黒猫からの贈り物

ギフト

我が家の猫に見透かされている。

「邪魔だけはするな」

 私を拾った彼は、それだけを私に命じた。

 捨てられなくない私は、その言葉に従った。

 ただただ、一人きりの彼の背を見ていた。


 ◆◇


 冬を目前に控えた休日の昼下がり。

 安いワンルームアパートのベランダで、俺は開花前のビオラたちの面倒を鼻歌まじりにみていた。

 花は本当に良いものだ。

 キレイで。

 良い匂いがして。

 手間や愛情をかければ、応えるように美しい姿を見せてくれる。

「咲いてもない花を構ってニヤニヤしてる。いくら好きとはいえちょっと気持ち悪いわよ、カエデ」

 なにより、こんな人を傷つけるような台詞を吐いたりしない。

 声の発生源である足元に視線を向けると、一匹の黒猫がいる。首の鈴をチリチリと鳴らし、呆れた様子でこちらを見ていた。

「うるさいぞ、ツツジ。人の趣味にケチつけるな」

「はいはい、すみませんでした。ーーまったく、その花に向ける愛情をちょっとは私にも向けて欲しいものだわ」

「だったらお前も花になったらどうだ? 使い魔さんならできるだろ?」

「冗談。魔法を使うなんて、そんな死ぬほど疲れること願い下げよ。私は、この可愛い体が気に入ってるの」

 冗談みたいな存在が何を言っているんだ、と内心で呟く。

 この、使い魔を自称する黒猫と出会ったのは2年前。通っている学校の花壇を手入れしていたところ、急に話しかけられたのだ。

 当初はそれこそ腰を抜かすほど驚いたものだが、まぁ実際に目の前にいるものを否定はできないし、周囲におかしくなったと思われて病院に入れられるのも嫌だったので、やむなく納得した。

「それにしても、お腹が減ったわ。ゴハンはまだなの?」

 当然のように居座られたことに関しては、いまだに納得できていないが。

「はぁ、待ってろ。この作業が終わったら用意してやる」

「酷いっ! お花と私、どっちが大事なの?」

「そんなわかりきったこと聞くなよ。面と向かって言うのは照れるだろ」

「うふふ、いいからいいから。恥ずかしがらずに言ってみなさい」

「もちろん花だ」

「あぁ、うん、わかってたけど。ちょっとでも期待した私が馬鹿だったわ」

 がっくりと項垂うなだれるツツジを無視して、作業を終えた俺は洗面所で手を洗い、ツツジのゴハンを器に用意する。

 その折り、肩に猫一匹分の重さがのしかかってきた。犯人は言わずもがな、ツツジである。

「ねぇカエデ、少しでいいから素直になれない? このままだといつかきっと後悔する日がくるわよ」

「どうしたやぶから棒に」

「そうねぇ。……例えばだけど、カエデのことが好きっていう子が現れた時に、貴方なんて返事するつもり?」

「はぁ? そんなことあるわけないだろ。自分で言うのもアレだが、基本的に無愛想だし、性格も捻くれているんだぞ。そんな物好きいるかよ」

「いるところにはいるものよ。ーーで、返事は?」

「……さっぱりわからん」

「やっぱり、もうしょうがないわね。優しいツツジさんがあわれなカエデの練習に付き合ってあげるわ。試しに『ツツジちゃんマジ可愛い。好き好き大好き、愛してる』って言ってごらんなさい」

「言うわけないだろ。何の罰ゲームだ」

「あれれ〜? なになに? もしかして照れてるの? 意外に可愛いところあるじゃない」

 肩の上でニヤニヤしながら、ツツジは前足で俺の頭を叩いてくる。

 当然ながら、ムカついた。

「おい、あんまりうるさいとメシ抜きだぞ」

「うーわ最低っ! 人でなし! 動物愛護団体に訴えてやる!」

 その後、ニャーニャーと騒ぎ始めたため、俺は買いそびれた肥料を買いに行くという口実でアパートから退避した。

 本当にわずらわしいことこの上ない猫だ。

『カエデのことが好きっていう子が現れた時に、貴方なんて返事するつもり?』

 先ほどの言葉がふと脳裏によみがえり、俺の歩みは止まっていた。

 白く深いため息を吐いて、コートのポケットから一通の封筒を取り出す。

「ーーったく、見透かしやがって」

 花柄がプリントされたピンク色のそれには、可愛らしい文字で俺の名前が書かれていた。

 

