第10話
薄暗い部屋には、そこら中に衣服が乱雑に放置され、空っぽの炭酸飲料のペットボトルやお菓子の空き箱が床に転がっていた。
控えめにいっても健康的な暮らしとは言えないだろう。
だけど、僕は食事や睡眠、排泄といった生きる上で必要な最低限の行動以外は何もする気が起きないのだ。
部屋の外からセミの鳴き声が聞こえてくる。それは僕がアパートに閉じこもっていても季節は非情に巡っていることを感じさせた。いつの間にか、もう夏だ。
夏は一年の中で一番嫌いな季節だ。まず暑いのが嫌だな。日本の夏は蒸し暑いというが、あの肌にまとわりつくようなじわっとした熱気は僕からやる気というものを吸い取っていく。
そして何より、夏は青春を象徴する季節だ。これが一番よくない。
海水浴、神社のお祭り、花火大会、流しそうめん、そして美人な幼馴染。
夏と聞けばそんな青春的なイベントを連想してしまう。
そして、世間ではこれらのイベントをこなすことが、「正しい夏」の過ごし方であるという認識があるように思う。
現に、青春モノの映画や小説の多くは大抵の場合、舞台となる季節は夏だ。
毎年、夏が来る度、僕は憂鬱になる。それは今までの人生のなかで「正しい夏」を送ったことがないからだ。
きっと僕をいじめてきた奴らや同じ大学の同級生たちは、「正しい夏」を送っているはずだ。それなのに僕だけには「正しい夏」なんて存在しなかった。
いま、こうしている間にも彼らは「正しい夏」を過ごしている。だからと言って僕にできることはない。そう考えると、胸を掻きむしりたくなる。なんとも言えない焦燥感と憂鬱さが僕を襲うのだ。
そして夏が終わると、今年の夏も正しく過ごすことができなかったと後悔の念でいっぱいになってしまう。
この憂鬱な季節はいつまで続くのだろう。僕は壁にかかっているカレンダーに目を向けた。信用金庫の店名が入ったカレンダーは、五月からめくられていなかった。
僕はベッドから出るとスマホで正しい日付を確認し、それからカレンダーを三枚捲る。
部屋に閉じこもっている間、テレビもラジオもつけていかなかったから、意識することが少なかったが、世間では今日から八月のようだった。道理で暑いはずだ。
立ち上がったついでに、カーテンを開けた。薄暗かった部屋に、真夏の陽光がダイレクトに差し込んだ。
窓を開けると、セミの鳴き声が一段と大きくなり、生温い風が部屋を通り抜けた。
風に煽られて、先程八月になったばかりのカーテンが音を立てて床に落ちた。
散らかり放題で踏み場のない床を移動してカレンダーを拾いあげ、元の場所に戻す。
と、そのとき、視界の端でカレンダーの日付に見慣れない丸がつけられているのが見えた。
友人もいなければ、恋人もいない僕には予定というものがほとんどない。その上、大学にも行っていないし、アルバイトもしていない。
予定が何も書かれていない、まっさらなカレンダーにぽつんと赤丸。
何の日だろうか。
視線を赤丸の日に向けた途端、僕は夢から目覚めたようにはっとした。
──八月二十日。結崎と再会を約束した日だ。
十年間待ち続けたあの日がもう少しでやってくる。僕は思わずその場でガッツポーズをした。
こんなに嬉しいことはない。今年、というかあと三週間ほどで結崎に会えるのだから。僕がずっと心の支えにしてきていたあの約束がついに果たされるのだ。
今までの憂鬱としていた気分が徐々に氷解していき、長い間味わっていなかった感情が僕の中を満たした。
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