第3話 (三)
とびきり元気な声が聞こえ、沙樹は顔を上げた。さっきまでステージで歌っていた青年が立っている。
「あっ、いや、きみは今そこで……」
「はい、ザ・プラクティスのボーカル兼ギター、
右手で軽く敬礼し、十年来の友人に向けるような親しげな笑顔を浮かべ、ハヤトと名乗った青年は正面にどかっと座った。
沙樹は額に手をあてて、軽くためいきをついた。
声をかけられ顔を上げたとき、ハヤトがほんの一瞬ワタルに見えた。驚きの声を上げたのはそのためだ。
頭をふって恋人の笑顔を追い出し、沙樹は
「お姉さん、この街の人じゃないでしょ」
沙樹が見せた拒絶の態度は完全に無視された。
「観光旅行なの?」
初対面の相手に目的を話すつもりはないので、沙樹は形だけうなずく。
「それなら、ぼくが案内するよ」
「案内って、いつもこうやってお客さんに声をかけるの?」
「まさか。普段はそんなことしないよ」
少しだけ唇を
怒らせたかと思ったが、すねた表情はすぐに姿を消し、突然ハヤトは身を乗り出して沙樹の耳元に唇を寄せた。
「実はね、お姉さんが気になったからだよ」
「ねえハヤトくん。何か下心がある?」
とっさに沙樹は体をうしろへそらし、腕組みをして突き放したような口調で問いかけた。
「とんでもない、と言いたいところだけど実はその通りなんだ」
全然
「お姉さん、今夜泊まるとこ決めてないでしょ?」
「え? どうして解ったの?」
警戒心と期待感が同時に生まれた。
「この店で、ディナータイムに大きな荷物抱えてりゃ解るよ。ホテルを決めてればさっさとチェックインして、スーツケースなんて持ち歩かないでしょ。帰るつもりでチェックアウトしたにしては、高速バスはとっくに出たあとだもん」
ハヤトはいたずらっ子のような笑みを浮かべると、腕時計を指さした。
「そこで、ものは相談だけど、行くとこないならうちに来ない?」
「ちょ、何? ハヤトくんの……?」
沙樹は一オクターブ高い声が出てしまった。にぎやかな店内なのに、近くのテーブルの人たちに野次馬半分で見られた。
予想をはるかに越えた提案に、怒る気にすらなれない。
「ねえ。自分で何を言ってるか解ってる?」
「誤解しないでよお姉さん。ぼくんち、旅館を経営してるんだ」
ハヤトは店内においてあったガイドブックを開き、宿泊コーナーに紹介されている旅館を指した。
「ほら、ここに出てるでしょ。下心っていうのは客引きのことだよ。疑うなら確認の電話かけてよ」
本に書かれた番号にかけハヤトの名前を出すと、今からでも宿泊できることになった。
「ね、言った通りでしょ」
「ええ。実は本当に困ってたの。ありがとう」
沙樹の言葉を聞いて、ハヤトはうれしそうに、ふふっと笑った。
子どものように
なぜだろう。出会ったばかりの相手なのに、懐かしい気持ちに包まれる。
「食事は終わったようだね。じゃあ今から案内するよ」
ハヤトは勢いよく立ち上がり、たまたまそばにいたマスターらしき人物に「ぼくは帰るね。お先でーすっ」と告げた。
「お疲れさま」と言葉をかけられると同時に、沙樹のスーツケースを手にする。疾風を思わせるような素早い動きだ。
沙樹の考えが追いつくより早く行動される。ペースを合わせるだけでも一苦労だ。
バタバタと支払いを済ませ、スーツケースを引いていくハヤトを追いかけた。
☆ ☆ ☆
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます