この何気ない日常が続きますように

黒烏浮羽(くろとり うきは)

第1話

 微かに聞こえた呼び出し音。

腹這いの彩乃は、重たい頭をのっそりと持ち上げ音源を睨む。

照明の光に目を擦ると、湿った目やにが指先に触れた。

目線の先には、リビングと廊下を仕切る一枚戸。

半ドアになっていて、気流ができている。

彼女は冷ややかな微風に身震いし両腕をすると、寝返りして仰向けになった。


 ぼんやりする間に、またインターンホーンが鳴る。

背と首だけを起こし、足元に位置する食卓上に照準を合わせる。

そこでは目覚まし時計が静かに時を刻んでいた。数字盤の7辺りで長針と短針が重なっている。

彩乃は、上体を慌てて支え起こした。

寝坊の二文字が彼女の頭を巡る。

しかしワンルームの最奥、ベランダの窓は漆黒に染まっていた。

彼女は、まだ日付が変わっていないことに一先ず胸をなで下ろした。

頭をうなだらせながらも、なんとか胡坐をかいて座る。

ほわほわ星が散る思考の中、掌に張り付く乾いた薄片を篩い落とす。

反動で表面を現したその白い紙には、細かな文字列とグラフが書かれていた。

いつかの授業プリントだ。

とりあえず、今日配布されたばかりのプリントの下に重ね、ベッド脇の足元の紙山に載せた。


 忘れた頃に、再びインターホンの音が響く。

しつこいな、と腹立たしい反面、こんな時間に自分に用のある人が何者かと変な不安も覚える。彩乃は思い当たる節を探った。

今日は、サークルの集まりも誰かが遊びに来る予定もない。忘れていることもしばしばあるのも事実だが。

あれやこれと考えるうちに、相手が諦めるのを期待する。

4度目か、5度目かの呼び出し音が鳴った時、とうとう観念し、固まった体に喝を入れ立ち上がった。

跳ねたショートヘアを手櫛で抑えつつ、受話器を手にする。

「は、はいぃ..」

と、ノイズのようなイガついた声で返事をした。

その震えた声音は、寝起きのドライな喉のせいとも、しつこい訪問者のせいとも思われた。

「あっ、自分」

と、機器が少し控えめなボリュームで人称だけを返してきた。

彩乃がほぼ毎日聞く友達の声だった。

安堵の吐息に交えて「おお」とだけ呟いてから、通信機器を置く。

玄関戸を開けると、派手な蛍光色のダウンジャケットを着たセミロングの女性が立っていた。

彼女は右掌を上げ軽く挨拶した。

と、打って変わって

「ほしが!星がマジでヤベェ!!」

騒がしくなる友達。

「は?」

「今、めちゃくちゃ晴れてて。一緒に星、見いひんかなって」

彩乃は覚醒しきれていない頭をもって理解しようとした。

夜風が玄関を吹き抜ける。

彼女が震えたのと同時に、友も鼻を押さえくしゃみを堪えた。

「とりま、入りなよ」

彩乃は、彼女を中へ通した。


 「あったけぇー」

入室早々、友達はさっきプリントを退けた場所にドカッと座った。彼女が伸びをした途端、隣にあった例の紙山が崩れる。

「汚くてごめん」

彩乃はへしゃげた声で謝った。

「いや、座れるだけうちよりマシ」

友達は気にしてない様子で、ケタケタ笑う。

「寝てた?」

と、彼女の唐突な問いかけに彩乃は首を傾げた。

「来る前、メッセジー送ったけど既読付かんかって」

そう言われ、すぐさまベッド上で充電中のスマートホンに飛びつく。

ロック画面には、『せな』という名のメッセージ通知と着信履歴のタブが並んでいた。

「ごめん。電話も…」

彩乃は消え入るように言って、マットレスへ項垂れた。

「ええよ、全然。これは寝とるな、と思った」

「これでよく来たね」

「直で行ったら、いけるかなって」

「それで何しに来たんだっけ?」

「…、えーっ...」

世那は空を見つめ、言葉に詰まった。

だが、すぐに

「ああ!星ッ!今日は流れるはず」

と、ポケットから取り出したスマホをつつく。

「ほい」と見せる画面には、流星群を取り上げたネットニュースが表示されていた。

「で、天気見てたら、この後曇るっぽくて。今が一番ええと」

「了解!」


 彩乃はジャケット、マフラー、手袋を準備する。

その間手持ち無沙汰な世那は、居間入り口脇の台所周りを見回した。

流し台には、茶碗と平皿が2、3浸けられ、その中に箸が乱雑に置かれている。

「彩ちゃん、晩ご飯食べた?」

「食べてない」

「んじゃ、これは..」

「それ、洗えてないやつ…。世那ちゃんは?」

「まだぁ。今日、間食してないからさすがに腹減ったなって」

世那がダウン越しの腹を擦った。

「でも、今日ご飯炊き忘れてて、家何もないんよなー」

「おお。食べてく?」

彩乃はキッチン下の棚を開け、中を覗き込んだ。

台に置かれたのは、底幅が広めな二つの丼。その側面と上部は、一方は緑、他方は赤基調で彩られている。

「あッ!赤いきつねと緑のたぬきやん!」

「実家からの仕送りに入ってた」

「これ、非常食ちゃん?」

「別にいいよ。それより、せっかくやし外で食べてみない?」

「ええな、それ!あと、ありがとござますッ!」

「どっちする?」

「んー。じゃ、きつねで!」

二人分のお湯をケトルで沸す間に防寒着を身に着け、箸をポケットへ装備した。


