面に下ろし、その背を支えながらハンカチを取り出して首筋にあてた。いつかの彼のように、ためらいなく。
「大丈夫か」
ハンカチに赤い染みが広がっていく。俯いたまま、うん、とか細い声で返事があった。
そうして、母にすがる子どものようなに震える手が、清人のマントを
「清人、やっぱり僕は……!」
「千景」
彼の頬を包み込んで顔をあげさせる。言い聞かせるように呼びかける。千景は今にも泣き出してしまいそうな顔をしていた。
孤独の中、ひとりですべてを抱え込もうとしている姿。
自分と重なる、もうひとりの姿。
やっと見つけた同士。ここで手放したら、もう二度と出会うことはないであろう相方。
この感情が、独占欲と呼ばれる醜いものだとしても。
手放す訳にはいかない。
「勝手に決めるな。抱え込むな。どうしても自身に生きる資格がないと思うのなら――俺のために生きてくれ」
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