第5話
背後から「逃げた!」「追いかけようぜ」といじめっ子たちが叫ぶ声が聞こえる。
僕は訳も分からず彼女に従って走った。結崎は住宅街の角を右に左に曲がり、先に見えてきた公園へと向かった。
ちょっとした遊具と防災倉庫があるその公園に駆け込むと、結崎は倉庫を指して「隠れて」と言う。指示に従って倉庫の裏側に回った。少し遅れていじめっ子の声がする。
僕は、倉庫の端から少しだけ顔を出して様子を窺った。
公園の前に集まったいじめっ子たちは、「どこ行った」「わかんね〜」「あっちじゃないか?」そんな言葉を掛け合って、どこかへ行ってしまった。
緊張の糸が緩む。
よかったと深く息を吐くと、どこからか軽やかなメロディーが聞こえた。音の方に視線を送ると、結崎が目をぎゅっと瞑り両手をお祈りするみたいに組んで、鼻歌を歌っている。
こんなときに鼻歌とは、そんな状況ではないだろう。状況と行動がチグハグな彼女に僕は「あいつらいなくなったよ」と囁いた。
僕の声にぱちりと目を開いた結崎は、ふう、と息を吐く。
「はぁ、よかった。あの人たち、ほんと飽きないよね。人が嫌がることをして何が楽しいんだろう」
結崎は、呆れた様子で言うとコンクリートの土台に腰を下ろした。彼女はいじめれていると言うのにいつも飄々としている。鼻歌を歌うその姿はまったくいじめられっ子のそれじゃない。
僕も結崎の隣にしゃがみ込んだ。太陽に焼かれたコンクリートの熱が布越しに伝わってくる。
「結崎は強いね。僕なんかいつもビクビクして生きているのに」
僕が言うと、結崎は「強い?」と首を傾げた。肩まで伸びた漆黒の髪がふわりと揺れる。
「だって、嫌がらせをされているのにいつも鼻歌を歌っている。なんでそんなに余裕があるの?」
「余裕なんてないよ」結崎は首を横に振った。「私が鼻歌を歌っているのは辛いからだよ」
「どういうこと?」
「鼻歌の曲、私の好きな曲なんだ。それを聴いているときは幸せな気分になれる。だから辛いとき、あの歌を歌って耐えているの」
言われてみれば、彼女が鼻歌を歌っているとき必ず彼女自身に良くないことが起きているときだった。さっきもそうだ。彼女はいじめっ子が去るまで祈りながら耐えていたのだ。
「僕はずっと、威嚇なのかと思っていた。『お前らに何されてもびくともしないぞ!』って」
「そこまで強くないよ」と彼女は弱々しく笑った。「だけど私には持論があるんだ。人生の中で起きる幸福と不幸は同数だってね。今、いじめられて辛いぶん、きっと将来は幸せなことしか起きないんだよ。そう考えれば今辛ければ辛いぶん、将来のために貯金している気分になるでしょ」
自信満々に言う彼女に僕は首を捻った。世の中そんなに平等じゃないはずだ。
結崎の理論が正しければ、子供の頃いじめられたりして不幸だった人は、大人になったとき幸せじゃないといけないし、逆に大人になってから不幸になる人はみんながみんな子供の頃幸せじゃないといけない。しかし現実には子供の頃のいじめがトラウマになって将来を棒に振った人もいるだろうし、いじめを主導していた奴が大金持ちになることもある。だから彼女の持論が正しいとは言い切れない。
「そんなに上手くいくかなぁ。もし将来、幸せになれなかったら期待したぶん、受けるダメージが多い気がする。それに世の中そんなに公平じゃないと思うよ」
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