 ***


「あのっ、これを受け取ってください!」

 休日前の放課後。花の世話ができるという理由で入った環境委員の当番中での出来事だった。

 名前を呼ばれ、何事かと振り向けば、鼻の先にピンク色の封筒が突き付けられていたのだ。

 相手は一つ年下の後輩、スミレだった。

 上目遣いの瞳は期待と不安で潤み、普段は白い肌が風邪を疑うレベルで真っ赤。小柄な身体はライトブラウンのダッフルコートをまとっているものの、そこから伸びる手足は生まれたての子鹿みたく震えている。

「まずは読んでくださいっ、お願いします!」

 よっぽど緊張しているのだろう、指に力が入りすぎて封筒がひしゃげている。

 その必死な姿を見せられて、真正面から断れる男などこの世にいるだろうか?

「お、おう」

 例に漏れず、俺もおずおずと受け取ってしまったわけだ。

 たったそれだけのことなのに、スミレの顔は季節外れのヒマワリのように咲き誇り、

「ありがとうございます! その、お返事はいつでも大丈夫なので、お待ちしていますね!」

 紅潮こうちょうした笑顔のまま、何度もお辞儀をしながら、その場から走り去ってしまった。

「……マジか」

 俺はというと、我が身に起きた出来事に理解が追いつかず、間の抜けた声を漏らしながら、その小さくなっていく彼女の姿を見送ることしか出来ずにいたのだった。 


 ***


「なぁ、どうすればいいと思う?」

 で、現在。

 素直に悩みを打ち明けたものの、相手からの返事はない。

 それもそのはず。相手とは行きつけの花屋に並べられた花たちだからだ。

 周囲に店員や他の客がいないとはいえ、かなりの奇行である。

 しかし、それほどまでに俺は切羽詰まっていたのだ。

 明日は平日。

 スミレはいつでもいいと言ったが、学校で顔を合わせてしまったら、この手紙についての返事を問われるかもしれない。それはマズイのだ。

「まだ、読んでないんだよ」

 それこそが悩みだった。

 第三者ーー特にツツジにこんなことを打ち明けてみろ。「ヘタレてないでとっとと読めば?」と言われるに決まっている。

 俺だって、他人事ならそう言ってしまうかもしれない。

 でも、ダメなのだ。


 ブブブ、ブブブ、ブブブ。


 ポケットの中にある携帯が突如バイブレーションをして、俺の身体は反射的に跳ね上がる。

 取り出して画面を確認すると、親父からのメールだった。その三桁を超える未読の数字がまた一つ増えたことに、俺はさらにめげる。

 沈んだ気分を癒すべく、改めて店頭に並ぶ花々を眺めた。

「……花は、いいよな」

 キレイで。

 良い匂いがして。

 気持ちに応えてくれて。

 人が傷つく言葉を吐いたりしないのだから。


 ◇◆

 

