8(戦う理由)
わたしは閲覧室を出て、館内の巡回にあたった。時々そんなふうにして、異常がないかを実際に確かめてみることがある。
ロビーに出たところで、ふと人の気配を感じた。見まわしてみると、二階に向かう階段の途中にベテルが座っている。ニボシもいっしょだった。
ベテルは「よっ」というふうに手をあげてみせる。どう見ても、反政府勢力の戦士、という感じじゃなかった。
「何をしてるんですか、こんなところで?」
わたしは階段のすぐそばまで近づきながら、訊いてみた。
「別に何も。ただちょっと、たそがれてただけさ」
ベテルはつかみどころのない、雲みたいな笑顔を浮かべる。
わたしは彼のそばまで行って、同じように階段に腰かけた。ニボシは顎の下をなでられて、ご満悦そうに咽を鳴らしている。よく考えると、この一人と一匹はどことなく似ているみたいだった。
「一つ、訊いてもいいですか?」
と、わたしは言った。
「一つと言わず、二つでも三つでも」
ベテルはすんなりと了承する。
「俺の心は、地中海みたいに広いからな」
――広いんだろうか、それは?
何だか微妙な気もするけど、もちろんそんなことはどうだっていい。
「ベテルは、どうして反世界戦線のメンバーに加わってるんですか?」
わたしが訊くと、ベテルは一瞬口を閉ざした。ちょっと硬そうな材質で出来た沈黙だった。
「……ソワのやつと、何か話したのか?」
ベテルは少しだけ、慎重そうな口ぶりをしている。
うなずいて、わたしはついさっきの会話をかいつまんで説明した。生と死の両方の権利が人間にはある。どちらか一方を強制するのは、正しいこととは言えない――そんなことを。
「ま、あいつらしい意見だな」
ベテルは言って、ニボシの顎をなでている。その言葉に同意するみたいに、ニボシは目を細めた。
「ベテルは違うんですか?」
と、わたしは訊く。
「俺にはそんな主義主張はないんだよ」
ベテルは乾燥した砂みたいな、手からそのまますべり落ちていきそうな口調で言った。
「戦う理由は人それぞれだ。俺の場合それは――私怨といっていいだろうな」
「私怨、ですか?」
何だか、ベテルには一番似あいそうにない単語だった。
けれどベテルは、はっきりうなずいている。
「マキナによる管理システムは、あくまで効率や合理性が優先だ。となれば、それにあわないものは切り捨てられるか、見捨てられるか、無理にでも改善させられるのが宿命だ。けど中には、それをすんなり受けいれられない人間だっている。変えられないもの、捨てられないもの――例え世界にとっては意味のないものでも、一人一人には大切なものだってある」
ベテルは足の位置を変えて、少し姿勢を直した。ニボシがそれを見上げる。不思議なほど理解を示した瞳で。
「俺としては、それを踏みにじったマキナが許せない――ただ、それだけなんだ。世界が間違ってるとは言わない。それが仕方のないことだったと理解もしてる。けど、許せないものは許せないのさ。俺はそいつに復讐しておかなくちゃ、気がすまないんだよ」
それだけ言うと、ベテルは口を閉ざした。さっきのそれとは違って、強度に余裕のある沈黙だった。
「ベテルはこの世界が憎いんですか?」
わたしが訊くと、ベテルは小さく首を振った。
「いや、そういうわけじゃない。嫌いなものも多いけど、好きなものもたくさんあるよ。高いところから見える景色とか、信号が変わった瞬間に動きだす時間の流れとか、空に低い唸り声と一直線の雲を残して消えていく飛行機とか、な――あとは、この場所のことも」
「え?」
「いいところだぜ――図書館。静かで、きちんとしてて、正しいものが正しいところにあるって感じがする」
ベテルはそれから、にっこり笑ってみせた。たぶん、混じりけのない、本物の笑顔で。
「そんな場所にいるのが、あんたみたいな人でよかったと思う。例え誰も来なくても、誰も知らないとしても、な。ニボシだって、確かにそう思ってるぜ」
その日の晩も、二人は図書館に泊まることにした。昨日と同じように閲覧室を閉めようとすると、ソワが本のことを訊いてくる。もう少し、その本を読んでいたいのだという。
「閉館後の本の持ちだしは困ります」
わたしは規則に照らしあわせて、そう告げた。
「なら、どうすればいいんだ?」
――どうすればいいんだろう?
わたしはちょっと考えて、ソワにその本を借りてもらうことにした。それなら、少なくとも二週間は自由に持ちだすことができる。
図書館専用のシステムでIDを登録し、貸し出しカードを発行した。それを使って、ソワにその本を借りてもらう。
「返却は二週間以内になります」
わたしは得意になって告げた。何しろ、百年ではじめてのセリフなのだ。
「期限を過ぎたら、どうなるんだ?」
と、ソワは訊く。
「電話で督促されて、怒られます」
わたしがそう言うと、ソワは苦笑して首を振った。
「じゃあ、気をつけることにするよ」
それから二人は部屋を出ていって、閲覧室には二人ぶんの空白が生まれた。わたしはしばらくしてから、昨日と同じように眠りにつく。作業ロボットたちだけが、夜を守るみたいにして、いつまでも働き続けていた。
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