9(記念)
次の日の朝、わたしはロビーに立っていた。一人で、冷たい壁にもたれ、じっとしている。
空は白みはじめていたけど、太陽の姿はまだなかった。主役はいつだって、ゆっくり登場するものだ。ロビーはまだ薄暗く、半分くらいは眠ったままだった。
わたしはただ、そのまま待ち続けている。
二人が階段の上から現れたのは、それからほどなくだった。二人は最初に出会ったときと同じ格好をしている。つまり、手には銃を持って――
「おはようございます、二人とも」
わたしは壁から背中を離して、言った。
二人はそれほど意外ではなかった感じで、わたしのほうに近づいてきた。第六感とか、虫の知らせとかいうやつだろうか。でもそんなのは、人間的な情報処理システムの齟齬が生んだ、あとづけの理由でしかない。
「どうして、あんたがここにいるんだ?」
質問というよりは、一応の礼儀みたいな感じでソワは訊いた。
わたしはしっかりと二人の正面に立って、それから言う。
「実は、わたしは嘘をつきました」
「嘘?」
ベテルが首を傾げる。ロボットにも嘘がつけるのか、とは言わなかった。
わたしはうなずいて、ためらわずに言った。
「通信を直接処理できない、と言ったのは嘘です。本当は、ここにいる作業ロボットたちからの情報を受けとることができます」
「ということは……」
「はい――昨夜の、二人の会話を聞かせてもらいました。朝早くに、ここを出ていくって。二日間の暴動は全部陽動で、今日がクーデター決行の本命だったんですね」
二人は一瞬、顔を見あわせた。短いアイコンタクトと、それが伝える短い言葉。
「……フミさんは、俺たちのことを通報するつもりなのか?」
と、ソワは言った。
けど、わたしは首を振る。「そんなつもりはありません」
「どうしてだ?」
「わたしはただの、司書ロボットですから」
そう言うと、ソワはおかしそうに笑った。笑うと、年齢相応の幼さが顔をのぞかせる。
「やっぱり、あんたは変わってるよ」
それから、ソワは一冊の本をわたしの前に差しだした。
「……けど、ちょうどよかった。こいつをどうすればいいか、迷ってたところなんだ」
わたしは本を受けとる。ずっと昔に、もう死んでしまった人間が書き残したものを。
「閉館時間の場合は、返却ポストを利用してください」
と、わたしは教えておく。
「覚えておくよ」
ソワはやっぱり、笑いながら言った。
時間はいつも通り進んでいて、太陽はいつも通りに昇っていた。外から射しこんでくる光が、律儀な掃除夫みたいにロビーの薄闇を払っていく。
「最後にあの本が読めてよかったよ」
不意に、ソワは言った。
「だとしたら、お手伝いができてよかったです」
わたしは司書的に微笑んでみせる。
「紙の本も、悪くないと思った」
「――だったら、またここに来ればいいんですよ」
わたしのその言葉に、けれどソワは曖昧な笑顔を浮かべるだけだった。
どれだけ精巧な機械を作っても、どれだけ緻密なシステムを組みあげても、すべてを完全で幸福にできるわけじゃない。この世界は、楽園というわけじゃないのだ。
「本当に、行くつもりですか?」
気づいたとき、わたしはそう訊ねていた。
二人は黙ったまま、うなずきもしない。うなずく必要もないことだった。そんなのは、目を見ればわかることだ。
「死ぬかもしれませんよ?」
わたしはどうしようもなく、訊いていた。
いや――
かもしれません、なんて話じゃない。きっと、死ぬだろう。相手は邪智暴虐の王というわけじゃない。親友が磔にされているわけでもない。そんなところに行ったって、誰も誉めてくれないし、都合のいい結果が待っているわけでもない。でも、
「たぶんな」
ソワは言った。簡単に、電車の時刻でも答えるみたいに。
「だったら――」
「死ぬかもしれない」
ソワは何だか変に素直な、きれいな声で言った。
「けど、自分を生きられないくらいなら、死んだほうがましだよ」
それで、おしまいだった。
わたしにはもう、かけるべき言葉なんてなかった。夜空をいくら照らしだそうとしても、何も見つけられないみたいに。そこはただ、星の光だけが静かに瞬く場所だった。
ソワは最後に、ポケットからカードを取りだして言った。昨日、わたしが作った貸し出し用のカードだ。
「このカードは、返しておいたほうがいいのか?」
そう言われて、わたしは首を振った。
「いえ、それはあなたが持っていてください。ここに来た――記念です」
「なるほど、な」
ソワはカードを見てつぶやく。何の装飾も、面白みもない、ただの四角くて薄いだけの塊。
「――悪くない記念だよ」
もう、時間がたちすぎていた。二人は行かなくてはならない。例えそれが、世界を滅ぼそうとするだけの行為だとしても、人間である以上は。
いつのまにかニボシがそこにいて、一声だけ鳴いた。猫は猫なりに、別れを告げたのかもしれない。でもわたしは、さよならを口にするでも、手を振るでもなく、ただそのまま立っていることしかできなかった。
二人は扉のところで一度だけ振りむいて、それから去っていった。
――たぶん、永遠に。
もう二度と、図書館に来ることもなく。
わたしは閲覧室に戻って、いつも通りに一日をはじめるための準備にかかった。パソコンをチェックして、館内に異常がないかを確かめる――すべて異常なし。
そのあいだ、わたしは二人のことについて考えていた。気になる本の結末を、あれこれ想像するみたいに。二人は無事でいられるだろうか?
でもたぶん、それは無理だった。世界は頑丈なのだ。ちょっとやそっとで壊れたりなんてしない。壁に卵を投げつけたって、潰れるのは卵のほうで、壁のほうはびくともしない。そこには罅も入らなければ、割れたりもしない。どうしたって、それは無理なことなのだ。
わたしは立ちあがって、レコードプレイヤーに向かった。ジャケットから適当に一枚を取りだす。針にかけられたのは、バッハのG線上のアリアだった。
スピーカーから、心の震えを直接写しとったみたいなヴァイオリンの音が聞こえる。プレイヤーのボリュームを、わたしはいつもより心持ち大きくした。今はそれくらいが、ちょうどいいような気がして。
わたしはイスに座って、いつもと同じ誰もいない図書館を眺めた。
百年近く、それはそうだったし――これからもやっぱり、それはそうなのだろう。
カウンターの上ではニボシが丸くなり、作業ロボットたちがあちこちを行き来していた。空白を乗せた机が部屋の向こう側まで続き、本たちは誰かがページを開く、その時を待ち続けていた。
わたしはふと、パソコンの画面に目をやってみる。
そこにはたった一冊だけ借りられた、本の題名が記されていた。百年近く何の変化もない真っ白なリストの中に、一行だけ現れた、この図書館が存在する理由。
それは不思議とわたしの心を温め、励ましてくれた。
わたしはこの場所でずっとこうしてきたし、これからもやっぱり、こうしているのだろう。
――そのことに、きっと満足しながら。
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