 私には後悔があった。

 成し遂げられなかった役目があった。

 彼は「余計なお世話だ」と言い張るかもしれないけれど。

 それが本心でないと、今ならわかるから。

 だから、今度こそはと思うのだ。


 ◆◇


「ただいま」

 結局、ウジウジと悩んだ挙句あげく、答えを出せないままに俺は帰宅した。

 日が短くなっているのもあり、夕方にもかかわらず部屋はすっかり真っ暗だ。

 手探りで照明のスイッチをつけると点滅ののちに明るくなり、部屋中央にあるコタツと、その上に陣取るツツジの姿を照らし出した。

「おかえりなさい。ずいぶんと遅かったじゃない」

 その声色はいつもの陽気な雰囲気がなく、どこか不機嫌にも聞こえた。

「なんだよ、もしかしてまだ怒ってるのか?」

「ええ、わかってるじゃない。私は怒っているわ」

「いい加減機嫌直せよ。面倒くさいな」

 こちらはスミレの手紙に続く親父からのメールでかなり参っている。とてもではないがツツジのご機嫌取りにまで気を回せる余裕がないのだ。

「今度、高級猫缶買ってやるから。な?」

 だからこれで解決。

 次の瞬間には、目を輝かせ、文字どおり猫撫で声でツツジが擦り寄ってくるだろう。ーーと、思っていたのだが。

「手紙は読んだの?」

 返ってきたのは、意外な一撃だった。

 台所で手を洗おうと背を向けていた俺は驚き、ツツジの方へ慌てて振り向く。

「なんで知ってるんだよ」

「あら、私がどういう存在か忘れたのかしら」

「魔法でも使ったって言うのか」

「好きに解釈しなさい。今重要なのはそこじゃないでしょう?」

 ツツジの眼差しが、真っ直ぐに突き刺さる。

 その金色の瞳は、不思議と視線を剥がすことができなかった。

「ツツジには、関係ないだろ」

「その様子だと、やっぱり読んでいないのね」

 やれやれと言わんばかりに、ツツジは頭を振る。

「カエデ、お昼にも言ったけど、もう少し素直になりなさい」

「またその話かよ。しつこいな」

「何度でも言ってあげるわ。このままじゃ、絶対に後悔するわよ」

「知ったような口をきくんだな」

「知っているから口を出しているの」

 ツツジはコタツから飛び降り、俺の足元へ寄ってきた。

「ねぇ、カエデ。これはチャンスなのよ。次があるかもわからない、最大のチャンスなの。ーー貴方だって薄々気づいているんでしょう?」

 本当に見透かしやがって、と胸中がざわつく。

 これ以上は本当に無理だ。

 冷静でいられる気がしない。

「はいはいわかったわかった。俺もう寝るから、話の続きはまた今度な。ツツジもちょっと頭冷やせ」

 まくし立てて、俺は押入れから寝具一式を引っ張り出す。着替えも、風呂も、夕食も済ませていないが、それすら億劫おっくうだった。

「私は、カエデのためを思って言ってるの!」

 しかし、ツツジは止まらなかった。

 そして最悪なことに、その最後の一言は、俺にとっての禁句タブーだった。

「黙れよ。耳障りな奴だな。大体なんで猫が喋るんだよ気持ち悪い」

 血が上った頭では自分が何を口走ったかなんてわからない。

 ただ、最低な台詞を吐いたことだけは、ツツジの悲痛な表情を見れば一目瞭然だった。

 過去のトラウマとツツジへの最悪感に耐えられなくなり、俺は頭から布団を被って、力一杯目を閉じる。

「ごめんなさい。傷つけるつもりはなかったの」

 間を置いて、頭上からツツジの声がした。

 小さく、優しく、震えていた。

「カエデが望むなら、もう黙るわ。静かにしてるし、話しかけたりもしない」

 それは俺が常日頃から口うるさいツツジへ言っていた口癖。

 実現するというのなら、きっと俺の心はせいせいするんだとずっと思っていたのに、実際はズキズキとした痛みだけを生み出すだけだった。

「でも、どうかこれだけは聞いて。ーー彼女からの手紙を読んで。お父さんからのメールを読んで。カエデが手紙を捨てなかったこと。メールを削除しないってことは、カエデ自身が信じようとしている証拠。頑張ろうとしている証拠なの。だからどうか、お願いよ」

 その言葉を最後に、ツツジから話しかけてくることはなかった。

 

 ***


 夢を見た。

 もう二度と見たくないと願った、過去の日の悪夢だ。

 学校から帰ると、その日は母親がいなかった。

 どうせ買い物にでも行ったのだろうと、俺は気にすることなく大好きな花の世話をしていた。

 でも、結局母が家に帰ってくることはなかった。

 浮気だったのだ。

 しかも相手は父の勤める会社の社長。

 最後に見た母は、涙ながらにずっと言い訳をしていた記憶がある。

 俺のためだったのだと。

 大学進学にかかるお金や就職先のコネが欲しかったのだと。

 何度も何度もそんなようなことを言っていた。

 もちろん、それがその場凌ぎの見苦しい言い訳であるのは明白なのだが、当時の俺はその言葉を間に受けてしまったのだ。

 俺のために母は浮気をし。

 俺のせいで家庭は崩壊したのだと。


 ***


「うぁーー朝か?」

 この上なく不快な目覚めだった。

 かなり早くに寝たことが返って仇になったようで、全然寝た気がしない。

 頭は痛いし、空腹だし、気持ち悪い。

 はっきり言って最悪だ。

「……ツツジ?」

 なんとか体を布団から起こして、部屋の中を見渡すが、どこにもツツジの姿は見当たらなかった。ベランダの窓の鍵が掛かっていないので、俺が目覚めるより前に出ていったのだろう。

