7(神様でもするべきじゃないこと)
翌朝、わたしは決められた時間に目を覚ました。人間風に表現すると、再起動したということになる。
体調は――あるいは、システムに異常はない。わたしの脳はきっちりと機能していた。人間風に表現するなら、ばっちり目覚めているということになる。目をこすったり、あくびをしたり、体をのばしたりするまでもなく。
閲覧室では、作業ロボットたちがいつも通りのまじめさで仕事をしていた。窓からは朝の光が斜めにさしこんで、部屋を白く照らしている。一日のはじまりとしては、申し分のない出来ばえだった。
「――さて、今日もがんばりますか」
と、わたしは立ちあがって言う。
もちろん、誰も聞いている相手なんていない。がんばるようなこともない。でもそれが、癖になっていた。わたしを作った人がそういうふうにプログラムしたのか、自然とわたしが身につけてしまったのかは、わからないのだけれど。
わたしはまず館内チェックを済ますと(異常はない)、閲覧室の鍵を開けに向かった。
開錠して、少し考えてからロビーに足をのばす。二人がどうしているか確認するためだ。図書館の玄関自体に鍵はなく、いつでも誰でも自由に出入りすることができる。もしかしたら二人は気が変わって、ここから出ていってしまったかもしれない。
わたしはそんな可能性を考えてみたけど、詳しく吟味する必要はなかった。
何しろ、二人はそこにいたからだ。ベンチに横になって、あまり快適とはいえそうにない眠りの中で。ついでに、ニボシもいっしょに。
わたしは何故か少し笑ってから、声をかけた。
「――二人とも、朝ですよ。図書館の開く時間です」
二人はまず、テレビの確認をした。たぶん、一晩中気になっていたのだろう。何となく寝不足気味で、顔色も冴えない感じがした。人間も不便なものである。
テレビの報道によると、暴動は下火になっているということだった。昨日の爆発騒ぎで管理局の警戒レベルも上がっただろうし、逮捕者だってたくさん出ているはずだ。彼らにはもう、クーデターを遂行する能力は残っていないかもしれない。
その辺のことを、二人がどう思っているのかはわからなかった。二人は昨日と同じ真剣な顔で、テレビ画面を見つめている。もしかしたら、その向こう側にいる仲間たちのことを。
わたしは言ってみた。
「今ならまだ、何事もなく家に帰れるんじゃないですか?」
二人が具体的に何をしたのかは知らないけど、暴動そのものは終息に向かっている感じだった。とすると、もはや無関係の人間としてふるまっても問題ないのではないだろうか。
「そいつはちょっと難しいだろうな」
ベテルはイスの背もたれからずるずるとすべり落ちながら言った。まだ眠いんだろうか。
「俺たちだって、もう当局にマークされてるだろうからな」
「そうなんですか?」
もちろん、具体的なところはわたしにはわからない話だった。
「ああ、それにどうせ俺たちには、もう帰るところなんてないんだ」
と、ソワが言う。
その口調はカレンダーの日付を告げるくらいにあっさりしていて、わたしには何だかそれ以上のことは訊けなかった。
結局、二人はまだしばらくここにいるみたいだった。ここにいて、どうするつもりなのかはわからない。マキナはやがて、二人を見つけてしまうだろうか。それとも二人には、何か考えがあるのか――
もちろん、それはわたしにはわからないことだし、管轄外のことでもある。
ここに留まることにしたものの、さしあたって二人にやることはないみたいだった。テレビの報道も、目ぼしいものはなくなりつつある。暴動に関する新しい動きも伝えられてこなかった。もしかしたらそれは、完全に終わってしまったのかもしれない。
「どうも、やることがないな」
銃の手入れをしてしまってから、ベテルは言った。
「まあ、そうだな」
ソワもさすがに、気のない返事をする。
二人とも、要するに暇なのだった。紐につながれたままふわふわしてる、風船みたいに。もしかしたらこれはチャンスなのかもしれない、とわたしはふと思った。何といっても、ここは図書館なのだ。