 電気ケトルがカチッと火蓋を切る。

「いそげー!新鮮なうちにッ」

世那の号令で、彩乃は赤いきつね、緑のたぬきの順に湯を注いだ。

両手でカップを持った世那は、先に玄関で足を靴にねじ込ませた。

そうして、片腕でドアノブを下げ、肩で戸を押し開く。

「早く、早く」と急かされ、彩乃は緑のたぬきを手袋越しの両手で包んで持ち、玄関へ早歩きする。

世那はついに足先で扉を押さえ、その表情は苦しげだった。

「早くぅー!めちゃくちゃ熱い゛ぃ゛ぃ゛ーーー」

彩乃が戸口から滑り出たのを見届けると、

「ごめッ、先行く!」

と残して、アパートの出口へパタパタと駆けていった。

少々かがめた上半身を固定したまま歩く様は、能芸のようだった。

去って行ったへっぴり腰の役者に彩乃は、一人笑いを堪えた。


 目的地である公園までは、徒歩3分程だ。

アパートの明かりから外れると、一気に暗くなる。田舎なことと、道路が一本奥まっているために、建物前の歩道にはほとんど街灯がない。

公園は、住宅街の主要道路沿いに設けられている。

道路沿いの薄明かりを目ざして、暗い歩道を行く。

彩乃は向かう先に、逆光で縁取られた人影が、飛び跳ねたり屈んだりしているのを見つけた。

一瞬怖じ気づいたが、どう考えても一足先に行った友であることに違いない。

誰もいないからと、変な踊りをするものだ。

汁が零れないよう注意して、大股早歩きでその影へ近寄る。

「あーーッ!!ストップ、ストップゥッ」

彩乃の気配を察した途端、相手は危機迫った声を上げた。さらに、揉み合わせていた両手を突き伸ばしてから横に振り、静止合図を送ってくる。

だが、それらが行われた時点で既に手遅れで、彩乃は世那に肩を並べた所で止まった。

何事かと尋ねる間も与えず、世那は彩乃の背後へ回り、その場に屈んだ。

彩乃が縮こまった肩へ声かけようとしたと同時、

「ふおー!危なかったァ~」

と、立ち上がり彼女に振り返る。

「それ..」

彩乃の指す先には、赤いきつねが抱えられていた。

「もうちょいで蹴飛ばすとこやった!」

「いや、そんなとこ置くから!」

「蓋とカップの間の湯気が熱すぎて。手、死にそうやったの」

世那は成り行きを話すと、彩乃の前へ立った。

「持ち方変えたからもう、いける!」

そう言って、カップ側面を支える手の親指を彩乃へ向けた。


 公園は広く遊具も照明もポツポツと点在して配置されていた。

二人は、人口灯から最も遠く、なおかつ明かりが背面にくる向きでベンチに腰を下ろす。

目が順応を始めると、瞬く間に星々が現れた。

彩乃が大小様々の空の宝石に見惚れていると、ズズッと耳に触る水音が聞こえた。

「あー、沁みるゥ~」

「おーい、星はぁ?」

「腹が減っては..ってさ。あとなんか、普段より量増えてる、ラッキ~」

世那は、勢いよく麺をかき込んだ。

「伸びてるだけでしょ」

彩乃がまったく、と視点を空に戻した時だった。

漆黒のキャンパスに銀白線が引かれたかと思うと、瞬く間に闇へ飲み込まれた。

「アアッ!!流れたッ!」

歓声に世那は肩を跳ねさせた。

しかし、間髪入れず天を仰ぎ見上げ、

「どこどこどこ?」

と興奮してリピートし、ついには中腰になった。

「もう見えないって。食欲に負けたね」

世那は「クッソォ…」と、呟いて大人しく座面にお尻をつけた。

「まあ、また流れるよ」

その励ましに、次こそと、世那は空へと顔を固定させる。

「何か願った?」

上を向いたまま彩乃に尋ねた。

「別に。特に、欲しい物も願いもないなー」

一方の世那は、

「自分は金やー!」

と、叫ぶと瞼をしばたたかせ、空をしきりに拝んだ。

「世知辛いね」

彩乃は、彼女の必死な様に呆れながらも微笑を交え短く答えた。


 ふと、なぜ自分に願い事が思い浮かばないのか、という些細な疑問が湧く。

頭上には寒く美麗な星空。

しかし、手元には暖がある。それも食べられる。

この場、この時間にたむろするのを何者にも咎められない自由。

そして、誠にささやかで何でもない一瞬を、先駆者気取りになって騒げる友がいる。

噛み締めれば噛み締めるほど深まる味わい。

自分にとっての幸せは現状にあるのだろうな、と。

食べ慣れた味が喉を伝っていく。いつもの通り美味しい。

冷え切った体と空きっ腹は、その温度に喜んでいる。

体温が上がってくる。

ただ、今日はそれに続けて別の温もりの波紋が胸の辺りから広がっていった。

顔を振ると、ようやく聞こえた嚥下音に世那が、どこか間の抜けた表情をして彩乃を見ていた。

「おいしいね」

ニコリとそう言うと、世那も大いに賛同して笑った。直後、彼女の声が止む。

彩乃が小首を傾げると、

「そういや、鍵閉めた、家の?」

と、世那は大きな目を見開いて尋ねた。

「……あ。ま、大丈夫っしょ!命さえ取られなかったら!」

それに対して世那は、

「言っとる場合かぁッ!」

と、中身の入ったカップをそっと彩乃の肩にぶつけてツッコんだ。

律義な世那と冗談をかました彩乃。

二人の戯笑で揺れた空は、また星を一筋流れ落とした。

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