 酷いことを言ってしまった手前、いないことに胸を撫で下ろしている心境は複雑なものだったけど。

 代わりに、目に止まるものがあった。

 コタツの上に置かれた携帯とスミレからの手紙。そして、鮮やかな紫の花びらを持つ、一輪のアイリスだった。

 アイリスの花言葉は「良い便り」「信じる心」「希望」などがある。

 きっと、ツツジなりの激励げきれいなのだろう。

「……」

 とはいえ、俺の中にはまだ強い抵抗があった。

『しばらくは離れて過ごしてくれ。お前の顔を見ていると、アイツの顔を思い出してしまうんだ』 

 親権を勝ち取った直後、疲れ切った様子で告げる親父の言葉と顔が、俺の脳内にこびりついていたのだ。

 無意識に固唾を呑み。

 携帯を操作する指はカタカタ震えていた。

 それでも、操作する手を止めなかったのは、昨夜のツツジの言葉と眼前のアイリスに背を押されたからだ。

「……はははっ、なんだよ、これ」

 目を通してしばらくも経たず、俺の口からは笑いがこぼれていた。

 昨日届いた最新の一件の内容は、仕送りの連絡とーー俺の体調を気遣うものだったのだ。

 他の未読メールをいくつか開封して見れば、俺への謝罪や近況報告。果ては「また一緒に暮らさないか?」といったものまであったのだ。

 てっきり、俺に対する恨み辛みや罵詈雑言ばりぞうごんが書かれているものだと思っていた。

 でも、そうじゃなかった。

 そう思っていたのは、思い込んでいたのは、俺だけだったんだ。

「こんなことなら、さっさと読んでいればよかったんだな」

 何もかも、ツツジの言う通りだ。

 今の俺を見たら、きっと盛大なドヤ顔をするに違いない。

「あとはこの、ラブレター、だよな?」

 自然と、俺の手はスミレからの封筒に伸びていた。

 情けない話だけど、俺がこの手紙を読めなかったのは怖気付いていたからだ。

 疑心暗鬼ぎしんあんきに取り憑かれていた俺の目には、これがイタズラや罰ゲームの類にしか見えなかったのである。

 スミレは環境委員の中でも一二を争うほどに人気のある女子で、そんな子が俺なんかに好意を抱くわけがないと思っていたのだ。

「……これは、ちょっとーーいやかなり、恥ずかしいな」

 だが、そんな馬鹿馬鹿しい疑念は、読んでしまえば驚くほど簡単に一蹴できてしまった。

 俺を好きになったきっかけとか。

 俺のどんなところに惹かれたとか。

 一文字一文字がとても丁寧に書かれていて、到底イタズラや冗談で書けるものではないことは俺でもわかった。

「ーーよしっ!」

 読み終えた手紙をコタツの上に置き、俺は自分の両頬を力一杯叩いた。

 ジンジンとした痛みが目を覚まし、気合が入る。

 手早く身支度を済ませ、玄関の扉を開ける。冬の朝は肌寒くも澄んでいて、日差しに照らされた世界はどこか輝いて見えた。

 体が、肩が、足取りが、不思議と軽い。

「じゃあ、行ってくるわ」  

 誰もいない部屋に向かって、俺はそう告げる。

 なんとなくだけど、ツツジに見られている感じがしたのだ。


 ◇◆


 死の間際、彼は私に己が本心を口にした。