「どうですか、お二人とも」
わたしは極力、わざとらしくないように自然な口調で言った。釣りの極意は何といっても、焦らないことだ。
「せっかくだから、本でも読んでみては?」
「本てのは、その辺の紙に書いてあるやつのことか」
ベテルは閲覧室の壁際にある、本棚に目を走らす。何となく、警戒心の強い魚みたいな疑いに満ちた目で。
「ええ、そうですよ」
わたしは、自然な口調。
「……まあいいんじゃないか。とりあえず、時間を潰す以外にできることはない」
ソワはあっさりと言った。
「では、どんな本をお探しですか? きっと、お望み通りのものを見つけてみせますよ」
わたしは内心で喝采を上げつつも、やっぱり自然な口調。
「そうだな――」
ベテルは深く省察するように、額に眉をよせる。「裸のねーちゃんが載ってる本なんてあるか?」
わたしはプロフェッショナルに表情を崩さず、探してみます、と答えた。
「俺は――」
ソワはベテルと違って、ある本の題名を告げた。
「もちろん、ありますよ」
わたしは言って、さっそく二人の要望通りの本を探しに向かった。たぶん、棒を投げられた犬と、同じような気持ちで。
二人は机の上で本を広げ、それに目を落としていた。わたしはカウンターに座って、邪魔にならないようにそれを眺めている。
たった二人だけど、それは確かに図書館利用者だった。開館以来の百年で、ようやくやって来たお客さんなのだ。わたしとしては、なかなか感慨無量なものがあった。
ベテルはページをめくりつつ、どこか気のない表情をしている。「……確かにそうなんだけど、なんか違う気もするなぁ」と時々、空中に文字を書くみたいにしてむなしくつぶやいている。ちなみに、わたしが彼に渡したのは美術全集の一巻だった。そこには裸婦の絵と、その詳細な解説が載せられている。
一方で、その向かいに座るソワは、ただ静かに本を読みすすめていた。わたしからは背中しか見えないので、その表情ははっきりとはわからない。
でも彼が真剣に、集中して本を読んでいることはわかった。そこには、書かれている文章に対する慈しみがあった。春の陽ざしが、草花に新しい命を吹きこむみたいに。
わたしはカウンターに座るニボシを、そっとなでてやった。ニボシは嬉しそうでもなく、迷惑そうでもなく、ただ丸くなったままでいる。ニボシが二人のことをどう観察しているのかはわからなかった。何しろ、猫は本を読まないのだから。それでも猫には猫なりの礼儀やマナーがあるのかもしれない。ニボシは二人の邪魔をしようとはしなかった。
やがて時間がたって、時刻は午後を迎える。
二人は昨日と同じように、猫缶の食事をとった。朝食も、同じ。ただし今回は、パンがついている。
「猫用のパンですけどね」
わたしはちょっと恐縮しながら、それを勧める。
そのパンはメンテナンスに来てくれる知りあいの人に、無理を言って頼んだものだった。ニボシに食べさせてみたいから、と。もちろん、本当のことは一言も口にせず。
猫用に塩分とバターを抜いてあるので、かなり味気ないパンのはずだった。もっとも、味覚のないわたしには、わかりようのないことではあったけれど。
「まあ、パンには違いないな」
ベテルがパンをほとんど一口にしながら言う。
「ますます人間性を失いつつある気はするが」
ソワも同じようにパンと猫缶を口にしながら、肩をすくめてみせた。
食事がすむと、図書館の時間はいつも通りの密度に戻っていった。光は静かになり、音はすみっこのほうに引っこんでいく。誰もいない机とイスが並び、本は化石になってしまったような大人しさでじっとしていた。
わたしは午後の館内チェックをしてから、昨日と同じようにレコードプレイヤーに向かった。ジャケットから少し迷って一枚を取りだし、ターンテーブルに乗せる。コーヒーをそっとかき混ぜるみたいにしてアームを動かし、針を落とす。
モーツァルトのピアノ協奏曲第二十一番、第二楽章。