 その人生が、その最期が、あまりに孤独であることを嘆いたのだ。

 もっと素直に、心開いていればと涙を流したのだ。

 そんな彼を前に、私は戸惑うことしかできなかった。

 声をかけられないまま、死にゆく彼を見ていることしかできなかった。

 それが、遠い過去の私の後悔だった。


 ◆◇


 放課後。

 環境委員の活動として花壇に行くと、すでに先客がいた。

 ソワソワと落ち着かない様子で、でもしっかりと花壇の手入れだけは怠っていない、スミレの姿がそこにあったのだ。

「ーーあっ!」

 眺めていたら、スミレがこちらに気づき、立ち上がる。

 気恥ずかしさに頬を指で掻きつつ、俺の方から歩み寄った。

「手紙、読んだよ。すごく嬉しかった」

「あ、ありがとうございます! あの、それで、お返事を聞いてもいいですか?」

「それなんだけどーーゴメンっ」

「えーー」

「あ、いや、違くて! 俺としても君と付き合えたら嬉しいんだけど、でも、なんていうか、俺は友達もいなくて、正直なところ。人付き合いに自信がないんだ」

 初めてとはいえ、なんともヘタレかつ酷い返事だと頭を抱えたくなる。

 一瞬とはいえ、スミレに悲しい顔をさせたのは悪手以外のなんでもない。

 気を取りなおすため、深呼吸。

 そして、真っ直ぐに俺はスミレを見つめた。

「まずは友達になってくれないか? それで、今度は俺から気持ちを伝えさせてほしい」

 俺の言葉にスミレは目を丸くし、何度か瞬きをする。

 けれど、数秒と経たず、

「私も、それが嬉しいです」

 柔らかくはにかみ、頷いてくれた。

 良かった。

 安堵に胸を撫で下ろした矢先、背後から聞き慣れた鈴の音が聞こえた。

 驚き、振り返るが、そこにツツジの姿は見当たらない。

「どうかしたんですか?」

「いや、今そこに猫がいなかったか?」

「猫ちゃんですか? 私は見ていませんけど」

「……そうか、気のせいだったかもしれないな」

 普通ならそれで済むかもしれないが、なにせ相手はあのツツジだ。

 気のせいではないと考えたほうが無難だろう。

「はぁ、仕方ないなぁ」 

 いつも通りのツツジなら、間違いなくからかってくるに違いない。

 昨夜の謝罪と感謝も兼ねて、高級猫缶でも買って帰ろう。

 その時の俺は、呑気にもそんなことを考えていたのだった。


 ◇◆


 2年前。再会した彼は、ちっとも変わっていなかったのだ。

 見た目も。

 性格も。

 その境遇さえも。

 まるで、神様が私に二度目のチャンスを与えてくれたようで。

 嬉しさのあまり、私はつい話しかけてしまったのだ。

 失敗したと思った。

 怖がられて、逃げられると思った。

 でも、驚くべきことに彼はすんなりと受け入れてくれた。

 それどころか、以前はできなかったお喋りをたくさんすることができた。

 彼を救いたいと過ごした2年間。

 私が彼に救われた2年間。

 私が生きた長い年月を思えば、それこそ瞬くような時間だったけど。

 確かに満ち足りていたのだ。

  

 ◆◇


 その日の、夕方の七時をまわった頃。

 俺は息を切らし、額に汗を浮かべながら、懐中電灯かいちゅうでんとうを片手に街中を駆け回っていた。

 あの後、スミレと環境委員の仕事を終えた俺は、スーパーで高級猫缶を買って帰宅。しかしツツジの姿は依然としてアパートになく、代わりにあるものが目に止まったのだ。

「本当に、どこ行っちまったんだよ」

 コタツの上に、アイリスとはまた違う花が置かれていたのだ。

 蝶の羽に似た花びらを持つ、スイートピーだった。

 その花言葉は「門出」「別離」といったもので、内容としては前向きな意味が強いのだけど、どうにも嫌な胸騒ぎがしたのだ。

「カエデ先輩?」

 不意に声をかけてきたのはスミレだった。

 その両隣には友人と思しき女子が2人いて、俺と再会したスミレを肘でつついて冷やかしていた。

 ただ、俺には恥ずかしがっている余裕はなく、スミレもそんな俺の切羽詰まった様子にすぐさま気づいてくれた。

「何かあったんですね?」

「ああ、うちの猫が家出して、戻ってないんだ。鈴付きの首輪をした黒猫なんだけど、見ていないか?」

 俺の切実な問いかけに、スミレたち3人は顔を見合わせ、首を横に振る。

「行きそうな場所に心当たりはないんですか?」

 次は俺が首を横に振る番だった。

 胸が締め付けられるように痛かった。

 2年も一緒に過ごしていたのに、俺はあまりにもツツジのことを知らなかったのだ。ツツジはいつも俺のことを気にかけてくれていたというのに。

「ーー待てよ」

「心当たりがあるんですね?」

「ああ、あそこしかない」

「じゃあ私も手伝います」

「……いいのか?」

 俺はスミレの友人2人に視線を向ける。するとその二人ともが「大丈夫です!」と声を揃えて言ってくれた。

「すまん、助かる」

「早く行きましょう。どこですか?」

 一つだけ、思い当たる場所。

 まだ探していなくて。

 最後にツツジの気配があったところで。

 ツツジと初めて出会った、思い出の場所。

「学校の花壇だ」


 ◇◆


 色々と無茶をしたせいか。

 はたまた役目を果たしたことへのほころびか。

 理由はなんであれ、私の身体は限界が近かった。

 もう、まともに喋ることすらできない状態だ。

 優しい彼は、きっと傷つき、悲しむだろう。

 不謹慎ふきんしんながらもそれを嬉しく思う私は不孝者ふこうものなのかもしれない。

 だから、贈り物を用意しようと思う。

 万感ばんかんの思いを込めて。 


 ◆◇


 ようやくツツジの姿を見つけた俺は、自分の目を疑った。

 持っていた懐中電灯が手の中から滑り落ち、カシャンと耳障りな音を立てる。

「……冗談、だよな?」

 屋外灯の下にある花壇。

 咲き誇る花々に囲まれるように、一匹の猫が横たわっていた。

「なぁ、ドッキリか何かなんだろ? そんなことしてると、お前が散々欲しがってた高級猫缶やらねぇぞ?」

 駆け寄り、ツツジに触れると、その体は雪のように冷たかった。

 目を開けず、口も開かず、その首輪の鈴がチリチリと音を立てるだけだった。

「あ、ああーーあああぁぁああぁぁぁぁぁあぁぁぁっああっ!」

 俺は、動かなくなったツツジの体を抱きしめて、慟哭どうこくした。 

 思えば、朝のアイリスの時点で違和感に気づくべきだった。

 アイリスもスイートピーも、開花時期は春なのだ。

 品種や温室などの条件を整えれば咲かせることはできなくもないが、そもそも外見が猫であるツツジが用意できるのはおかしい。

『魔法を使うなんて、そんな死ぬほど疲れること願い下げよ』

 あの言葉は、冗談ではなかったのだと思い知る。

『カエデが望むなら、もう黙るわ。静かにしてるし、話しかけたりもしない』

 その通りにーー否、俺にとっては言葉よりも強い形で。ツツジは背中を押してくれたのだ。

『ねぇカエデ、少しでいいから素直になれない? このままだといつかきっと後悔する日がくるわよ』

 本当に見透かされていたのだ。

 母親に捨てられて。

 親父にも嫌われていると思い込んでいて。

 花だけでは埋められない孤独を、寂しさを、俺でさえ気づいていなかったことを、ツツジは知っていたのだ。

 帰宅時、おかえりと言ってくれるのがとても嬉しかったんだ。

 くだらない内容をたくさん話してくれるのが楽しかったんだ。

 一緒にいてくれるだけで、幸せだったんだ。 

「カエデ先輩」

 いつからいたのか、スミレが俺の肩を叩く。

「俺、こいつに何も伝えられなかったんだ。何もしてやれなかったんだ。感謝も謝罪もーー好きだってことも」

 失って気づくなんて、チープな言葉が頭の中をぐるぐると巡り、もう言葉と想いが伝えられないという後悔に、俺は押し潰されそうだった。

「先輩、違います」

 なおもスミレが肩を叩いてくる。

「顔を上げて、よく見てあげてください」

 促されて、俺は顔を上げる。

 目に映ったのは、ツツジの周囲で咲いていた雪のように白く美しい花だった。

「信じられません。これ、アザレアですよね?」

 スミレが驚くのも無理はない。

 眼前に咲くアザレアは、環境委員の活動でも植えた覚えがなく、開花時期も違う花なのだ。

「ああ、信じられないかもだけど、こいつは魔法が使えるんだ」

 目から溢れ出る涙が止まらない。

 喉の奥が熱く、絞り出す声は漏れなく震える。

 それでも、俺は白のアザレアに笑顔を向け、ツツジを抱く腕に力を込めた。

「まったく、見透かしやがって」

 その花言葉は「充足」と「満ち足りた心」ーーそして、「あなたに愛されて幸せ」である。

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