管弦楽器による演奏と、同じ主題によるピアノでの演奏。まるで幸福な夢でも見ているみたいな、軽やかな調べ。そこに時々、かすかな記憶の名残りみたいな悲しみが加わる。
わたしはしばらく、レコードプレイヤーの前に立ったまま、目を閉じて音楽に耳を澄ませていた。
声をかけられたのは、そんな時のことである。
「――平気なのか?」
わたしが目を開けると、カウンターの向こうにはソワの姿があった。突然ではあったけど、わたしは驚かなかった。彼の声は、音楽を遮るような響きをしていなかったから。
「何がですか?」
わたしはレコードのボリュームを少し下げてから、訊き返した。
「あんたは――フミさんは、ずっとここにいるんだろう。図書館の司書として」
ソワは何故か、少し言いにくそうにいった。細い針が見えない磁力線の影響でも受けるみたいに、かすかに視線をそらしている。
「そうですけど……」
わたしはまだ、ソワが何を言いたいのかわからなかった。
「ここには、利用者なんて誰も来ることはない」
ソワは何かを無理に吐きだすみたいにして言った。
「たぶん誰も、この場所のことを知りもしない――そんな場所に、何の意味がある? そんなのは、存在しないのと同じだろう。フミさんは、それで平気なのか? そんな場所にただいつづけることに、耐えられるのか?」
わたしは少しだけ、間をとった。彼の言葉が十分、わたしの中に沁みこむのを待つために。
それからわたしは、レコードのスイッチを切った。音楽は鋭利な刃物で切断されたみたいに、一瞬もかからずに消えてしまう。館内は無音のボリュームが上がって、前よりずっと静かな感じがした。ベテルは猫といっしょにどこかへ行ってしまっている。ここには、わたしとソワしかいない。世界には――
「……ソワは、わたしのことを憐れだと思いますか?」
わたしは訊いてみた。ちょっと、からかうようなつもりで。
「そういうわけじゃない」
ソワは首を振って否定した。
「ただ、フミさんはそれでいいのか? これがあんたの望んだことなのか? 毎日を、無意味さの中で過ごすことが。どこにも向かわず、どこにも行きつかない日々が。あんたは自分のことを〝ヒトに似すぎた〟と言った。なら、どうしてこんなところで平気でいられる?」
わたしは黙っていた。ソワの言葉には続きがあった。指に巻いた糸がずっと向こうでひっぱられるみたいな、そんな感じがした。
「俺はそんなの、ごめんだ」
ソワは言った。吐き捨てるというよりは、何かを拾いあげるみたいに。
「マキナは俺たちすべてを管理している。俺たちの運命が最良なものとなるように。それに従っていれば、すべてはうまくいく。人類は存続し、個人は幸福に、社会は平和でいられる。俺たちは機械神に従うべきだ。けど――」
「けど?」
「そんなのは、動物園で飼われているのと同じだ」
と、ソワは言った。
わたしとソワは、カウンター越しに向かいあっていた。ソワの声はかすかに震えている。自分が正しいわけではないと、知っているからだろう。
「人類は滅びるべきだったんだ。こんな延命治療を受けて生かされるくらいなら、いっそ。死を許されないことは、生きることを許されないのと同じだ。俺たちには自分の生死を決める権利がある。生きることを強制するのは、死ぬことを強制するのと変わらない。そんなことは、例え神様でもするべきじゃないんだ」
「――そうかもしれませんね」
わたしは逆らわなかった。ソワの言っていることは、何となくわかったから。
「フミさんは、満足なのか?」
どちらかというと本当は答えなんて聞きたくないみたいに、ソワは言った。希望か絶望か、どっちが入っているのかよくわからない箱を前にしたときと同じで。
けれど――
わたしの答えは、ずっと前から決まっているのだ。
「もちろん、わたしはわたしに満足しています」
「……それはあんたが、そういうふうに作られたからだ」
ソワの言葉に、わたしは答えた。
「それでも、わたしはやっぱり満足なんです」
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